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朧月夜のキス
しおりを挟む「また来年、この月の下で」
その言葉が終わらないうちに、ユウのからだは闇に融けて消えてしまった。
いつものように。
「ユウ、またね」
わたしの頬をつたう涙は、手に持つ小さな花束にしたたりおちて夜露とまじりあっていく。
ユウがくれた黄色く可憐な菜の花。わたしの名前「花菜」の字をひっくり返した花。
「元気いっぱい」
「快活な愛」
「豊かさ」
そんな花言葉まで逆さまだった。
勉強も運動も自信なんか少しもない、痩せっぽちで気弱な女の子。それがわたしだった。
「お父さん、どこ行ったの?」
小学生のころ、高熱でしばらく寝込んだあと目覚めると、わたしの両親はいなくなっていた。
「かわいそうだけど死んでしまったんだよ。でも、空から見守ってくれてるからね」
祖母だけが傍にいてなぐさめてくれた。
わたしはお父さん子だった。急にいなくなったことが受け入れられず、会いたくて何度も泣いた。祖母だって、一人息子を亡くしたのだから、相当つらかったに違いない。
父の死後、母は都会で働いて稼ぐためにわたしを祖母に預けた。手紙やプレゼントはよく送ってよこしたけれど、会いには来てくれなかった。
ほそぼそと果樹園をいとなむ祖母と、古くて小さい家での二人暮らし。両親に不自由なく守られている同級生たちに対し、引け目を感じないでいるのは無理なことだった。わたしは次第に、教室のすみで静かにしているだけの、どうしようもなく目立たない子どもになった。
ユウと出逢ったのは、そんな暮らしが一年ほど続いたころだ。
春彼岸の中日。春分の日。その日は父の命日でもあった。
祖母が風邪で熱を出したので、わたしは独りで父の墓参りに行くことにした。
「火の始末に気をつけるんだよ」
心配する言葉に素直にうなずき、お供えの品を抱えて墓地へ向かう。
記憶にある父は愛情深く頼りがいのある存在だった。若くして亡くなった父への思慕は、わたしのなかで大きな割合を占めており、たとえ幽霊でもいいからもう一度会いたいと願う気持ちがあった。
彼岸とはいえ午後も遅い時間だったので、墓地は閑散としていた。誰にも会いたくなかったので丁度よかった。
「泣いているの?」
線香をあげているとき、背後から不意に声をかけられた。ふりむくと、小さな黄色い花束を手にした少年が立っていた。
同じほどの年ごろ。わたしより少し背が高くて、白いシャツを着ていた。
一瞬、幽霊かと思ったけれど、それにしては存在感がありすぎる。やさしげな顔のなかで、三日月のように細められた美しい目が潤んでいる。長いまつ毛も濡れていた。
「泣いているのはあなたの方でしょう?」
わたしがそう言うと、少年は微笑んで、菜の花を差し出した。
「これ、あげる」
戸惑うわたしの手を取ってそれを持たせると、少年は走り去ってしまった。触れた手に温もりがなかったら、本当に幽霊だと思ったかもしれない。
わたしはその小さな花束を持ち帰って部屋に飾った。
翌年のその日は、祖母と一緒にお参りしたが、わたしは口実を作って独り残った。あの少年にまた逢えるかもしれないと思ったのだ。
あのころのわたしにとって、ユウとの出逢いは特別なものだった。
どこの誰ともわからない少年に花束をもらった――ただそれだけのことが、変わりばえしない日々を、どれほど鮮やかに彩ってくれたことか。幾度も思い出し、そのたびに胸に灯がともるようなあたたかさを感じた。
「まだ帰らないの?」
少年が現れたのは夕陽が辺りを染めるころ。
去年と同じ白い服。手には小さな黄色い花束。
わたしは引っ込み思案で人見知りするたちなのに、彼とはうちとけて話すことができた。学校のこと、祖母のこと、母のこと、そして父のこと。ユウと名乗った少年は、とりとめのない話を優しい笑顔で聴いてくれた。
やがて黄昏時も終わるころ、思い切ってユウに尋ねた。
「また会える?」
東の空に朧な月が浮かんでいた。
ユウは困った顔をして、わたしを見つめた。なぜか悲しそうな目をしていた。
「僕は人間じゃないんだ」
ほっそりしたユウの立ち姿は、ほんのり闇色に染まり……いや、染まるというより、闇に融けかかっていた。
「こわがらないで」
ユウは花束を差し出し、わたしは両手で受け取った。その間にも彼はどんどん透明になっていく。
「来年また来るよ。もし逢いたいと思ってくれるなら……」
言葉が終わらないうちに、ユウは闇に呑まれるように消えてしまった。
翌年も、その翌年も、わたしは黄色い花束を手に現れる少年に逢いに行った。
ユウをこわがる理由なんてない。灰色の日々のなかで、ユウがくれる花束だけが鮮やかな色を見せてくれるのに。菜の花を想うたびに、凍えそうなわたしの心は暖まっていくのに。たとえ人間でないとしても、こわくなんてなかった。
それに、年に一度逢うたび、わたしたちは等しく成長している。同じ時間軸で生きていると気づいたとき、たまらなくうれしかった。
六度めに逢ったときのユウは、青年とよぶには早すぎるとしても、もはや少年とはいえない姿になっていた。
ふつうの、まわりの男の子たちとは、まるでちがう。人間のようでいて、人間ではないユウ。
その姿はいつしか、花束がもたらす温もりより熱く、わたしの心を燃やすようになっていた。
ユウといつでも逢えるのなら。
あなたと同じ世界にいられたなら。
そう願わずにはいられなかった。
「あいしてる」
わたしは儀式のように、夜毎となえて眠りにつく。
「あいしてる」
本人に言ったことはないが、口にするたび、不思議な力をもらえるような気がした。
もうすぐ七回めのその日がやって来る。
わたしは十七歳になった。
祖母が亡くなったのは、わたしの誕生日の翌朝のことだった。
前の晩、ささやかなごちそうとケーキで祝ってくれた祖母。
おやすみと笑顔で言いあって、灯りを消した。いつもの夜と同じだったのに、夜が明けたら、祖母は布団のなかで冷たくなっていた。
近所の人たちの手を借りて簡素な弔いが営まれ、わたしは数年ぶりに母と会った。
「花菜、私のところで一緒に暮らしましょう」
納骨が済んだお墓の前で、切り出された。
「……ここに居たい」
精いっぱいの意思表示だった。
「一人暮らしなんてさせられないわ」
母は目を赤くし、沈んだ表情をしていた。
「いずれちゃんと話さないといけないけど、あなたに手伝ってもらいたいことがあるの」
仕事が忙しいので家事を任せたい、ということだろうか。
「お友達と別れるのは、さびしいかもしれないけど」
わたしに友達とよべる相手がいない可能性など、母は考えてもいないようだ。
「高校やめて働いてもいいから、ここを離れたくない」
そう言うと、母は泣き崩れてしまった。わたしはこれ以上あらがえないことを悟った。
結局、春休みのうちに母のところに転居して、新学期から新しい高校へ通うことになった。
ここに居られるのは三月末まで――都会は遠く、そこで母と暮らす自分を想像するのは難しい。それでも、わたしは自分の荷物をまとめ、祖母の遺品を整理するしかなかった。
使いこんだ食器や買い置きの日用品など、片付けていると涙があふれた。古い写真を見つけ、じっくり眺めているうちに日が傾いてしまう日もあった。夜には、祖母の残り香のするカーディガンを抱きしめて眠りについた。
そして暗闇のなかで、泣きながら目を覚ます。
祖母が逝ったかなしみ。ここを離れるさびしさ。意思を通しきれなかった自分のふがいなさ。ユウのこと。涙の理由はいくらでもあった。
「もうすぐ……」
ユウに逢える日が近いことだけが、わたしにとって唯ひとつの灯り。
早く逢いたい。でも今回は、逢うのがこわい。
祖母が裁縫箱の底に隠していた一枚の写真を、わたしはみつけていた。
それを目にしたときの、まるで雷にうたれたかのような衝撃――それは、わたしのなかに眠っていた「都合の悪い記憶」が目を覚ましたことによる衝撃だった。
もし、わたしが思い出した全てを話したら、ユウは何と言うだろう?
遠くに引越すのだと言ったら、どんな顔をするだろう?もう逢いに来れないかもしれないと告げたら、さびしがってくれるだろうか?かなしいと思ってくれるだろうか?
ユウを憂い顔にさせたくないと思う一方で、わたしのために涙を流してくれるのを望む自分がいた。
「そろそろ迎えに行くわ」
彼岸に入ると母から電話がきた。
「ちゃんと顔を見て話したいことがあるの。大事なことよ」
記憶がよみがえったことで、わたしは察することが出来た。
たぶん父のことだろう。祖母が語らなかった父の死の真相……そしてきっと、ユウのことも。
その夜、わたしは祖母の布団にくるまって泣き明かした。
母がどうして会いに来なかったのか、今ならわかる。わたしは母にあいされていないかもしれないけれど、それを特別つらいとは思わなかった。
それよりも、もしユウに「逢えなくても平気」と言われたら、そのほうがずっとつらい。彼が姿を現してくれるのは、わたしをあいしているからだと思いたかった。
たとえそれが、わたしが望むかたちの愛ではなかったとしても。
「遅くなってごめん」
その日、ユウは朧な月が昇りはじめるころ闇から浮かびあがった。
かすかに白い霞みのようなものが、細長いシルエットに変わり、そこから抜け出すように姿を現してくる様子が、ひどく幻想的だった。
「今年も会えてうれしい」
ユウは夜目にも紅い唇でやさしい言葉をささやく。
白いシャツ、手には小さな黄色い花束。いつもと変わりないいでたちだが、ユウは前の年より大人に近くなっていた。
生身の人間のような存在感をもちながら、生命活動の痕跡がない。肌に温もりがあっても、吐く息から命の匂いはしない。
それでも、わたしはユウをあいしているのだと、そう思い知らされて泣きたくなった。
「わたしも逢いたかった」
三日月のようにやさしく細められた切れ長な目を、わたしはじっと見つめる。
こんなに特徴のはっきりした目なのに、どうして思い出さなかったんだろう?
祖母が隠していた写真のなかに、別人のように明るく笑うわたしとユウがいた。二人とも幼いとは言えない年齢で、最初に墓地で逢ったときとそう変わらない姿だった。
その写真を見た瞬間、わたしのなかでぐるりと世界が転換するのを感じた。
父はどうして死んだのか。わたしが誰にも尋ねなかったのはなぜなのか。
友だちは「出来ない」のではなく、望んで「作らなかった」のではないか。「真実を知らされたくない」という卑怯な気持ちが、わたしのなかにあったからではないのか。
「ずっと忘れてて、ごめんね」
口にするのはつらい。だが、黙っているわけにはいかなかった。
「お兄ちゃん」
三日月の目がゆっくりと潤んでいく。
「思い出したの?」
ユウは静かに口をひらいた。
「お父さんが僕を殺そうとしたことを」
わたしのなかで、父はヒーローのような存在だった。
頭が良くて、よく勉強を教えてくれた。運動会では誰よりも活躍して注目を集め、たくさんの友達に囲まれた人気者なのに、わたしが困っているとすぐ気がついて飛んで来た。家でも学校でも、一緒にいることが当たり前のかけがえのない存在で……だけど、父はふつうのサラリーマンで、いくら娘を可愛がっていても一緒にいられる時間は限られていたはずだから、その記憶は現実にはありえないことだらけだ。
では、それはいったい誰についての記憶だったのか――失うことに耐えられず、存在ごと忘れ去ってしまった「兄」のものであった。
彼の名は優生と書いてユウ。わたしより二か月早く生まれた母方のいとこだったが、赤ちゃんのうちに両親を亡くしたため、兄妹として一緒に育てられていた。
優生は九歳のとき、父の手によって高い橋から川へ投げ落とされた。父はヒーローどころか、娘の目の前で義理の息子を殺そうとしたひとなのだ。それなのに、わたしはにせものの記憶で父を美化してしまった。自分だけ苦しみから逃れるために……。
「忘れたままでよかったのに」
さびしげな微笑みを浮かべたユウの目から、ひとすじの涙が頬をつたって流れる。
わたしはそれをうつくしいと感じ、胸の高鳴りをおさえるのはとても難しいことだった。
――なぜこんなにも惹かれてしまうの?
心臓をぎゅっとつかまれたようで、息をするのさえ苦しい。
なにもかも消極的でひかえめな自分のなかに、こんな激情があるなんて……わたしはユウから目がそらせなかった。
涙でにじんだ視界のなかで、ユウが手にした菜の花の黄色だけが鮮やかだった。
あの日、わたしたちは堤防の土手に群生する菜の花を見に行った。
一面に咲き広がる鮮やかな黄色にはしゃぐわたしに、優生は摘んだ花で小さな花束を作ってくれた。
「花菜に一番似合う花だよね」
微笑む優生がうれしくて。
わたしは取り返しがつかないことをしてしまったのだ。そのことを思うと、後悔で胸が張り裂けそうになる。
早春の夕暮れ、父に無理やり引きずられていく優生を泣きながら追いすがった記憶。鬼のような形相の父は橋の欄干をこえて優生を川へ落としたが、はずみで自分も転落して死んだ。
一部始終を見たのに、都合よく記憶を作りかえて生きてきたわたしの罪は、けっして軽いものではない。
「わたしは優生につぐなわないといけない」
泣いたって今さらどうしようもないのに、涙が流れて止まらなかった。
「なんでそんなこと言うの?」
戸惑いを見せながら、ユウはわたしの頬に触れた。
「花菜は悪くないのに」
そっと涙をぬぐう指先のやさしさに、わたしはこらえきれなくなってユウの胸に飛び込み、背中に手をまわして抱きしめた。じんわりと温もりが伝わってくる。
ユウは動揺したように身を引き、わたしを押し戻そうとした。
でも、それはささやかな弱い力でしかなく、一拍おいた後、逆に思いがけないほどの強さでわたしを抱きしめてくれた。息苦しいほどの抱擁だった。
「花菜」
ふりしぼるようなユウの声が耳元をかすめる。
「あいしてる」
わたしの心がじわじわと幸福感で満たされていく。
ユウのなかに、わたしの望むかたちの愛があった。それがわかった喜びは、はかりしれないほど大きなものだった。
「ずっと花菜のことが心配で、どうしたら逢えるんだろうって考えてたんだ。そしたらあの日、急に体が軽くなって……ここに」
ユウの声は震えていた。
「来れるのは一年に一度がやっとだから、人間じゃないふりをした」
ユウは抱擁をといて、至近距離からわたしの顔をのぞきこんだ。どうしようもないぐらい胸が高鳴る。
「でも、いつかは花菜の前から消えないといけない……現実の世界で好きな人と幸せになって欲しいから」
やさしくて、悲しい色の目をしていた。
「ユウ以外の人を好きになるなんて、ありえないよ」
わたしはユウの白い頬に右手を伸ばす。肌はひんやりしていたけれど、その奥には生きている人と同じ温かみが確かにあった。
ユウはわたしの手を包むように左手を重ねた。目を伏せて苦しそうな息をひとつ吐き、それからゆっくりと、ためらいがちに顔を近づけてきた。
朧月夜の下、くちびるを重ねて、わたしたちは一つの影になる――あのときと同じように。
「あなたをあいしてる」
初めて本人に告げた。
「小さいころも、こうして逢うようになってからも、わたしが好きになったのはユウだけ。一年に一度しか逢えなくてもいいから消えてしまわないで」
「……だめだよ」
ユウはわたしから離れて後退り、くるりと背を向けた。肩が細かく震えている。
「僕じゃ花菜を幸せに出来ない」
「そんなの望んでない。ユウに逢えないこと以上の不幸なんてないもの」
たとえ二人の世界が同じでなくても、はじめて逢ったあの日からずっと、ユウと過ごせるこのわずかな時間だけが、わたしにとって唯ひとつの希望だったのだ。
「またユウに逢えるって、そう思うだけで幸せな気持ちになるのに」
震えを止めてあげたくて、わたしはユウの背中をそっとさすった。
「でも」
ユウは消え入るような小さな声でつぶやいた。
「本当の僕が今どうなってるか知らないだろう? 見たことないだろう?」
わたしは絶句した。
ユウは父と一緒に死んだのでは、なかった?
「どういうこと?」
わたしの問いに、ユウは答えてくれなかった。もう体が闇に融けかかっている。
「お母さんのところに行ったら、本当の僕を見られるよ。それでも逢いたいと思ってくれるなら……」
ユウは涙に濡れた顔でふり向き、わたしを見つめた。
「また来年、この月の下で待ってる」
「待って、まだ行かないで!」
「花菜、ごめん」
ユウは悲壮な表情を浮かべたまま消えた。
それからの日々は目まぐるしいものだった。
母とのぎこちない生活にも少しずつ慣れ、わたしは本来の性格を取り戻しつつある。
あの後、記憶を取り戻したことを母に打ち明けた。泣きながらお互いの話を交わして、真相が明らかになった。
母には弟がいて、唯一の身内だったという。その弟が妻とともに事故で亡くなり、生まれたばかりの息子が遺された。そのとき母も臨月だったが、迷わず引き取って育てることにした。
それが優生だった。
母にとって優生はかけがえのない大切な存在で、亡き弟の分まで幸せにしてやりたかったという。しかし、父にとってはそうではなかった。娘のために用意した品々を惜しげもなく優生に与える母に、父は不満を隠さなかったそうだ。
そして、わたしたちが成長するにしたがって、父の態度はまずますひどくなった。ささいなことで幼い優生を怒鳴りつけ、無視し、ときには手を上げもした。もちろん母は黙っていなかったが、父は邪魔者扱いをやめなかったそうだ。
とりわけ父が嫌がったのは、わたしが優生に頼りきりで慕っていることだった。
両親のあいだの溝は埋めようもないほど深くなり、離婚寸前だったという。
「優生を殺そうとしたあのひとを許せなかった。だから、お墓も行けなかったの」
そんな母の苦悩も知らず、わたしは都合よく父の思い出を書き換え、被害者のような顔で祖母に守られていたのだ。
あのとき、優生は「花菜のためなら何でもできる気がする」と照れくさそうに言った。
「大人になっても一緒にいてくれる?」
わたしが尋ねると、彼はうなずいた。
「じゃあ、お嫁さんにして」
優生は笑って、いいよと言ってくれた。わたしはうれしくなって舞い上がり、彼に抱きついてくちびるにキスしたのだ。
まだ子どものくせにと思うと、我ながら嫌悪感をおぼえる。さらにそれを父に見られたなんて、悔やんでも悔やみきれない。
父は離婚することで、わたしを優生から引き離すつもりでいた。そうまでして仲を裂きたかった子ども二人がキスしていた……逆上しても仕方ない場面だったと思う。わたしには、取り返しのつかない結果をまねいた責任がある。
今なら、後悔にさいなまれても罪と向き合うことはできる。でも九歳のわたしにはできなかった。
母によると、事件直後のわたしは自分のせいで父が優生を殺したと半狂乱だったそうだ。そして意識を失い、高熱を出して衰弱し、次に目覚めたときには優生の記憶をすっかりなくしていた。 事情を知った祖母が、つらいことは忘れたままにしてやりたいと強く望み、わたしを手元に引き取ったのだという。
祖母に任せきりにしたことを母は詫びてくれたが、こうなった原因や、すべて忘れていたことを思えば、逆にわたしこそ詫びなければならないだろう。寂しかったなどとは口が裂けても言うべきじゃない。
なにしろ母は、脳に重い障害を負ってしまった優生の面倒を看なければいけなかったのだから。
わたしは母の暮らす街の郊外で、本当の優生に会った。
そう広くない施設の個室で見た彼は、等身大のうつくしい人形のようだった。
自力で起きあがることはおろか、指先すら自由に動かせない。声も出せない。意識はあるのに、意志を伝える方法は、わずかな表情の変化とまばたきぐらいしかない。
それでも、優生がこの世にとどまっていてくれたことは、わたしにとって何にもかえがたい喜びだった。
あれほど恋い焦がれたユウが同じ世界にいる。望めばいつでも逢える。わたしは生まれて初めて神に感謝した。
「そばにいさせて」
そう言うと、優生の目から涙があふれた。
「自己犠牲のつもりも罪ほろぼしでもない。あなたをあいしてるから、一緒にいたいの」
やさしく涙をふいてあげると、優生は澄んだ瞳でわたしをじっと見つめた。心が通じ合っているのを感じた。
わたしは高校を卒業してから、母と同じ看護師の道をえらんだ。一日も早く、優生と同じ屋根の下で暮らせるようにしたい。今はそれが、わたしの生きる目標だ。
「もうすぐお彼岸だね」
わたしは車椅子に座っている優生をうしろから抱きしめ、耳元でささやいた。白い首筋に耳をおしつけ、温もりと血の流れる音を確かめる。
大好きな、大好きな優生。大切でいとしいひと。
「今年もいっぱい話そう」
顔を近づけて微笑みかけると、やさしい光を宿した三日月がわたしを照らす。
言葉が返ってこなくても、優生にはちゃんと聞こえているし、肌をかさねれば温もりを交わすことだってできる。
そして春になれば朧月夜の下で逢って、話すことも抱きあうこともできるのだ。
これがわたしたちの幸福――満ち足りた愛のかたちに他ならない。
「あいしてるよ」
未来永劫、ずっと、この気持ちが変わることはないだろう。
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