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森の上を彼は飛んでいた。木々は窓の下に見えている。

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 森の上を彼は飛んでいた。木々は窓の下に見えている。魔法車の運転席には、あの雑貨店の男が座っていた。
「寝相が悪いな。もしかして、夢遊病とかか」
「わかりません」
「そうかい」男はコーヒーを一口飲んだ。「本当にホテルに戻らなくていいんだな?」 
彼は頷いた。
「今はまだ戻りたくない」
「金がもったいねーな。俺ならホテルから出ないね」
 彼はまた頷いた。
 男はちらりと彼の顔を伺い、それから口を閉じた。
 雲はなく、太陽がみんなを照らしていた。春の暑い日になるかもしれない。
「街に着いたら、服を買います」
 彼のシャツとズボンはところどころ切り刻まれていた。奥にある皮膚はなんともない。
「俺の知り合いのところに行こう。安くしてもらえるし、俺にいくらか入るかもしれん」 
 彼はどうでもいいというふうに頷いた。
「今日は祭りだ。楽しんでいくといい」
「おかしなことって、いくらでも起きるんですね」
「そうだな。予想外って言葉があるくらいな」
 魔法車は彼の心とは反対に、真っ直ぐ進んでいった。森がなくなり、小さなビル群が見えた頃に、彼は顔を覆った。大きなため息を吐き、また前を向いた。
 太陽は随分と昇ってきていた。彼が顔を覆ったのは、眩しさのせいかもしれなかった。男は黙ったまま運転し、森を抜け、住宅と田畑の上を滑り、ビルの合間を縫った。虫1匹もフロントガラスにぶつからず、鳥の糞が落ちてくることもなかった。
 街の大通りに着くと、ゆっくりと道路に降りた。雪のように優しく、地面とぶつかった衝撃はさほどなかった。
「朝早いからなあ。店主を叩き起こすかな」
 男は低く笑い、横目で彼を見た。彼はにこりともしていなかった。
 車は路地に入り、何度か曲がったあとに停まった。日の光は建物に遮られている。
 男は車を降り、彼にも降りるように指で促した。大きなくしゃみをして、レンガタイルの貼り付けられた建物のスチール缶のようなドアをリズムよくノックした。そして、押し開けた。ドアの先は何てことない狭い通路で、奥に鉄かアルミ製のドアがあった。二人は黙って、歩を進めた。
 彼は後ろを振り返り、肩を落とした。
「これも魔法ですか?」
「魔法?」
「ドアノブがどこにもない」
 たしかに表にも、廊下側にもドアノブは付いていない。
「ドアノブならあった。取れただけだ。別に魔法でもなんでもない。君にも開けられる。コツが必要なだけだ」
「そうですか」
「心配するな。タダ同然で服を新調してやるよ」
「いえ、お金ならまだあります」
「服買ったら、メシにしよう。安い店がある」
「食べなくても平気です」
「俺は平気じゃない。付き合ってくれ」
 男が進むと、彼も無表情ながら進んだ。鉄皮の内側には、渦巻く感情があるのだろうが、誰にも分からない。
 奥のドアをもう一度ノックし、男は扉にあったドアノブを回した。部屋に入ると、壁のスイッチを押して電気をつけた。
 そこは段ボールが縦横に並べられ、シャツやズボンがハンガーラックに吊るされていた。明るい色のものが多かった。
「卸問屋だ。服屋といえば服屋だろ」
 男は床に置かれたダンボールを叩き、それから腰を掛け、背伸びをした。
「どれか好きなものを選びなよ」
 彼はなんとなくといったふうに、シャツとハンガーに触れて鳴らした。そして、はっとズボンの前ポケットに手を入れ、後ろポケットにも手を入れ、それを繰り返し、諦めた。「すみません。財布がない」
「心配するな。ここにある」男は彼の財布を取り出し、投げ渡した。「車に落ちてた。盗んだわけじゃない。中を調べてもらってもいい」
 財布の中身は何も変わっていないようで、男をちらりと見てから、彼はポケットに納めた。
 5分か10分程、歩き回っただろうか。それでも決めきれずに、彼はハープを弾くように服に触れていた。
 あれとこれ、それとこれ。組み合わせは簡単なはずだった。別におしゃれをする必要もない。
「どうした? お気に召すものがない?」
「いえ」
「金のことなら気にするな。払えなきゃ、それはそれでいい」
「なぜです?」
「ここは在庫の山だからだよ。周回遅れで、誰も着るやつなんかいない」
「なんで、僕に世話をやいてくれるんですか?」
 男はふっと笑った。呆れたような、もしくは優しさを感じるような音だった。
「世話じゃない。金はもらう。あとは、まあ、一期一会だからな。こう見えても俺はサービス業を商っている男だぞ。しかも、旅行業もやっている。世話は仕事さ」
「僕は金持ちじゃない」
「知ってるよ。身なりをみれば分かる」
「それでも世話を?」
「……ボロボロの格好でセコイアの下に倒れている人間を見捨てることがお前にはできるか?」
「病院か、警察にでも連れていけばいい」
「お前は病院か、警察にでも行きたいのか?」
 彼は髪の毛を触り、頭を振った。
「すみません」
「いいんだ」
 男はじっと彼を見たまま言った。
 結局、彼は深い青色のジーンズと白のTシャツ、紺色のジャケットを選んだ。男はそれを見て、小さな黒いハート柄が散りばめられたシャツを追加し、白のスニーカーもプレゼントした。
 彼は財布を手に取り、何枚かのお札を手に取った。いくらか聞くのは怖いが、安く見積もるのも失礼だと感じているのか、手を出したり引っ込めたりしていた。
 男はそれを見て、全てを理解したのか首を振った。
「金はまだいらない。ここから帰るとき、俺の店で適当に買い物していってくれ」
 彼はただ頷いた。
 着替え終わると、ボロボロになった服は男が手に取り、大きなビニール袋に捨てた。彼も文句は言わなかった。
「それにしても、あいつはどこいったのかな。いつもここにある段ボールを敷いて寝てるんだけど」
「お店の人ですか?」
「そう。デブのマー。いいやつだよ」
「やっぱりお金、置いていったほうが」
「いらん、いらん。マーは金持ちだ。ここが全焼したって気にも留めないだろうよ」男はハンガーにかけてあったジャケットを手に取って羽織った。「朝食を食べに行こう。付き合ってくれ」
 男の強制的なお願いに、彼は頷くしかなかった。
 男が向かったのは、大きな公園前にあるダイナーだった。祖父の代からやっていますといったような、数世代前の流行が残っているような雰囲気があった。それはチェック柄のテーブルクロスや、ジュークボックスから見てとれた。もう落ちないだろう壁紙の汚れからも。
 彼は窓際を陣取り、やってきた老人にモーニングメニューを二つ頼んだ。老人は頷くと、黙って去り、すぐにコーヒーを持ってきた。
「あのじいさんはロボットなんだ」
 面白くもない冗談を言って、男はコーヒーを飲んだ。
 彼もそれに応じて、コーヒーを飲んだ。何時間ぶりの飲み物だろうか。彼はがぶがぶと飲んですぐにカップを空にした。
「なるほど」男は言って、外を見た。「やっぱり席を移そう」
 二人は店の奥のテーブル席に移動し、男はジャケットを脱いだ。目線を何度か外にやって、何かを気にしていた。
「なんで、セコイアの下に倒れてた?」
 彼は、間を保つ言葉さえ言い淀んでいるかのように、口を何度か開け、閉じた。
「ボロボロになって。セコイアの枝に襲われたみたいに」
「いろいろあったんです」
「いろいろとは?」
「死にたいんです」
 ただそれだけです、というふうに彼は首を振った。
「若いのに、もったいない」
「もったいなくはありません。僕の命は、僕のものです」
「ごもっとも。ただ、その命、他人に使うのがいい使い道だと思わないか」
 彼は半ば睨むように男を見た。そして、負け犬のように目線を下げた。
「使いたい人がいません。もういないんです」
「男はそういうもんだ。俺も、そういうもんだ」
 さっきの老人が、トーストとジャムとバターが入った籠と、厚みのあるベーコンと目玉焼きの乗ったプレートを二皿置いていった。一皿にベーコンは5枚、目玉焼きは三つあった。
「食べきれなくてもいい。でも、食べた方がいい」
 男が言い終わらないうちに、今度はサラダを持ってきた。クルトンと、こっちもベーコンの欠片が散りばめられていた。
 最後にナイフとフォークを置き、コーヒーのおかわりを注ぐと、黙って会釈をしてカウンターの向こうに退いた。
 彼はフォークを持って、乱暴に食べ始めた。初めてカトラリーを使うかのように、刺して、削って、口を皿にもっていった。
「シンプルだが、うまいだろ。ボリュームもある。調理方法に工夫はない。つまり仕入先がいいんだな」
「おいしいです。ただ、お腹が空いているわけじゃないんです」
「腹、空かないのか」
「はい。嗜好品です。嫌になります」
「そうか。とりあえず、まあ、祭りでも楽しんでいけばいい。面白いことが起きないとは限らない」
「もうなにも起こらなくていいです」
「そうか。でも、世界はそうはいかない」
「そうですね」
「投げやりだな」
 彼は皿のベーコンを見下ろし、動きを止めた。地球の自転から彼だけが取り残されたようだった。
「だから、命も投げ出すのか」
「そんな力も残っていません。どちらかというと、捨てる、です」
「同じだよ」
 男はナプキンをとって、口を拭いた。
「なぜ、そんなに死にたい」
「誰も信じないでしょう」
「信じるさ」
「警察は信じてくれませんでした」
「警察が何かを信じるとでも思うか? 俺は思わない。彼らは現状を知るだけで、それ以上のことをしない。鍋の中のアクを掬うように逮捕するのが上手いだけさ」
 男はにやりと笑ったが、彼は何にも気付いていないかのように、テーブルの一点を見つめている。
「恋人がいなくなったんです。突然。確かに存在したはずの恋人が」
 男はナイフとフォークを置いて、口を拭いた。
「なぜいなくなった?」
「こっちが知りたいです。喧嘩をしたわけでもないのに。それに彼女だけじゃなく、彼女が持っていた物が全て消えたんです。物だけじゃない。関わりのある人もです。頭がおかしくなったのかもしれません。でも、彼女は確かに存在したんです」
「なるほどね。……でも、まあ、あんたがこの場所に来たのは何かの因果だと思う」
「因果?」
「まあ、楽しめよ。祭りが始まるから」
 彼は納得できない顔で、男を見た。だが追及することはなく、ベーコンに視線を向け、食べ続けた。
 窓の外で若者が数人、騒ぎながら歩いているのが見えた。手には酒瓶を持ち、それを回し飲みしていた。
「飲み食いしたければ中央公園に行けばいい。式典が好きなら市役所広場だな」
「どこにも行きたくないです」
「人が多く来る。恋人もいるかも」
 彼は顔を上げた。怒りなのか、悲しみなのか、男を真っ直ぐ見た。
「セコイアの下に倒れていたのは事故です。そして、まだ僕はホテルに用がある。待ち人がいます。もう少し生きなければなりません。でも、過度な期待はしません。結局、僕は死を選び続けます。唯一の救いです」
 男は細かく頷いた。納得はしていない。でも、もう説得はしないようだった。
「夕方にここでまた落ち合おう。ホテルに飛んでってやるよ」
「ありがとうございます」
「それまでは、死ぬのはなしだぜ」
「わかりました」
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