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第1章
第19話 魔女の葛藤
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川沿いに広がる草原に、鼻歌を歌いながら野草を摘む少女の姿があった。
長い絹のような黒髪が太陽の光を浴びて銀色に輝いている。
時折吹き抜ける爽やかな風が彼女の白いワンピースを静かに揺らす。
絵画から抜けだしたような美しい風景がそこにあった。
少女は野草を見つけると小走りで駆け寄り、しゃがみ込んで摘んでいく。
しゃがみ込む度に顔にかかる髪を困ったような表情でかきあげる姿はどこか大人びた雰囲気感じさせる。
「こんなもんでいいかー?」
少女は声のする方に振り向く。
そこには両手に大量の野草を抱えた小さなネズミがいた。
「すごい。ネンコさん」
少女はネズミに向かって笑顔を見せる。
リアとネンコが、オオカミを退治してから一日が過ぎていた。
ネンコの突然の特訓に一時は腹を立てたリアだったが、一晩寝たらすっかり機嫌を直していた。
ネンコもしっかり反省したようで、お詫びのためか今はリアの野草摘みを手伝っていた。
「それにしても」
作業も一段落して、座り込んだところでネンコがリアに問いかけた。
「こんな草、何に使うんだ?」
話を聞くとネンコはリアが喜び勇んで野草を摘み始めた時、子供がよくやる花かんむりでも作るものだと思っていたという。
しかし、しばらく見ていると可愛げのない草ばかりを摘んでいることに気付いた。
リアがあまりに嬉しそうに摘んでいたため、何も言わずに手伝っていたが、ずっと疑問だったようだ。
リアは野草の一つをつまみ上げる。
その葉はギザギザしており、少し白みがかって見える。
「この野草はモチグサっていうの。薬草になるんだよ」
リアによれば葉の部分に薬用効果があるようで、すり潰して患部に塗布するということだった。
止血や炎症を抑える効果があるという。
「でもね。これだけだと大したことないから、魔法の触媒に使うの」
「触媒?」
「うん、『治癒』って魔法のね。薬草の効果を数倍に高めて傷を治すんだよ。下位の魔法だから大きな怪我は治せないけど、ちょっとした切り傷くらいならすぐに治るよ」
リアはそう言いながら、魔術書のあるページを開く。
そこには『治癒』の魔法の説明とモチグサの絵が書かれていた。
魔術書の作成者であるヴァン・ランカースは魔法の才能だけでなく絵心もあったようで、野草の特徴を見事に捉えていた。
「本当はもっと大きな怪我に効く魔法もあるんだけど、触媒が見つからなくて……」
リアは続けて『治癒』の上位魔法である『回復』のページを開く。
「ここに描いてあるミムラサキって花なの。この時期ならどこかに咲いてると思うんだけどなあ」
リアは魔術書を開いたまま地面に置くと、集めたモチグサを蝶の鱗粉が入っていた小袋に入れていく。
小袋には他にも魔法の触媒となる小石やオオカミの牙などが詰めてある。
「お前、あれだけオオカミ怖がってたのに牙ひっこ抜いちゃうんだもんなあ。怖い怖い」
ネンコはしばらくミムラサキの絵を見ていたが、リアが小袋に手を伸ばしたのに気づくと茶化すような言葉をかける。
リアは昨日のオオカミの死体から短剣を使って牙を抜き取っていた。
ネンコが川に投げ込まなかったオオカミのものである。
使える魔法が増えると言ってニコニコしながらオオカミの口の中に手を突っ込むリアを、ネンコは少し引いた感じで眺めていた。
「だって、便利な魔法なんだもん」
拗ねたような口調でリアは言う。
使用できるようになったのは変成術の一つである『追う者』という魔法だ。
一時間程だが術者の知覚を飛躍的に向上させ、更に暗視の効果を付ける。
ネンコのように夜目の効かないリアにとっては、暗視ができるという一点においてだけでもこの魔法を使う価値はある。
リアは野草を詰め終えると、腰のベルトに触媒の入った小袋をぶら下げる。
「ちゃんとしたやつ欲しいな」
「袋のことか?」
「うん。一つの袋にいろんな触媒入れてるからとっさの時に欲しいものが取り出しにくいの。昔家にあったのは、開いたら中が六つに仕切ってあって触媒を整理しやすくなってたんだ」
リアは手で袋の作りを表現しながらネンコに説明する。
「ふーん。まあ、金はあるからな。売ってたら買えばいいんじゃね?」
ネンコは自分が魔法を使えないと分かって以来、魔法に対する興味も薄くなったようで寝転がりながら適当な返事をする。
(魔力がないから魔法を勉強したほうがいいんだけどなあ)
魔法に対抗するためには魔法の知識があった方が良い。
どのような魔法を掛けられているのか事前に分かれば、その効果に対する心構えができる。
ちょっとしたことだが、それだけで生き延びる可能性はかなり上がるはずだ。
リアはそんなことを考えながら、ネンコにならって寝転がる。
草の匂いが鼻をくすぐる。
目の前には真っ青な空が広がっている。
(まあ、魔法のことではあたしがネンコさんを守るからね)
リアは眠ってしまったのかぴくりとも動かないネンコの背中を二、三度指で撫でる。
ふさふさした毛の感触がよほど心地良かったのかリアはそのまま眠りに落ちていった。
どれくらい眠っていただろう。
リアはけたたましい馬のいななきで目を覚ました。
寝ぼけ眼で辺りを見回す。
いまだ太陽は高い位置にあり、二人が眠ってからあまり時間は経っていないようだった。
「よう。起きたか」
ネンコはすでに起きていたようで、リアに顔だけ向けて声をかける。
「何かあったの?」
リアが尋ねるとネンコは何も言わずにある方向を指差す。
その先には豪華な造りの馬車が停まっているのが見えた。
先ほどの馬のいななきはそこから聞こえてきたもので間違いないだろう。
しかし、どうも様子がおかしい。
馬はひどく暴れており、その背には誰も乗っていない。
また、馬車を取り囲むようにして動きまわる小さな影が見えた。
「また、あいつらか」
ネンコの言葉にリアは緊張して目を凝らす。
小さな影はゴブリンだった。
見えているだけでも十体以上はいる。
どうやら集団で馬車を襲っているようだ。
そのうち、人の叫ぶ声や金属のぶつかり合う音が聞こえてきた。
「ど、どうしよう?」
焦ったようにリアがネンコに問う。
一方のネンコは特に動く様子もなく事の成り行きを見守っている。
馬車の方では三人の傭兵らしき人物が武器を手にゴブリンと交戦している。
傭兵はいずれもなかなかの手練に見えたが、ゴブリンの数は多く苦戦しているようだった。
「ネンコさん! 助けたほうが……!」
ネンコは戦いの様子を見ながら何か考えているようだったがポツリと呟いた。
「いいのか?」
「え……?」
リアはネンコの言葉の意味が理解できず戸惑った表情を見せる。
ネンコはそんなリアに体ごと向き直ると言葉を続けた。
「お前、この国の人間に親父を殺されたんだろ?」
リアの心臓が大きく跳ねる。
そして、村での出来事を思い出す。
血にまみれた父親。
燃え盛る友人の家。
至る所に転がる村人の死体。
リアは急な吐き気をもようし、口を抑えてうずくまる。
「悪いな。嫌なこと思い出させて。でもな……よく考えたほうがいいと思うぞ」
リアは顔を上げてネンコを見る。
その目には薄っすらと涙が浮かんでいる。
ネンコの話を理解できない程、リアは子供ではなかった。
覚悟を決めろということだ。
覚悟もないまま手助けしたら後で激しく後悔することになっただろう。
レナス村の襲撃に関わった人だったら。
いや、関わっていなくても、この国の人全てがすでに自分の敵になったのなら。
そう考えるリアは心の奥に黒い炎が宿る。
―――許せない。許せるわけがない。
視界が狭くなり、呼吸が苦しくなる。
今やリアの心は憎しみに支配されていた。
(あんな人たち、どうなっても知らない。私が味わった苦しみを味わえばいい)
リアは馬車に目をやる。
いつの間にか動いている傭兵は二人になっていた。
一人はゴブリンの短剣を胸に受けて、馬車にもたれかかるようにして絶命していた。
おびただしい量の血が馬車を赤く染めている。
リアはそのような凄惨な光景を見ても全く動く気にはなれなかった。
ネンコも相変わらずリアを見つめたまま動かない。
その時、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。
次いで、悲鳴の主と思われる人物が馬車から転がるようにして飛び出した。
それはリアより三、四歳は下と思われる幼い少女だった。
長く美しい金髪に、立派なドレスを身に着けている。
頭に付けた大きな赤いリボンが印象的だった。
馬車の中にゴブリンが入ってきたのだろうか。
もつれる足でゴブリンから必死に逃げようとしている。
リアの心が揺れる。
(あんなに小さな子が……)
少女に気づいた一匹が汚れた短剣を手に追いかけているのが見える。
泣き叫びながら逃げる少女だったが、あっさりと追いつかれてしまった。
ゴブリンは奇声を上げながらその美しい髪を掴むと彼女を引き倒した。
ゴブリンが馬乗りになると、再度少女は悲鳴を上げる。
「ネンコさん!」
その様子を見ていたリアは無意識に叫んでネンコを見る。
彼女の瞳はある主の決意に満ちていた。
「分かった」
ネンコはそう言うと、瞬時に姿を消す。
次の瞬間、少女を襲っていたゴブリンが吹き飛んだ。
更にネンコは少女に群がってきたゴブリンを次々に葬っていく。
リアも馬車へ向かって駆け出す。
完全に憎しみに囚われようとした時に、父親の顔が浮かんだ。
正義感の強い父親が、先ほどのようなリアの姿を見たら嘆き悲しむに違いない。
リアは父親との約束を思い出す。
―――生きていて欲しい。
でも、ただ生きるだけでは駄目だ。
いつか父に会った時に誇れる生き方をしたい。
それがリアの出した答えだった。
(それに……)
次いで先ほどのネンコの顔を思い出す。
相変わらず無表情でだらしなく口の開いた間抜け面だったが、リアが助けると決めた時どこか満足そうに見えた。
あの優しいネズミのことだ、すぐにでも助けに行きたかったに違いない。
でも我慢して待っててくれたのだ。
リアの答えを。リアのために。
ネンコの心遣いに胸が熱くなるが、これからの戦いに向けて気を引き締める。
傭兵二人はなんとか耐え忍んでいるが長くは持たないだろう。
リアは走りながら短剣を抜き、触媒袋を探る。
その表情には先ほどまでの暗い影はなく、太陽のような輝きに満ちていた。
長い絹のような黒髪が太陽の光を浴びて銀色に輝いている。
時折吹き抜ける爽やかな風が彼女の白いワンピースを静かに揺らす。
絵画から抜けだしたような美しい風景がそこにあった。
少女は野草を見つけると小走りで駆け寄り、しゃがみ込んで摘んでいく。
しゃがみ込む度に顔にかかる髪を困ったような表情でかきあげる姿はどこか大人びた雰囲気感じさせる。
「こんなもんでいいかー?」
少女は声のする方に振り向く。
そこには両手に大量の野草を抱えた小さなネズミがいた。
「すごい。ネンコさん」
少女はネズミに向かって笑顔を見せる。
リアとネンコが、オオカミを退治してから一日が過ぎていた。
ネンコの突然の特訓に一時は腹を立てたリアだったが、一晩寝たらすっかり機嫌を直していた。
ネンコもしっかり反省したようで、お詫びのためか今はリアの野草摘みを手伝っていた。
「それにしても」
作業も一段落して、座り込んだところでネンコがリアに問いかけた。
「こんな草、何に使うんだ?」
話を聞くとネンコはリアが喜び勇んで野草を摘み始めた時、子供がよくやる花かんむりでも作るものだと思っていたという。
しかし、しばらく見ていると可愛げのない草ばかりを摘んでいることに気付いた。
リアがあまりに嬉しそうに摘んでいたため、何も言わずに手伝っていたが、ずっと疑問だったようだ。
リアは野草の一つをつまみ上げる。
その葉はギザギザしており、少し白みがかって見える。
「この野草はモチグサっていうの。薬草になるんだよ」
リアによれば葉の部分に薬用効果があるようで、すり潰して患部に塗布するということだった。
止血や炎症を抑える効果があるという。
「でもね。これだけだと大したことないから、魔法の触媒に使うの」
「触媒?」
「うん、『治癒』って魔法のね。薬草の効果を数倍に高めて傷を治すんだよ。下位の魔法だから大きな怪我は治せないけど、ちょっとした切り傷くらいならすぐに治るよ」
リアはそう言いながら、魔術書のあるページを開く。
そこには『治癒』の魔法の説明とモチグサの絵が書かれていた。
魔術書の作成者であるヴァン・ランカースは魔法の才能だけでなく絵心もあったようで、野草の特徴を見事に捉えていた。
「本当はもっと大きな怪我に効く魔法もあるんだけど、触媒が見つからなくて……」
リアは続けて『治癒』の上位魔法である『回復』のページを開く。
「ここに描いてあるミムラサキって花なの。この時期ならどこかに咲いてると思うんだけどなあ」
リアは魔術書を開いたまま地面に置くと、集めたモチグサを蝶の鱗粉が入っていた小袋に入れていく。
小袋には他にも魔法の触媒となる小石やオオカミの牙などが詰めてある。
「お前、あれだけオオカミ怖がってたのに牙ひっこ抜いちゃうんだもんなあ。怖い怖い」
ネンコはしばらくミムラサキの絵を見ていたが、リアが小袋に手を伸ばしたのに気づくと茶化すような言葉をかける。
リアは昨日のオオカミの死体から短剣を使って牙を抜き取っていた。
ネンコが川に投げ込まなかったオオカミのものである。
使える魔法が増えると言ってニコニコしながらオオカミの口の中に手を突っ込むリアを、ネンコは少し引いた感じで眺めていた。
「だって、便利な魔法なんだもん」
拗ねたような口調でリアは言う。
使用できるようになったのは変成術の一つである『追う者』という魔法だ。
一時間程だが術者の知覚を飛躍的に向上させ、更に暗視の効果を付ける。
ネンコのように夜目の効かないリアにとっては、暗視ができるという一点においてだけでもこの魔法を使う価値はある。
リアは野草を詰め終えると、腰のベルトに触媒の入った小袋をぶら下げる。
「ちゃんとしたやつ欲しいな」
「袋のことか?」
「うん。一つの袋にいろんな触媒入れてるからとっさの時に欲しいものが取り出しにくいの。昔家にあったのは、開いたら中が六つに仕切ってあって触媒を整理しやすくなってたんだ」
リアは手で袋の作りを表現しながらネンコに説明する。
「ふーん。まあ、金はあるからな。売ってたら買えばいいんじゃね?」
ネンコは自分が魔法を使えないと分かって以来、魔法に対する興味も薄くなったようで寝転がりながら適当な返事をする。
(魔力がないから魔法を勉強したほうがいいんだけどなあ)
魔法に対抗するためには魔法の知識があった方が良い。
どのような魔法を掛けられているのか事前に分かれば、その効果に対する心構えができる。
ちょっとしたことだが、それだけで生き延びる可能性はかなり上がるはずだ。
リアはそんなことを考えながら、ネンコにならって寝転がる。
草の匂いが鼻をくすぐる。
目の前には真っ青な空が広がっている。
(まあ、魔法のことではあたしがネンコさんを守るからね)
リアは眠ってしまったのかぴくりとも動かないネンコの背中を二、三度指で撫でる。
ふさふさした毛の感触がよほど心地良かったのかリアはそのまま眠りに落ちていった。
どれくらい眠っていただろう。
リアはけたたましい馬のいななきで目を覚ました。
寝ぼけ眼で辺りを見回す。
いまだ太陽は高い位置にあり、二人が眠ってからあまり時間は経っていないようだった。
「よう。起きたか」
ネンコはすでに起きていたようで、リアに顔だけ向けて声をかける。
「何かあったの?」
リアが尋ねるとネンコは何も言わずにある方向を指差す。
その先には豪華な造りの馬車が停まっているのが見えた。
先ほどの馬のいななきはそこから聞こえてきたもので間違いないだろう。
しかし、どうも様子がおかしい。
馬はひどく暴れており、その背には誰も乗っていない。
また、馬車を取り囲むようにして動きまわる小さな影が見えた。
「また、あいつらか」
ネンコの言葉にリアは緊張して目を凝らす。
小さな影はゴブリンだった。
見えているだけでも十体以上はいる。
どうやら集団で馬車を襲っているようだ。
そのうち、人の叫ぶ声や金属のぶつかり合う音が聞こえてきた。
「ど、どうしよう?」
焦ったようにリアがネンコに問う。
一方のネンコは特に動く様子もなく事の成り行きを見守っている。
馬車の方では三人の傭兵らしき人物が武器を手にゴブリンと交戦している。
傭兵はいずれもなかなかの手練に見えたが、ゴブリンの数は多く苦戦しているようだった。
「ネンコさん! 助けたほうが……!」
ネンコは戦いの様子を見ながら何か考えているようだったがポツリと呟いた。
「いいのか?」
「え……?」
リアはネンコの言葉の意味が理解できず戸惑った表情を見せる。
ネンコはそんなリアに体ごと向き直ると言葉を続けた。
「お前、この国の人間に親父を殺されたんだろ?」
リアの心臓が大きく跳ねる。
そして、村での出来事を思い出す。
血にまみれた父親。
燃え盛る友人の家。
至る所に転がる村人の死体。
リアは急な吐き気をもようし、口を抑えてうずくまる。
「悪いな。嫌なこと思い出させて。でもな……よく考えたほうがいいと思うぞ」
リアは顔を上げてネンコを見る。
その目には薄っすらと涙が浮かんでいる。
ネンコの話を理解できない程、リアは子供ではなかった。
覚悟を決めろということだ。
覚悟もないまま手助けしたら後で激しく後悔することになっただろう。
レナス村の襲撃に関わった人だったら。
いや、関わっていなくても、この国の人全てがすでに自分の敵になったのなら。
そう考えるリアは心の奥に黒い炎が宿る。
―――許せない。許せるわけがない。
視界が狭くなり、呼吸が苦しくなる。
今やリアの心は憎しみに支配されていた。
(あんな人たち、どうなっても知らない。私が味わった苦しみを味わえばいい)
リアは馬車に目をやる。
いつの間にか動いている傭兵は二人になっていた。
一人はゴブリンの短剣を胸に受けて、馬車にもたれかかるようにして絶命していた。
おびただしい量の血が馬車を赤く染めている。
リアはそのような凄惨な光景を見ても全く動く気にはなれなかった。
ネンコも相変わらずリアを見つめたまま動かない。
その時、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。
次いで、悲鳴の主と思われる人物が馬車から転がるようにして飛び出した。
それはリアより三、四歳は下と思われる幼い少女だった。
長く美しい金髪に、立派なドレスを身に着けている。
頭に付けた大きな赤いリボンが印象的だった。
馬車の中にゴブリンが入ってきたのだろうか。
もつれる足でゴブリンから必死に逃げようとしている。
リアの心が揺れる。
(あんなに小さな子が……)
少女に気づいた一匹が汚れた短剣を手に追いかけているのが見える。
泣き叫びながら逃げる少女だったが、あっさりと追いつかれてしまった。
ゴブリンは奇声を上げながらその美しい髪を掴むと彼女を引き倒した。
ゴブリンが馬乗りになると、再度少女は悲鳴を上げる。
「ネンコさん!」
その様子を見ていたリアは無意識に叫んでネンコを見る。
彼女の瞳はある主の決意に満ちていた。
「分かった」
ネンコはそう言うと、瞬時に姿を消す。
次の瞬間、少女を襲っていたゴブリンが吹き飛んだ。
更にネンコは少女に群がってきたゴブリンを次々に葬っていく。
リアも馬車へ向かって駆け出す。
完全に憎しみに囚われようとした時に、父親の顔が浮かんだ。
正義感の強い父親が、先ほどのようなリアの姿を見たら嘆き悲しむに違いない。
リアは父親との約束を思い出す。
―――生きていて欲しい。
でも、ただ生きるだけでは駄目だ。
いつか父に会った時に誇れる生き方をしたい。
それがリアの出した答えだった。
(それに……)
次いで先ほどのネンコの顔を思い出す。
相変わらず無表情でだらしなく口の開いた間抜け面だったが、リアが助けると決めた時どこか満足そうに見えた。
あの優しいネズミのことだ、すぐにでも助けに行きたかったに違いない。
でも我慢して待っててくれたのだ。
リアの答えを。リアのために。
ネンコの心遣いに胸が熱くなるが、これからの戦いに向けて気を引き締める。
傭兵二人はなんとか耐え忍んでいるが長くは持たないだろう。
リアは走りながら短剣を抜き、触媒袋を探る。
その表情には先ほどまでの暗い影はなく、太陽のような輝きに満ちていた。
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