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結局、左手を切り落として死ぬことも、頭を打って死ぬこともできなかった

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 結局、左手を切り落として死ぬことも、頭を打って死ぬこともできなかった彼は、医務室から戻ると、持ち込んだ睡眠薬を大量に飲んだ。水の代わりにミニバーに置いてあったブランデーを使ったが、汗をかくことも顔色が悪くなることもなかった。しばらくするとベッドに横になって、寝息を立て始めた。
 起きたのは昼過ぎだった。目を開け、周囲を見回した。それから寝癖のついた髪を手櫛で整えて、彼は水を飲みに行った。ベッドに戻ると毛布を頭からかぶった。はぁ、ふぅ、すーといった吐息と共に、鼻をすする音が聞こえる。頭と手を出し、ノートに睡眠薬と酒×と書き込むと、もう一度、寝た。
 次に起きたのはノックの音のせいだった。
 一度、二度、三度鳴り、彼は目を開けた。
「タミ様」
 その声でベッドから降りた。ドアを開けると、ホテルマンが立っていた。
「おやすみのなか、申し訳ありません。ろうそくをお持ちしました」
 開かれたドアをホテルマンが通った。
「燃え切ったろうそくを交換します。いつもお客様のいない時間にやらせていただくのですが」
 ホテルマンは袋から大小長短のろうそくを出し、溶けたロウを取り除きながら付けていった。
 取り換えるのに、10分くらいかかっただろうか。その間、彼はカーテンを開けて草原を見ていた。
「タミ様」とホテルマンは言って、封筒を取り出した。「お手紙を預かっております」
「誰からですか?」と彼は顔をしかめて聞いた。
「お答えはできませんが、タミ様のことを知っておられるようでした」
 彼は封筒を受け取り、中身を気にしながら破き、手紙を取り出した。
「失礼します」とホテルマンは静かに部屋を出ていった。
 手紙は短いものだった。
  
 タミ様
 お目にかかれて光栄です。
 この世にまだおられるとは思いませんでした。
 私の仕事が終わったらお話させてください。
  
 美しい字だった。細いが、トメハネは力強い。手紙というより、書類のようだ。一つ一つの文字の大きさが統一されているようにみえる。
 彼は瞬きもせずに、じっとその手紙を見た。ひと文字も読み逃さないように、目線を上下左右に何度も往復させている。指でなぞり、手紙の裏も確認し、封筒も調べる。ろうそくの火であぶることも忘れずにやった。
 彼は首を傾げた。そして、久しぶりに部屋を出た。
 フロントには、女性のスタッフがいた。髪の毛は黒で長い。メガネのフレームはかすかにピンク色だった。清潔清楚なイメージを保たなければならない中での、精一杯のオシャレかもしれない。
「あの、男性のホテルマンはいますか? この手紙を持ってきてくれた方なのですが」
 彼女は手元にある紙に視線を向けた。
「申し訳ございません。18時より、お休みをいただいております。明日の朝にはホテルに来ると思いますが。何かありましたでしょうか」
「この手紙をもらったのですが、差出人の名前がなかったので、誰が出したのかと思いまして」
「左様でしたか。伝えておきますので、恐れ入りますが明日までお待ちいただけますでしょうか」
「電話か何かで」
「申し訳ございませんが」
「そうですか」彼は頭を触った「分かりました」
「タミ様。よろしければ、お食事はいかがでしょうか。裏庭にあるレストランでは、本日、ピアノの演奏がございます」
 窓から落ちた例の一件で名前と顔が知られたようだった。もしくは、宿泊客の顔と名前を全て覚えているのかもしれない。
「カフェはまだ開いてるかな」
「カフェは21時にクローズドでございます。今はまだ19時過ぎですので、お楽しみいただけます」
「ありがとう」彼は残念そうな顔はそのままにカフェへと向かった。
 カフェは朝よりも人が増えていた。今朝の店員はおらず、蝶ネクタイをしたウエイターが案内してくれた。草原の見える席に座り、タマゴサンドとコーヒーを注文する。
「申し訳ございません。タマゴサンドは朝食メニューでございまして、ご提供できません」
「そうですか」
 彼は肩をしゃくり上げ、改めてメニューを見て、ひき肉のスパゲティを頼んだ。
「ありがとうございます」
 蝶ネクタイは頭を下げて、奥に消えた。
 窓に薄く反射した彼の横顔は暗かった。遠くにある草原のセコイアの方が、存在感があった。
「今日はついてないな」
 彼は首を振る。
「いや、ずっとついてない。いっそのこと全て落ちてしまえばよかったんだ。いや、ダメだ。そういうことじゃない」
 彼は手で目を覆った。あふれる涙を抑えるためだった。
 テーブルにあるナプキンで目元を拭き、軽く深呼吸した。それでも涙はあふれ、ナプキンがくしゃくしゃになっていった。
 泣き止んだのは蝶ネクタイが料理を運んでくる直前だった。
 にんにくの効いたスパゲティで、シンプルだがおいしそうだった。小皿に盛られたサラダのレタスは水が跳ねていた。
「コーヒーは食後でよろしいですか」
「はい」彼はできるだけ顔を見せないように言った。
 そこから彼は黙々と食べた。窓はだんだんと色濃くなり、彼の顔の輪郭がはっきり現れた。
 スパゲティとサラダをきれいにたいらげると、今朝の女性店員が現れた。
「コーヒーでございます」彼女はコーヒーカップとミルク、シュガーポットを置いた。「こちらはサービスです」
 チョコレートケーキがテーブルに置かれた。
「ありがとう。でも、なぜ?」
「どこか辛そうだったので」
「大丈夫ですよ」
 彼は嘘をつきながら彼女が去るのを待った。
「何かあればお気兼ねなく言ってください」
 できれば、あなたの苦痛が何なのか、今、教えてください。そんな風にも聞こえた。彼は「はい」と言いながら、何も答えなかった。
 チョコレートケーキにはチョコレートソースとホイップクリームが乗っていた。甘いものが好きな彼はそれをちびちびと食べた。ブラックコーヒーを2度おかわりし、1時間そこにいた。泣くことはなかった。手紙を何度か出し、その度に腕を組み、頭を抱えた。
 外では夕闇が迫っていた。セコイアは地上から飛び出した血管のようで不気味だった。奥の山には悪魔が住んでいるかもしれない。
 彼はディナー代を払い、草原に出た。ジャケットを着ていないせいで少し肌寒いのか、腕をさすった。一歩、二歩と早足でセコイアに向かって歩きだした。しかし、ホテルが手のひらに収まるくらいになったところで急に足を止めた。
「死にたいが、死ねない」
 彼は振り返った。ホテルの灯りが手まねきしている。セコイアはというと、さらに色濃くなっていた。脈をうっているかのように、枝木が揺れている。空には月が出ている。人を吸い込む誘惑的な光だ。
 彼はそれらに反抗するように踵を返し、ホテルへと歩き始めた。とぼとぼ、よちよち、生きる勇気を振り絞るかのように歩く。誰の後押しもなく、誰も味方しなかったが、きちんと前に進めた。
 もうすぐホテルというところで、カフェの灯りが消えた。21時を過ぎたのだろうか。
 ロビーに戻ると、ホテルの責任者と受付の女性が話していた。彼に気づくと一礼して近づいてきた。
「カフェはお気に召しましたか?」
「はい」
「オープンは朝の6時からでございます」
 責任者は笑顔で言った。
「はい」返事をすると彼は女性に向きなおった。「あの、男性スタッフはいつ頃になるでしょう?」
「おそらく10時ごろになるかと思います。お部屋かどこかに伺わせましょうか?」
 彼は首を振った。
「今日はもう寝ます。また明日」
 おやすみなさいませ。その声を聞きながら、彼は部屋に戻った。ポケットに入れていた手紙をテーブルに戻し、ナイフで手首を刺しても何もないこと確認してから眠りについた。
 くしゃくしゃの布団と毛布が、大事そうに彼を深く包んでいる。
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