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彼は南にいた太陽に起こされた。

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 彼は南にいた太陽に起こされた。嫌な夢と部屋の暑さが相まったのか、寝汗をかき、はっと起き上がった。今日二度目のシャワーを浴びると、裸のままベッドに倒れこんだ。時計を見ると昼の2時だった。入り口ドアの下には、クリーニング完了の紙が差し込まれていた。紙には、アガハクリーニングと書かれていて、クリーニング済みの衣類はクローゼットに移動させたと書かれていた。その下には手書きで、『俺は公園でブドウ酒を飲む。気が向いたら来ればいいさ』と書かれていた。
「市政100周年」
 彼は頭を掻いて、それから抱えた。
 クローゼットには皺なく折りたたまれた下着類とズボン。ハンガーにはシャツがかけられていた。10時前にクリーニングが終わったのだろうか。それとも魔法使いによる転送が行われたのか。
彼も疑問に思ったのか、「魔法」と呟いた。
 清潔な下着と新品のようになった服に着替え、彼は歯を磨いた。一本に20秒くらいかけ、丁寧に汚れを取った。
 窓を開け、風を部屋に入れた。微かに草花の甘く、青い匂いがする。彼はそこをそのままにして、部屋にあるろうそくに息を吹きかけ消していった。高い場所は椅子に乗るか、壁にかけてあった団扇を使った。全部消し終わると満足したのか、ベッドに仰向けになり目を閉じた。しかし、そのまま眠りには入らず、財布を持って部屋を出た。
 受付には知らないホテルマンがいた。度のきつそうなメガネをして、短髪だった。ペンを持ち、何かを書いている。
「すみません。湖に行きたいのですが、どう行ったらいいでしょう」
 メガネくんは手を止め、腕時計をちらりと見た。
「今からですと、馬車かタクシーで行くしかありません」
「今からじゃないと、どういう行き方があるんですか?」
「毎朝8時と、10時にバスが出ています。戻りのバスは向こうを15時と17時に出ます」
「なるほど。明日は出ていますか?」
「はい。ご予約お取りしましょうか?」
 彼は、お願いします、と頷いた。
「お一人様でしょうか?」
「はい」
「それでは窓際の席をご用意致します。時間はいかがいたしましょう」
「8時と17時のやつで」
「かしこまりました。ボートやセーリングなどのアクティビティや、ガイド付き散策などもありますが、いかがですか?」
 メガネくんはパンフレットを彼に見せた。バス代やアクティビティなどの料金が載っていた。
 彼はそれを手に取り、首を振った。
「分かりました。それでは、部屋番号とお名前を教えていただきますか?」
「302のタミです」
「タミ様」宿帳を開くメガネくんの視線が動いた。「ありがとうございます。バス料金は後払いと先払いがございます」
「今払います」
 彼は財布を出し、なんとなくといったふうに玄関を見た。初老の夫婦が外に出て行くところだった。夫は今朝、ロビーで新聞を読んでいた気がする。彼は夫婦を見るとため息を吐き、目を閉じた。彼はお金を払い、正面に視線を戻した。
「ありがとうございます。バスは出発時刻前に玄関前に止まっています。乗車する際はバスの運転手にお声掛けください」
 彼は頷いた。そして、カフェへと向かった。中庭の生垣にツツジに似た花が咲いていた。
 今日は、彼女はいないようで、日焼けしたサーファー風のウエイターに案内してもらった。長い髪を後ろにまとめている。
 彼は、あの席がいい、と窓際の席を求めた。サーファーくんは気持ちのいい返事で、席に連れていってくれた。
 彼はコーヒーとケーキを頼んだ。カフェを見回すと、今日は男性の一人客が多いのが分かる。ほぼ全員がジャケットを羽織り、どことなくビジネスマンのかおりを漂わせていた。交渉相手が来るのを、暇を潰しながら待っているような。
 彼らのほとんどが40歳から50歳くらいだったが、一人は若かった。大学生のようなフレッシュで青い雰囲気を持っている。鼻は高く、肌は白かった。髪の毛は金で、瞳はグリーン寄りのブルー。南国の海に浮かぶ島をイメージさせてくれる。
 大学生は紅茶を飲みながら、フルーツを食べていた。テーブルの上には閉じられた本が置いてある。窓際の席に座っていたが、外はほとんど見なかった。ウエイターやウエイトレスが働く様子を眺めていた。
 彼は相変わらず外を見ていた。今日と昨日の僅かな違いを見つけたいのか、目を動かしていた。チョコレートケーキをつまみに、コーヒーをちびちび飲んでいる。時間もちびちびと進んでいく。甘さと苦さを感じながら、彼は戦う気力を必死に溜め込んでいるように見えた。
 一時間かけてケーキを食べ終わると、部屋でひと泣きし、そのまま寝た。起きたのは6時だった。ろうそくの火が消えた部屋は少し重い雰囲気がある。窓の外はまだ明るかったが、バニラ色の空が遠くから伝うように流れてきている。
 彼はトイレに行き、顔を洗った。上着を持ち、部屋を出た。
 ロビーに出てカフェの方向に足を延ばしかけたが、受付に踵を返した。
「すみません。レストランは予約が必要でしょうか?」
 彼はそこにいた女性スタッフに声を掛けた。今日のメガネフレームの色は、ひまわりのイエローだ。
「いえ、お席さえ空いていればご予約は必要ございません」
「ドレスコードはありますか?」
「普段の、今のタミ様の服装でも大丈夫でございます」
フレームの子は、にこりとほほえんだ。
「ありがとう」
「いってらっしゃいませ」
 彼は頷き、レストランへ向かった。中庭に出て建物沿いに進むと、さらに奥の林に続く歩道があった。歩道の入り口には看板が立っていて『レストラン スミカユ』と書かれていた。
 彼は木々を見上げながら進んでいった。林はほとんどが広葉樹で、森とは違った。人工的につくられたものかもしれない。歩道の端にある花も無造作にみえて、咲き誇っている。
 小さな池が見えてくると、白い外壁の建物が見えた。入り口に到着すると、正装した男性が頭を下げた。左の目元に泣きぼくろがある。
「ようこそおいでくださいました。ご予約のお客様でしょうか」
「いいえ。席は空いていますか?」
「はい。中央辺りの席になりますが、よろしいでしょうか」
 彼は少し考えるように髪の毛を触ったが、「はい」と頷いた。
「お部屋番号とお名前をいただいてもよろしいでしょうか」
「302のタミです」
「ありがとうございます。お料理代は後払いでございます。チェックアウト時にお支払いください」
 スタッフの開けた扉をくぐり、レストランへ入った。左右に続く廊下があり、どちらに歩くべきか迷っていると、スタッフが「こちらです」と先に歩いてくれた。
 左へ進むと、一度右に曲がった。すると真正面にまた扉が見えた。開けてくれた扉をまたくぐると、部屋には何十ものテーブルと椅子が並べてあった。不規則に、もしくは分かる人には分かるように規則的に並べてあるのだろう。きっと、そこに座った客が、他のテーブルの客の空間に入り込まないようにしてあるのだ。天井のシャンデリアには、いくつかのろうそくが付けられている。消えているものはない。全てが新しい。
 席に着くとすぐにウエイターがやってきて、メニューを持ってきた。
 客は何組かいて、池側のテーブルは埋まっていた。一枚ガラスから見える池のブルーと、林のグリーンが心を落ち着かせる。彼の席からは、蓮の葉が浮かんでいるのが微かに見えた。林の奥には青い光が飛んでいるが、彼はそれに気づいているのかいないのか、メニューを開いた。
「レストランか」
 そう言って、涙を溜めた。しかし、流すことはなかった。
 呼吸を整えつつ、彼はウエイターを呼んだ。サラダとコンソメスープ、ステーキを選び、食後にコーヒーとチーズケーキをお願いした。ワインは頼まなかった。
 レストランにはピアノ曲が流れている。有名曲ではなく、朴訥さのある田舎を想像させる曲だ。
 ステージにはピアノが置かれていたが、今は誰も弾いていない。生演奏は今日、あるのだろうか。
 彼はきょろきょろとまわりを見ている。カップルや夫婦のテーブルからは目をそらし、目線が落ち着いたのが、カフェで見た金髪と青い瞳の大学生だった。
大学生は一人で食事を楽しんでいた。白ワインを飲みながら、白身魚をゆっくりと時間をかけて食べている。一口魚を食べ、咀嚼し、目を閉じ、一息つき、ワインを嗅いで、口に含み、舌で味わい、飲むと同時に鼻腔にひろげる。その一連の動きが分かるくらいだった。テーブルに本はなかった。ウエイターや客を眺めることもなく、料理に集中している。
 大学生の動作を見終わると、彼もテーブルに集中した。サラダが出てくるとフォークでパクパク食べた。どこにも視線を逸らさず、無心で手と口を動かしている。スープを飲むのも早かった。音を出さずに、しかし、素早く処理していった。なぜかそこには焦りがあった。
 焼ける音が聞こえそうなステーキが彼の前に現れると、それもあっという間に消えた。火傷することなんてないと分かっているせいか、やけくそのような食べ方だった。付け合わせの野菜も頬張った。
 食後のコーヒーも、チーズケーキも他の客の歓談の中で消失した。大学生はまだメインディッシュの皿を持っていた。いんげん豆をナイフで切っているところだった。
 テーブルは知らぬ間にほとんどが埋まっている。真紅のドレスを着た女性がピアノの前に座り、ピン、と鍵盤を弾くと皆の意識がそちらに向かった。人々の声がフェードアウトし、何か美しいものが始まる予感を全員で共有した。
 彼はその隙にさっとテーブルを離れ、レストランを出た。廊下を足早に通過し、扉を開け、誰もいないことを確認すると駆け出した。前方から人が来るのを見ると腕で目をこすったが、耐えられなかったのか道を逸れ、林の中に入った。草木を分け、うずくまり、口を押さえつつも、嗚咽を漏らした。
 湿った土に涙が雨粒のように落ちた。広葉樹の葉を握りしめ、息を忘れたかのように泣き続ける。彼の周りは井戸の底のように暗い。
 彼は上を見上げた。まだ仄かに明るい空に、星が一つ二つ見える。
「耐えろ。耐えろ」
 彼はそう続けながらも立ち上がり、近くの木に額を強くぶつけた。幹の皮が落ち、彼の頭にも付いた。しかし、そこには傷も血もなく、首の折れる音もなかった。
 彼は再び、泣き出した。今度は口を塞がなかった。カエルか、鳥か。そう勘違いさせるような声で、悲しみを出している。地面を拳で叩き、草木を潰した。そこに、小さなくぼみが広がり続けた。
夕闇がさらに暗くなるまで彼はそこにいた。
 感情を吐き出し終えると、彼は道に戻り、ホテルへと帰った。そして誰もいないロビーを抜けて、カフェへと向かった。
 壁掛け時計をみると、いつの間にか8時30分を過ぎている。ウエイターのサーファーがやってくると、彼は窓際の席を指差し「コーヒーを一杯」と力なく注文した。
 案内を手振りだけで断り、いつもの場所に座った。黒い窓ガラスに彼の横顔と充血した左目が浮かんだ。
 彼は店内を見渡した。客は彼一人で、ウエイターもサーファーだけだった。
「お待たせいたしました」
 待った気もしないうちにコーヒーが届くと、両手でカップを包み、息を吹きかける。波が立ち、ほこりか服の繊維のかけらが浮かんでいるのが分かるが、彼は何もせずに飲んだ。もう一口、さらに一口、目を閉じてゆっくり飲むとひと心地付けたのか、ようやく息を大きく吐いた。そのままのペースで、ディナーの時間を取り戻すかのようにゆるやかに飲む。
 ようやくカップの底が現れると、目を充血させたまま彼は席を立ち、お金を払った。
「ありがとうございました。おやすみなさいませ」
 サーファーの言葉に反応せず、彼はホテルへと帰った。砂漠を歩くように靴が地面に沈んでいく。そんなふうにも見える足取りからも、彼の心と体が何かよくないものに捕らわれているのが分かる。
 ロビーに入っても彼は気持ちを隠せず、カーペットと靴底の摩擦の意味を考えているかのように歩く。受付にいたホテルマンが彼を見つけ、階段に足を掛けるまでじっと見ていた。
 三階に到着するまで、いつもの倍以上の時間がかかった。302と書かれたドアをもたれながら開けると、そのまま膝から倒れた。四つん這いの体勢のまま、ベッドまで行くと、つかまり立ちをして、ごろんと寝転んだ。
「待つ」彼は呟き、「どこにいるんだ」と続けた。そして、う、う、う、と泣き出し、両手で顔と頭をくしゃくしゃにした。寝返りをして、背中を丸めても泣き続けたが、しばらくすると冷静になったのか涙は止まった。彼はズボンを脱ぎ、布団をかぶるとそのまま眠りについた。
 しばらくすると、寝言なのか、「待たなければ」と一言置いていった。そして、再びゆるやかな呼吸音が部屋に響き始めると、夜が静かに迫ってきた。ろうそくの火がひとつ揺れたが、ろうが溶け切るまで消えることはなかった。
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