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3、印南さんのいない独り立ち
私は高校、短大とひとなみに進学して、印南さんが家に来て10年め、大手企業の地元営業所に就職することになった。
「お嬢さんもいよいよ社会人だってね。おめでとう」
朝起きて冷蔵庫を開けると、印南さんがしんみりした口調で言った。
うちに来てから学習した積み重ねとアップデートにより、印南さんはますます人間らしいキャラクターになって、時には酔っぱらって帰宅した父に小言を言ってケンカすることさえある。
「ありがとう。でも家を出るわけじゃないから」
私はヨーグルトを取り出して、扉を閉めた。
両親には私しか子供がいないこともあって、とくに独立するとか巣立つとかいう感覚はなかった。このまま実家住まいで何ら問題ない。そのうち結婚でもすれば出て行くかもしれないが、そんなのはまだまだ遠い未来のような気がしていた。
だから、研修が終わって本社勤務を命じられた時は頭が真っ白になった。
「とりあえず3年間、東京で頑張って来て下さい」
入社するまで知らなかったのだが、地元営業所は縮小されることになっていたらしい。人事担当者の言う「3年間」が過ぎても、ここに戻って来れるかどうかあやしいものだ。
「せっかく大手に就職できたんだから」
母は東京行きを勧めた。
「いや、会社は他にもあるから辞めろ」
父は反対した。
だけど、辞めるにしても研修を終えたばかりで退職したら、次の就職に差し支えるんじゃないかと心配で、東北や関西の営業所に行かされる同期もいたが、誰も辞めるとは言っていない。
「東京ならそう遠くないし、私はまだマシな方」
そう考え直し、辞令通り本社に勤めることにした。
心を決めると、都会暮らしができることにワクワクしはじめた。テレビや雑誌で見るようなおしゃれなお店や楽しそうな催しに好きな時いつでも行けるというのは魅力的だった。それに、地元ではあの子の親が誰で学校はどこと皆が知っているほど人間関係が濃くて、何をするにしても人の目が気になっていたが、東京なら私のことなど誰も知らず、放っておいてくれそうな気がする。ちょっとぐらい派手な服を着たって、注目もされないだろうし変な噂になることもないだろう。
私はその月のうちに、会社が寮として借りているマンションへと、父の運転するレンタカーで引越した。
「何かあったらすぐ連絡しろよ。夜道には気ぃつけろ」
「大丈夫、わかってるから」
「しんどくなったらいつでも帰って来い」
「はいはい」
父は涙目でくどくど言い残し、地元に帰って行った。
こうして初めての独り暮らしがはじまり、その夜は休みになったらどこへ行こうとスマホでチェックし、気になった場所やサイトを沢山ブックマークしておいた。
翌日から本社勤務がスタートしたが、覚えなければならない仕事が山ほどあって、帰宅する頃にはくたびれ果てて自炊もままならなかった。
土日に出かける気力も体力もなく、一緒に遊ぼうと誘えるような相手も近くにいない。でも、最初は誰だってこんなものだろうと思っていた。
「野菜、送ってやるけ? 都会は高いだろ?」
母に電話で聞かれたが、今は送られても料理してる余裕なんてない。
「欲しい時は言うから、まだいいよ」
なぜだか印南さんのことを思い出し、ちょっと実家が懐かしくなった。
このマンションにも冷蔵庫はあるが、オーシマ電気のものではない。控えめなモーター音がしているだけで、もちろんしゃべったりしない。
電話を切った私は冷蔵庫を開け、ペットボトルのお茶や袋ごと突っこんだ食パンしかないことにがっかりした。自分で買ってきて入れない限り、この中に食材が出現するはずはなく、印南さんのいない冷蔵庫には、今どんな栄養を取ったら疲れが取れるのかも教えてもらえない。
「しんどいなぁ……」
私は独りでつぶやいて、何も取り出すことなく扉を閉じた。
満員電車に揺られて会社へ行き、慣れない業務に追われ、おしゃれでスマートな同僚達に気後れしながら1日を終え、部屋に帰ればコンビニ弁当、それからざっとシャワーを浴びて寝るだけ。
気が付けば5キロも痩せていて、肌も髪も荒れてツヤがなくなってしまった。
「無理してるんじゃない? 大丈夫?」
いかにも都会のきれいなOLさんという感じの先輩が優しい言葉をかけてくれても、弱音なんか吐けないと思った。つらいと話しても、こんな人には理解出来ないだろう。そもそも、自分でも何がこんなにつらいのか、はっきりわからないのだ。
「少し慣れてきましたから、だいじょうぶ、です」
だいじ、と思わず地元の言葉で言いそうになり、あわてて修正する。
「そう? 何かあったら遠慮しないで言ってね」
その先輩はいつも優しかったが、私は心を開くことが出来なかった。同期も同じ部署に何人かいたが、最初から本社採用だった彼らは大卒ばかりで、何となく近寄りがたい。
「出身、栃木でしょ?」
男の同期と2人で会議の準備をしている時、そんなことを言われた。からかうようなニュアンスだった。
「はい、そうですけど」
同期といっても、私は短大卒だから2歳も年下で、つい敬語でしゃべってしまう。
「やっぱりそうなんだ。なまってるもんね」
言われた瞬間、カッと頭に血が上った。
何と返していいかわからず、恥ずかしさと腹立たしさで赤くなった顔をそむける。
自分では標準語を話しているつもりだった。方言らしい方言は使っていないと思うが、イントネーションだけはどうにもならない。
「馬鹿にしたとかじゃないよ?」
彼は取ってつけたようにそう言ったけれど、半分笑いが混じっていた。
「おれの大学にも何人かいたからさ。九州とか東北の人なんかは完全に切り替えてしゃべれるみたいだけど、関東だと意味は通じちゃうわけだから、逆に難しいらしいよね」
「はぁ……そうですか」
「でもこっちで長く暮らしてれば、そのうちなまり取れてくると思うよ」
悪気はないのだろうが、何だかむかむか腹が立った。
地方のなまりを病気と同じ感覚で「そのうち治るよ」となぐさめるのが、どれほど失礼なことかわからないのだろうか。思わず彼のネクタイを引っつかんでどやしつけたくなるのを、かろうじて理性で押し止めてひきつった笑いを顔に浮かべ、手に持った資料の束をバサバサ音を立ててテーブルに並べていった。
「お茶の用意してきますね」
同僚の顔も見ず言い残すと、私は会議室を出た。ちゃんと標準語で言えたかどうか自信がない。にじんでくる涙の理由が、怒りなのか悲しさなのか、それとも悔しさなのか、自分でもよくわからなかった。
その日を境に、私は職場であまりしゃべらない人になった。
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