1 / 1
無償の愛
しおりを挟む
「お願いしまーす!!」
厨房から麻生くんの明朗な声が響いた。
接客を終えた私が厨房に向かうとカウンターにパスタが二皿置かれていた。
その二つを各々トレンチに乗せて厨房を後にする。
白い皿に収まった緑色のパスタと赤色のパスタを一瞥してホール内を歩く。
途中、走り回る幼い子供たちが目の前を走り抜けた為に一時停止した。
5番と書かれた席にはスマホをいじる制服姿の女子高生と母親と思われる中年女性が座っていた。
「お待たせ致しました。ジェノベーゼパスタのお客様。」
私が言うと中年女性が小さく挙手した。彼女の前に緑色のパスタを置く。
「ペスカトーレでございます。」
そう言って赤色のパスタを女子高生の前に置くと彼女はスマホいじりを止めて、中年女性が差し出すフォークを受け取った。
席に伝票を置いた私は親子に背を向けて呼び出し音が鳴り止まないホール内を動き回る。
壁に掛かった電光掲示板にはいくつもの数字が表示されていて、その中に私が担当している別席の数字が映っていた。
別席の料理が出来上がったことが判明して厨房に向かう。
途中、接客中の仲間の後ろを通り過ぎた。
昼時の日曜日、飲食店のホールと厨房は戦場と化す。
厨房内では時折、短気なアルバイト君の怒声が響き渡り、ホール内では料理を両手に乗せたベテランスタッフがまごつく新人スタッフを窘める。
鬼のように忙しいこの時間は私の何もかも全てを忘れさせて嵐のように過ぎ去っていく。
ピーク時が終わって席に空きが出来始めた頃、スタッフたちはようやく安堵のため息をついて和やかな雰囲気になった。
今からあと四時間後にここは再び戦場と化す。その前の小憩のような時間だ。
「秋谷さん、秋谷さん!!なんか今日、アイシャドウの色、濃くないっすか⁉︎」
厨房にいる山田君が私に絡んできた。
手の空いた私は山田君のそばに寄って冗談で返す。
「え、そう見える⁉︎良い女でしょう⁇」
はしゃいだ声を上げると山田君はニヤつきながら、
「いやー俺はなんとも言えないなぁ…近くに麻生さんがいますから…」と言って私と麻生くんを交互に眺めた。
何も気づいていない麻生くんは一人静かに冷凍ポテトのグラム数を測っていて、夜のピーク時に向けた前準備を行っていた。
「春になったら麻生さんも卒業っすね。」
「そうだね。ここはただでさえ人が足りてないのに…麻生くんがいなくなるなんて困っちゃう。」
「秋谷さん、麻生さんと親しいからめっちゃ寂しいんじゃないっすか⁉︎」
「そんなことないよ~私よりも麻生くんの方が寂しいに決まってる♡」
私の冗談に山田君は声を上げて笑った。すると山田君の笑い声が聞こえた麻生くんが顔を上げて私達を一瞥すると不機嫌そうに、
「山田!大島くんの皿洗い手伝ってあげて。」と言った。
山田君はニヤニヤしながら、はーい!と返事して私の目の前から消えていった。
麻生くんは一瞬だけ私と目を合わせると、すぐに逸らして下を向きながら何事もなかったかのようにポテトの計量を再開した。
大学生四年生の麻生君は数ヶ月後には社会人になってここからいなくなる。
私よりも五つ下の麻生くんは大学入学の為に上京したのを機にここでアルバイトを始めたと聞いた。
二年前に入った私が話しかけるたびに照れ隠しで素っ気なくしていた彼のあの頃の初々しさが懐かしい。
私はここでさらに暦と年を重ねていき、彼は新社会人として新たに出発する。
当たり前だった存在は姿を消して私達は別々の人生を歩むのだ。
彼との別れを寂しいと思う反面、私のドライな部分が冷静に割り切っていた。
別れに対する寂しさなんて一瞬だ。また忙しくなって新しく入ってくる新人たちとコミュニケーションを取っていくうちにきっと彼の存在は小さくなっていく。
遠い過去の存在となっていくのだ。
どんなに親しくしたって、いなくなれば振り返った時に、こんな人がいたなぁってぼんやりと思い出すだけだ。
「美久琉ちゃん、今のうちに休憩入っちゃっていいよ。」
ベテランパートさんに声を掛けられた私は休憩に入ることにした。
休憩室に入ると数人のスタッフが一服したり、スマホをいじったりしていて椅子は空いていなかった。
「おぉ!美久琉ちゃんじゃん‼︎ここ座る⁉︎」
タバコを吸った先輩が私の為に席を空けようとしたが、遠慮して更衣室の鞄からスマホを取り出した。
煙草のヤニで黄色くなった壁にもたれ掛かってスマホ画面を開く。
病院から一件の着信が入っていた。
目を見開いた私は慌てて折り返しの電話を掛ける。
不安でいっぱいになった私の心臓の鼓動が速まる。
数コールの後、電話に出た病院スタッフに着信が入っていたことと名前を告げると電話越しの相手は慌ただしく事情を説明した。
「清美さんの容態が急変して…」
事情を聞いた私は電話を切ると更衣室から鞄を取り出して休憩室を飛び出そうと勢いよく扉を開けた。
すると目の前で丁度、中に入ろうとしていた麻生君とかち合った。
私は彼を押し退けて、店長に事情を話すとすぐに店を出て前を通りかかったタクシーに飛び乗る。
母親の顔を浮かべながら藁にもすがるような気持ちで祈った。
お母さん、お母さん…
普段は神様なんて信じていないのにこういう時だけ都合良く祈るのだ。
それでも祈った。お母さんが死なないように。
走行するタクシーは立ち並ぶビルたちを横切って都立病院へと近づいていく。
その中で昔の元気な頃の母が私を呼び掛けた。
「美久琉!よくやったね!!あんた才能あるよ!!」
そう言って私の頭を撫でる母の満足げな笑顔。
母は滅多に私を褒めない為、本当に嬉しかった。
「帰りに美久琉の大好きなアニメのグッズ買ってあげる。ほら、あの金髪の男の子のキャラクター、好きでしょう?」
上機嫌な母が制服姿の私に褒美を提案した。
私は握りしめた数枚の一万円札を全て母に渡しながら微笑んで頷く。
すると母は急に申し訳なさそうな顔になって私を強く抱きしめた。
「美久琉、ごめんね。こんなことさせちゃって…あんた、まだ中学生なのに…おじさんに痛いことされなかった⁇」
母の優しい声に安堵して私は甘えるように首を横に振る。
母は私の髪を撫でながら私の耳元で囁いた。
「そう…なら良かった。美久琉にばっかり迷惑掛けちゃって悪いね。でもね、お母さんは美久琉にこうして貰わないと生きていけないの。おじさんには怪我だけはさせないでねって強く言ってあるから。お母さんが美久琉を守るからね。」
母が抱きしめてくれる。その瞬間は嫌なこと全てを忘れさせてくれた。
よく知らない親父とする行為も、学校での噂話も人間関係も、全て忘れさせてくれる。
誰がなんと言おうと私の母親は優しい。
普段は放ったらかしで都合の良い時だけ擦り寄ってきてもカッとなってすぐに手が出ても私は母を愛している。
どんなに怒りが込み上げても憎くても捨てられたくない。
お母さんに捨てられたくない。
私にとってたった一人のお母さんだもの。
タクシーが都立病院の前に停車した。
慌ててお金を払って院内に入る。
面会受付で看護師に事情を話すとすぐに病室へと案内された。
お母さん、お母さん…
病室に向かっている間に無数の涙が溢れた。
服の袖で目を擦り、霞む視界を元に戻す。
病室に到着して看護師が扉を開けるとその先でベッドに横たわる母が目に入った。
呼吸器をつけた母の心拍数は微弱で今にも止まってしまいそうだ。
私は母のそばに寄って手を握りしめた。
涙を溢れさせながら消え入りそうな声を出す。
「お母さん、行かないで。私を置いていかないで…」
一人にしないで。私はお母さんがそばにいればそれで十分だから。
私達、ずっと二人で生きてきたじゃない。
お母さんのいない未来なんて思い描けないの。
二年前、母が肺癌になったことが判明した時、私は母を絶対に死なせないって誓ったの。
母の為に私はアルバイトを始めて朝から晩まで働いて入院費を稼いだ。
母はその度に、男と寝て稼げばいいって言ったけれど二十代後半が近づいていた私にはもう年齢的に厳しかった。
それにもう精神的にも身体的にもきつかった。
学がなくても普通に働いてお金が欲しかった。
昔からずっと憧れていた普通の子になりたかった。
願わくは母と一緒にありふれた幸せを手にしたかった。
ペースメーカーの音が鳴り響く病室内で母はわずかに目を開けて天井を見つめている。
その横で私は涙を流しながら母の顔を見つめていた。
手を握る私に対して母の手は握り返してくることはなかった。
お母さん、死なないで。
母の目に訴えた瞬間、瞳がゆっくりと閉じて心拍数が零になった。
様子を見ていた医師が聴診器を持って母の側へと近寄る。
閉じていた母の瞳を開いてペンライトの光を当てていた。
母の顔をじっと眺めていると医師がゆっくりと振り返って言葉を掛けた。
「十五時二十八分、お亡くなりになりました。」
悼むような静かな声だった。
程なくして霊安室に連れていかれた母の遺体を眺めていると病院から連絡を受けた叔母と叔父夫妻が駆けつけて葬儀屋に連絡をしたりと慌ただしげだった。
私はその姿を横目に抜け殻にでもなったかのように天井を眺めていた。
ポケットに入れていたスマホから着信音が鳴り響く。
ポケットに手を突っ込んで画面を覗くと’‘麻生くん,,と書かれた文字が並んでいた。
スマホ画面と母の横顔を交互に眺める。
ふと昔、母が私に掛けた言葉を思い出した。
高校生の時、好きな人が出来た私がその人とのデートを優先して母が取り付けたおじさんとの予定をすっぽかした時のことだった。
帰宅した私は凄まじい形相で待ち受けていた母に勢いよく張り倒された。
「何やってんだよ!このバカ娘が‼︎」
頬を抑える私に母は容赦なく腹に蹴りを入れて髪の毛を掴んできた。
私は泣き叫びながらされるがままの状態で母に許しを請う。
暴力をやめた母は息を荒げながら私に問いかけた。
「あんた、男といたんだろう?」
私は玄関の床に崩れ落ちながら下を向いたまま何も答えられなかった。
「私には分かるんだよ。親子だから、あんたの考えてることが手に取るように分かる。」
母は私の鞄からスマホを取り出そうとした。
私は抵抗したがそれも虚しくスマホは母の手元に渡った。
「美久琉、あんたは私の娘なんだよ。そんなあんたが普通の恋愛が出来るなんて思っちゃいけないよ。あんたはね、男と幸せになれる子じゃないんだよ。」
好きな人からのライン通知を眺めながら母が私を言い聞かせる。
私はこの言葉を昔からうんざりするほど何度も聞かされていた。
耳にタコができるほどに聞かされて、私も十分に納得していた。
それでも私は彼を好きになってしまったから恋がしたかった。
でも無理だ。無理なのに、私が馬鹿だった。
’’あんたはね、男と幸せになれる子じゃないんだよ。,,
着信音が鳴り響く中、母との記憶が蘇った私はそっとスマホ画面を閉じた。
’’麻生くん,,と書かれた文字が暗転して着信音が消えた。
スマホを握りしめたまま、母の遺体に近寄って目を閉じる母の顔を見つめる。
お母さん、私はこれからどうすればいいの?
お母さんがいないんじゃ生きている意味がないよ。
母は目を閉じたままで何も答えてくれなかった。
静かな母の横で私は迷子のように道を彷徨っていた。
厨房から麻生くんの明朗な声が響いた。
接客を終えた私が厨房に向かうとカウンターにパスタが二皿置かれていた。
その二つを各々トレンチに乗せて厨房を後にする。
白い皿に収まった緑色のパスタと赤色のパスタを一瞥してホール内を歩く。
途中、走り回る幼い子供たちが目の前を走り抜けた為に一時停止した。
5番と書かれた席にはスマホをいじる制服姿の女子高生と母親と思われる中年女性が座っていた。
「お待たせ致しました。ジェノベーゼパスタのお客様。」
私が言うと中年女性が小さく挙手した。彼女の前に緑色のパスタを置く。
「ペスカトーレでございます。」
そう言って赤色のパスタを女子高生の前に置くと彼女はスマホいじりを止めて、中年女性が差し出すフォークを受け取った。
席に伝票を置いた私は親子に背を向けて呼び出し音が鳴り止まないホール内を動き回る。
壁に掛かった電光掲示板にはいくつもの数字が表示されていて、その中に私が担当している別席の数字が映っていた。
別席の料理が出来上がったことが判明して厨房に向かう。
途中、接客中の仲間の後ろを通り過ぎた。
昼時の日曜日、飲食店のホールと厨房は戦場と化す。
厨房内では時折、短気なアルバイト君の怒声が響き渡り、ホール内では料理を両手に乗せたベテランスタッフがまごつく新人スタッフを窘める。
鬼のように忙しいこの時間は私の何もかも全てを忘れさせて嵐のように過ぎ去っていく。
ピーク時が終わって席に空きが出来始めた頃、スタッフたちはようやく安堵のため息をついて和やかな雰囲気になった。
今からあと四時間後にここは再び戦場と化す。その前の小憩のような時間だ。
「秋谷さん、秋谷さん!!なんか今日、アイシャドウの色、濃くないっすか⁉︎」
厨房にいる山田君が私に絡んできた。
手の空いた私は山田君のそばに寄って冗談で返す。
「え、そう見える⁉︎良い女でしょう⁇」
はしゃいだ声を上げると山田君はニヤつきながら、
「いやー俺はなんとも言えないなぁ…近くに麻生さんがいますから…」と言って私と麻生くんを交互に眺めた。
何も気づいていない麻生くんは一人静かに冷凍ポテトのグラム数を測っていて、夜のピーク時に向けた前準備を行っていた。
「春になったら麻生さんも卒業っすね。」
「そうだね。ここはただでさえ人が足りてないのに…麻生くんがいなくなるなんて困っちゃう。」
「秋谷さん、麻生さんと親しいからめっちゃ寂しいんじゃないっすか⁉︎」
「そんなことないよ~私よりも麻生くんの方が寂しいに決まってる♡」
私の冗談に山田君は声を上げて笑った。すると山田君の笑い声が聞こえた麻生くんが顔を上げて私達を一瞥すると不機嫌そうに、
「山田!大島くんの皿洗い手伝ってあげて。」と言った。
山田君はニヤニヤしながら、はーい!と返事して私の目の前から消えていった。
麻生くんは一瞬だけ私と目を合わせると、すぐに逸らして下を向きながら何事もなかったかのようにポテトの計量を再開した。
大学生四年生の麻生君は数ヶ月後には社会人になってここからいなくなる。
私よりも五つ下の麻生くんは大学入学の為に上京したのを機にここでアルバイトを始めたと聞いた。
二年前に入った私が話しかけるたびに照れ隠しで素っ気なくしていた彼のあの頃の初々しさが懐かしい。
私はここでさらに暦と年を重ねていき、彼は新社会人として新たに出発する。
当たり前だった存在は姿を消して私達は別々の人生を歩むのだ。
彼との別れを寂しいと思う反面、私のドライな部分が冷静に割り切っていた。
別れに対する寂しさなんて一瞬だ。また忙しくなって新しく入ってくる新人たちとコミュニケーションを取っていくうちにきっと彼の存在は小さくなっていく。
遠い過去の存在となっていくのだ。
どんなに親しくしたって、いなくなれば振り返った時に、こんな人がいたなぁってぼんやりと思い出すだけだ。
「美久琉ちゃん、今のうちに休憩入っちゃっていいよ。」
ベテランパートさんに声を掛けられた私は休憩に入ることにした。
休憩室に入ると数人のスタッフが一服したり、スマホをいじったりしていて椅子は空いていなかった。
「おぉ!美久琉ちゃんじゃん‼︎ここ座る⁉︎」
タバコを吸った先輩が私の為に席を空けようとしたが、遠慮して更衣室の鞄からスマホを取り出した。
煙草のヤニで黄色くなった壁にもたれ掛かってスマホ画面を開く。
病院から一件の着信が入っていた。
目を見開いた私は慌てて折り返しの電話を掛ける。
不安でいっぱいになった私の心臓の鼓動が速まる。
数コールの後、電話に出た病院スタッフに着信が入っていたことと名前を告げると電話越しの相手は慌ただしく事情を説明した。
「清美さんの容態が急変して…」
事情を聞いた私は電話を切ると更衣室から鞄を取り出して休憩室を飛び出そうと勢いよく扉を開けた。
すると目の前で丁度、中に入ろうとしていた麻生君とかち合った。
私は彼を押し退けて、店長に事情を話すとすぐに店を出て前を通りかかったタクシーに飛び乗る。
母親の顔を浮かべながら藁にもすがるような気持ちで祈った。
お母さん、お母さん…
普段は神様なんて信じていないのにこういう時だけ都合良く祈るのだ。
それでも祈った。お母さんが死なないように。
走行するタクシーは立ち並ぶビルたちを横切って都立病院へと近づいていく。
その中で昔の元気な頃の母が私を呼び掛けた。
「美久琉!よくやったね!!あんた才能あるよ!!」
そう言って私の頭を撫でる母の満足げな笑顔。
母は滅多に私を褒めない為、本当に嬉しかった。
「帰りに美久琉の大好きなアニメのグッズ買ってあげる。ほら、あの金髪の男の子のキャラクター、好きでしょう?」
上機嫌な母が制服姿の私に褒美を提案した。
私は握りしめた数枚の一万円札を全て母に渡しながら微笑んで頷く。
すると母は急に申し訳なさそうな顔になって私を強く抱きしめた。
「美久琉、ごめんね。こんなことさせちゃって…あんた、まだ中学生なのに…おじさんに痛いことされなかった⁇」
母の優しい声に安堵して私は甘えるように首を横に振る。
母は私の髪を撫でながら私の耳元で囁いた。
「そう…なら良かった。美久琉にばっかり迷惑掛けちゃって悪いね。でもね、お母さんは美久琉にこうして貰わないと生きていけないの。おじさんには怪我だけはさせないでねって強く言ってあるから。お母さんが美久琉を守るからね。」
母が抱きしめてくれる。その瞬間は嫌なこと全てを忘れさせてくれた。
よく知らない親父とする行為も、学校での噂話も人間関係も、全て忘れさせてくれる。
誰がなんと言おうと私の母親は優しい。
普段は放ったらかしで都合の良い時だけ擦り寄ってきてもカッとなってすぐに手が出ても私は母を愛している。
どんなに怒りが込み上げても憎くても捨てられたくない。
お母さんに捨てられたくない。
私にとってたった一人のお母さんだもの。
タクシーが都立病院の前に停車した。
慌ててお金を払って院内に入る。
面会受付で看護師に事情を話すとすぐに病室へと案内された。
お母さん、お母さん…
病室に向かっている間に無数の涙が溢れた。
服の袖で目を擦り、霞む視界を元に戻す。
病室に到着して看護師が扉を開けるとその先でベッドに横たわる母が目に入った。
呼吸器をつけた母の心拍数は微弱で今にも止まってしまいそうだ。
私は母のそばに寄って手を握りしめた。
涙を溢れさせながら消え入りそうな声を出す。
「お母さん、行かないで。私を置いていかないで…」
一人にしないで。私はお母さんがそばにいればそれで十分だから。
私達、ずっと二人で生きてきたじゃない。
お母さんのいない未来なんて思い描けないの。
二年前、母が肺癌になったことが判明した時、私は母を絶対に死なせないって誓ったの。
母の為に私はアルバイトを始めて朝から晩まで働いて入院費を稼いだ。
母はその度に、男と寝て稼げばいいって言ったけれど二十代後半が近づいていた私にはもう年齢的に厳しかった。
それにもう精神的にも身体的にもきつかった。
学がなくても普通に働いてお金が欲しかった。
昔からずっと憧れていた普通の子になりたかった。
願わくは母と一緒にありふれた幸せを手にしたかった。
ペースメーカーの音が鳴り響く病室内で母はわずかに目を開けて天井を見つめている。
その横で私は涙を流しながら母の顔を見つめていた。
手を握る私に対して母の手は握り返してくることはなかった。
お母さん、死なないで。
母の目に訴えた瞬間、瞳がゆっくりと閉じて心拍数が零になった。
様子を見ていた医師が聴診器を持って母の側へと近寄る。
閉じていた母の瞳を開いてペンライトの光を当てていた。
母の顔をじっと眺めていると医師がゆっくりと振り返って言葉を掛けた。
「十五時二十八分、お亡くなりになりました。」
悼むような静かな声だった。
程なくして霊安室に連れていかれた母の遺体を眺めていると病院から連絡を受けた叔母と叔父夫妻が駆けつけて葬儀屋に連絡をしたりと慌ただしげだった。
私はその姿を横目に抜け殻にでもなったかのように天井を眺めていた。
ポケットに入れていたスマホから着信音が鳴り響く。
ポケットに手を突っ込んで画面を覗くと’‘麻生くん,,と書かれた文字が並んでいた。
スマホ画面と母の横顔を交互に眺める。
ふと昔、母が私に掛けた言葉を思い出した。
高校生の時、好きな人が出来た私がその人とのデートを優先して母が取り付けたおじさんとの予定をすっぽかした時のことだった。
帰宅した私は凄まじい形相で待ち受けていた母に勢いよく張り倒された。
「何やってんだよ!このバカ娘が‼︎」
頬を抑える私に母は容赦なく腹に蹴りを入れて髪の毛を掴んできた。
私は泣き叫びながらされるがままの状態で母に許しを請う。
暴力をやめた母は息を荒げながら私に問いかけた。
「あんた、男といたんだろう?」
私は玄関の床に崩れ落ちながら下を向いたまま何も答えられなかった。
「私には分かるんだよ。親子だから、あんたの考えてることが手に取るように分かる。」
母は私の鞄からスマホを取り出そうとした。
私は抵抗したがそれも虚しくスマホは母の手元に渡った。
「美久琉、あんたは私の娘なんだよ。そんなあんたが普通の恋愛が出来るなんて思っちゃいけないよ。あんたはね、男と幸せになれる子じゃないんだよ。」
好きな人からのライン通知を眺めながら母が私を言い聞かせる。
私はこの言葉を昔からうんざりするほど何度も聞かされていた。
耳にタコができるほどに聞かされて、私も十分に納得していた。
それでも私は彼を好きになってしまったから恋がしたかった。
でも無理だ。無理なのに、私が馬鹿だった。
’’あんたはね、男と幸せになれる子じゃないんだよ。,,
着信音が鳴り響く中、母との記憶が蘇った私はそっとスマホ画面を閉じた。
’’麻生くん,,と書かれた文字が暗転して着信音が消えた。
スマホを握りしめたまま、母の遺体に近寄って目を閉じる母の顔を見つめる。
お母さん、私はこれからどうすればいいの?
お母さんがいないんじゃ生きている意味がないよ。
母は目を閉じたままで何も答えてくれなかった。
静かな母の横で私は迷子のように道を彷徨っていた。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる