酔っ払いの戯言

松藤 四十弐

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まれびと

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 ビール二杯。日本酒二合。梅酒のソーダ割二杯。ウーロンハイ二杯。枝豆。マグロと山芋の出汁和え。イカと鯛の刺身二人前。揚げ出し豆腐。甘めの卵焼き。ほうれん草と厚切りベーコンの炒め物。チキン南蛮。サーロインステーキ。鯖の塩焼き。味噌汁二杯。鶏飯二杯。しらすチャーハン大盛り。牛乳寒天。アイスクリーム。
 佐々木が今晩、平らげた食べ物だった。背は大きいが、横幅は大したことないこの男の中にどんな胃袋があるのか、薫はいつも疑問に思い、呆れて、しかし感謝もしていた。
 そして、佐々木はお茶も飲んでいる。これは別腹といった風にゆっくりと。店終いはとっくに終わっていて、客は彼以外、誰もいない。
「今日はお腹いっぱいになりました?」と薫は洗い物をしながら聞いた。閉店時間はいつものように過ぎている。
「いや、八分目くらいですね。ちょうどいい感じです」
「満腹になったことあるんですか?」
「ありますよ。一週間何も食べられないときがあったのですが、そのあとにバナナを食べたら、一房でもうお腹がぱんぱんで」
 それでも充分だろうと、薫は苦笑いをした。
「食費も大変でしょう。毎日、こんなに食べていたら」
「いえ、食べるのは四日に一食くらいです。あとは飲み物だけでいいし、こんなに食べるのは薫さんのお店でだけですよ」
「ありがとうございます」
 薫は軽く頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。いつも美味しくて」と佐々木は笑ってお茶を一口啜った。「あ、そういえば薫さん」
「もう閉店ですよ」
 さっきまでの感謝は、気持ちいい程、素早く奥へ引っ込んでいた。
「まれびとって知ってます?」
「お会計ですね」
「怖い話じゃないですよ」
「……佐々木さんって、モテないでしょ」
「あ、そうそう。そういう系です」
「そういう系?」
「恋バナ系です」
「私、そんな話してませんけど?」
 そういうことじゃない。薫の驚きを含んだ呆れ顔を見ずに、佐々木は話し始めた。


 これは大昔の話です。江戸時代とか、もしかしたらもう少し前の。とある山村からまた山奥に入ったところに、小さな集落がありました。そこに歳の近い兄妹がいました。二十代そこそこで、結婚していてもおかしくない年頃です。でも、していません。理由はひとつです。結婚に適した男女がいなかったんです。同じ年頃の男女はいました。でも、親類。つまり、血が近いのです。子を作ることはできません。しかし、いつまでも子を作らずにいれば血は絶えます。では、どうするか。方法はあります。他の村や集落に行くか、また逆に連れてくるかです。
 しかし、その集落から出ていく者や、集落に来る者はいません。そこは忌み嫌われた流れ者の地だからです。穢れた土地、穢れた人。そう思われていました。
 では、どうするか。偶然か必然か、集落にやって来る流れ者を待つしかありません。流れ者は歓迎されます。新たな血を残してくれるからです。そこに住み着く流れ者もいるし、また流れていく者もいます。でも、どちらでもいい。些細なことです。大切なのは、血を残し、次に繋げること。
 その流れ者のことを、こう言います。

 まれびと
 
 漢字で書くならば、稀な人で稀人、または、異人、客人。元々はあっちの世界から、こっちの世界へ来る神や、霊的な何かをそう呼んで祭事を行っていたみたいですが、いつしか外からの来訪者をまれびととして扱い、歓迎するようになったみたいです。
 さて、それは置いといて兄妹の問題です。この二人には秘密がありました。それは恋仲ということです。禁断の恋というやつですね。誰にも知られてはいけません。禁忌なので。もちろん子を残すこともいけない。本能的にか、経験則なのか、血が濃くなるといけないと、誰もが知っていました。
 二人は関係を隠し続け、まれびとが来ないように祈りました。
 しかし、冬に差し掛かろうとしていたある日、まれびとが訪れます。その男は薬売りで、山に迷い込んだところ、集落を見つけて入ってきました。皆は大歓迎で、男をもてなしました。当然、女もあてがわれます。年頃の女が数人選ばれて、夜を共にします。これでいい。しばらく滞在してもらおう。薬屋というこのは諸国を旅してるだろうから、この集落に定期的に女や男を連れてくるようお願いしてみようか。それはいい。なんて、一方的な希望や要求がわいわいと出てきている中、浮かない顔が二つ。兄妹です。妹は夜伽の相手の一人に選ばれていました。
 二人は宴の中を飛び出し、山の中に逃げ込みました。駆け落ちしようと思ったんです。でも、二人がいないことに皆、すぐに気付きます。なんせ人は少ないですからね。二人は逃げたんだ。なぜだ。わからん。理由は知らずとも皆は彼らを必死に探し、見つけました。彼らは山の中を追われ、遂には追い詰められます。二人の目の前には滝。大雨の影響か水量は多い。水はもう冷たいだろう。死ぬかもしれない。でも、その方がいいのかもしれない。
 兄妹は意を決して、飛び込みました。
 発見されたのは、翌日です。濡れた体を震わせながら集落に戻ってきました。
 妹だけ。
 皆は口々に罵倒しましたが、戻ってきただけいいではないかと、まれびとの男がその場を収めました。
 まれびとは雪が降り、雪解けの頃まで滞在しました。夜の相手をした二人に子どもができ、皆は大層喜びました。妹にはできず、皆からはやはり神から嫌われたのだと言われます。実の親からもいびられるようになりました。しかし、妹は子ができないことに内心、ほっとしました。気がかりなのは兄のことだけ。兄は見つかっておらず、生死不明でした。妹は、生きていますように、またいつか会えますように、と祈りました。
 数年経ったでしょうか。また冬に差し掛かろうとしていたある日に、まれびとがやってきます。皆は喜び、また宴です。そんな中、やはり妹は虚げな顔をしていました。でも、知ったことではありません。妹はまれびとの男の相手に指名されます。しかし、ひとつ、前回と違ったところがあります。それは、まれびとが妹を指名したというところです。
 狭く仄暗い部屋の中、妹は顔を下げたままです。そんな妹の肩に男は手を乗せ、引き寄せます。女は目を閉じ、全てが早く終わるように暗闇を想像します。
「待たせてすまない」
 男は妹の耳元でつぶやきました。何のことなのか妹にはわかりせん。男はさらに言葉を続けます。それは兄の名前でした。そして信じられないようなことを語り始めました。
 自分は神にお願いをして、姿を変えてここにきた。
 妹は伏せていた顔を少し上げ、また顔を伏せました。全く知らない顔が脳裏に残ります。その妹を見て、男は兄と妹しか知らない思い出を語っていきます。山で栗を拾いに行き、初めてお互いの気持ちを確認したこと。半分冗談で、しかし半分は本気で駆け落ちの計画をしたこと。滝に飛び込んだ日、妹が二度転んで膝を怪我したこと。妹の好きなところ。妹の好きな食べ物、嫌いな食べ物。そして、自分の好きな食べ物、嫌いな食べ物。その他にも二人しか知らないことや兄のことを男は語りました。
 語り終える頃には、妹は男の顔と目を見ていました。
 あとは何も言うことはありません。男は集落に腰を落ち着け、妹は子ができ、幸せに暮らしました。

「どうです?」
 佐々木は薫の目を見て言った。
 薫はその目を強く見返した。
「私だって、馬鹿じゃありません。佐々木さんの話だから、そう単純な話じゃないんでしょ?」
 佐々木は満足そうに小さく笑った。
「さすがです。といっても、僕が実際に体験した話ではないので真実はわかりません。でも、ここから話すのは真実の話です」


 ある町で、母親と娘が二人で暮らしていました。所謂、母子家庭です。娘が物心つく前に父親と母親は離婚しました。理由は酒乱とそれによるDV。母親の体にはいくつも痣があったそうです。幸いにも娘を殴ることはありませんでした。警察沙汰にもなり、接近禁止命令の間に母娘は離れたところに引っ越しました。それ以来、母親と父親が会うことはありませんでした。それでも、メールか電話で連絡はたまにとっていて、請求額とはほど遠いとはいえ、養育費も振り込まれていたようです。母親が父親のことを娘に話すことはほとんどありませんでした。娘が聞いても碌な男じゃなかったと言うばかり。次第に娘も父親について聞くことはなくなり、嫌悪の感情を抱くようになりました。
 母子家庭は簡単なものじゃありませんでした。母親は身を粉にして働き、娘は寂しさを耐えて育ちました。ただし、それに負けない気質を彼女たちは持ち合わせていたようです。小、中、高と決して裕福とは言えないながらも人並みの幸せな時間を過ごしたみたいです。
 でも、娘が高校を卒業して、就職した食品工業で働き始めた頃、母親が病に倒れます。母親は痛みを隠して働いたようですが、癌でした。もう長くは生きられない。そう思った母は、父親のことを話します。
 酒乱で暴力を振るう酷い男。ただ、ハンサムでモデルみたいな体型をしている。たまにお小遣い程度の養育費を送ってくる。それは、あなたの銀行口座に入れている。通帳はタンスの一番下の引き出し。ハンコは食器棚の奥。暗証番号はあなたの生まれた時刻。母子手帳は鏡台の引き出し。父親の住所は携帯電話のメールを調べればわかる。
 それだけを言って、母は亡くなっていきました。
 葬儀を済ませたあと、娘はようやく父親に母が亡くなったと伝えていないことに気が付きました。彼女は悲しみを意識して忘れようと母親の携帯電話を調べ、そこにあったメールのやりとりと、父親の名前と住所を見ます。新幹線で一時間程度の場所に住んでいました。それからタンスの引き出しを探すと、銀行の通帳が出てきました。中を見ると数千円が少しずつ入金されていて、合わせて一カ月から二カ月程度の生活費になるくらいの金額だったそうです。約十八年でこの程度。彼女はそう思いながら、母親の頑張りと思い出、父親への憎しみが胸内で交差し、嗚咽を漏らしながら、その日を過ごしました。
 子どものように泣き疲れて寝ていると、ふと母親の声が聞こえたといいます。なんとなく母親の気配を感じた本棚の後ろを見ると、薄い箱が落ちていました。中を見ると、そこには古い写真が一枚、入っていました。写真には若い男女が並んで写っていて、その一人が母の面影を残している。じゃあ、もう一人は。そう思って視線を向けると、ハンサムで背が高く、スレンダーな男の顔には、娘に似た雰囲気がありました。
 これが父親。娘は直感的に思いました。今はもう五十代になっているだろう、父親の若い姿でした。
 翌日、娘は決心して、母の死を伝えるために、そして、送られてきたお金を全て返すために、父親を訪ねました。
 父親が住んでいるという場所は、古びた一軒家でした。外壁は汚れ、屋根の瓦はいくつか無く、青いシートが靡いていました。
 人が住んでいないのかと一瞬思いましたが、玄関扉の横のぼやけ透けたガラスの向こう側に、青い傘がぼんやりあるのを見て、娘は一歩進んでチャイムを鳴らしました。
 人の気配がして、ドアが少し開きました。その隙間から男の顔が見えました。
 写真とは違う。
 ハンサムでも、背が高くもない。五十代には見えない。もう少し若く見える。
 娘はそう思いながら、父親の名前を聞こえるように、そして、訊ねるように口に出しました。
「はい」
 娘はそのまま何も言えず。立ったまま。
「なにか?」
 男は続けます。でも、娘は何も言えません。
「なんですか?」
 男は困惑したように言います。
 娘は混乱しながら、一番最初に浮かんだ言葉を伝えました。
「母が死にました」
 その言葉を聞いて、男は怪訝な表情を見せます。しかし、数秒後には、はっとした顔を見せました。
「ちょっと待っててください」
 男は一度引っ込み、数分後に上着を羽織って出てきました。
「少し話しましょう」
 そう言って、男は娘の名前を口に出し、間違いないか確認しました。
 娘は頷き、しかし、頭はまだ混乱の中にありました。
 自販機で買った紅茶とコーヒーを持って、二人は公園のベンチに座りました。ペッドボトルの蓋を開け、二人で飲む。でも、二人のは両手を広げた程の間を開けている。
 最初に口を開いたのは男の方でした。
「すみません」
「すみませんって」と娘は男を見て言いました。「何ですか?」
「お悔やみ申し上げます」
「お父さんじゃないんですか?」
 男は目を閉じ口を結びました。そして、意を決したのか、ゆっくりと目を開けて語り始めました。
 父親とは違法な日雇い労働で知り合った。常に酒を飲んでいる人で、飲んでいないと怒鳴り、誰にでも喧嘩を売っていた。だから少しずつ働く場所もなくなっていった。男もよく怒鳴られていた。だから怒鳴られたくなくて、安いカップ酒を与えていた。そうすると男は上機嫌になり、嘘か本当かいろんな話してきた。その中に家族の話があった。妻とはうまくいかなかったが、娘は本当に可愛かった。会いたいが会わない方がいい。怒鳴ってしまうかもしれないから。そう言って、自分のギリギリの生活の中からできるだけのお小遣いを送っていると微笑んでいた。喜んでくれているかな。何を買っただろう。もう年頃だから化粧品かな、服かな、彼氏はできたかな。でも会わないよ。怒鳴ってしまうから。
 そんな数年の月日が流れて、父親はある日、突然、酒の臭いもさせずに見知らぬ若いやつとやってきた。変な雰囲気をもっていて、あまり関わりたくないなと思いながらも、父親のことが心配で話を聞いた。
「戸籍を買ってくれ」
 父親は言って頭を下げて言った。手が震えていた。
「戸籍? なぜ? なぜ自分に?」
「理由は聞くな。とにかく、おまえに買ってほしい。おまえしかいない」
若いやつは「無理すんなよ」と見下して言った。
 父親は男にすがり、さらに頼んできた。他のやつに俺になってもらうのは嫌だ。そして、耳元で「娘を頼む」。そう言った。
 正直、戸籍は欲しかった。誘拐されたのか、捨てられたのか、事故にあったのか、とにかく自分の記憶が一切なかったかは、誰かになりたかった。
 酒の臭いもさせずに涙をこぼす父親を見て、頷いた。
「金あるの?」
 若いやつの言葉にも頷き、数日待ってほしいと伝えた。それから細々と必死に貯めたお金をかき集め、仕事を斡旋している闇業者にも頭を下げて幾らか借りた。百万円にも届いたか。
 それで足りたかどうかはわからない。でも、父親の荷物の全てを若いやつから受け取った。保険証も、携帯電話も、銀行口座も、全て。
 誰かになったものの、希望や嬉しさの中に、申し訳なさが常に付き纏っていた。それでも、誰でもない自分が誰かになることで、マシな職に就けたし、まともな生活もできている。その感謝と償いの気持ちで、お金を父親の代わりに送っていた。本当はもっと送りたかったけど、そうしたら父親ではなくなってしまう気がして。
 そう話しました。
「父はいま、どこにいるんでしょう」
 娘の問いに男は首を振るのみでした。
「母とメールしていたのもあなたですか?」
「はい。簡素なメールでしたけど」
「なぜ、あなたは母に住所を教えたんですか?」
「以前、あなたのお父さんがメールで教えていたので、変わったのなら教えるべきだと思ったんです」
「それでお父さんの代わりになったつもりですか?」
 父親のことは憎かった。でも、その父親がいない、そして、怒りをぶつけられないのは悔しく、寂しかった。
「申し訳ありません。何をどうしても、いつかはバレると思っていました。住所を教えたのも、バレてもいいと思っていたからかもしれません。……警察に通報してもかまいません。覚悟はできています」
 娘は男の決して整ってはいない顔をしっかり見ました。
「お父さんはもういないんですね」
 涙ぐむ娘の目を男は見て、思わず逸らし、首を垂れました。
「申し訳ありません」
 娘はしばらく声を出さずに泣き、男は泣き止むのを待ちました。
 気持ちの整理をしていうちに、天涯孤独の二人が一緒にいるのに気付くのは、そう遅くはありませんでした。どちらともなく質問し、男は娘の人生を聞き、男は記憶に限りある人生を語ります。そして、二人は連絡先を交換し、親子であり、親子ではない関係を始めました。もう送金はしないでと娘は言いましたが、男は娘が二十歳になるまで送りました。
 数年が経ちました。娘の勤めていた会社が倒産し、新しい就職先を探していたときに、男がこっちに来ないかと提案しました。たしかに娘の暮らすところより、大きな街だし、仕事もたくさんある。娘はその提案に乗り、それなりの荷物と母親の位牌を持って引っ越してきました。
 仕事を見つけ、それから新居を見つける予定でしたが、不思議と男との共同生活は心地よく、何も言わないままに腰を落ち着けました。親子なのに、親子ではない。でも、家族のような暮らしに安心したのでしょう。
 男女の仲になったのは、それからしばらくしてからです。何の不思議もありません。歳は少し離れているようでしたが、男の実際の年齢はわからないので、もしかしたら十歳くらいの差かも。とにかく二人は恋人同士になりました。形だけとはいえ、親子関係にも関わらず。籍を入れられないのと、親子ということが他人にばれたら面倒だという問題を除けば、他の事柄は大したことないと思っていたかもしれません。
 でも、まれびとの話と違い。二人で幸せには暮らせませんでした。
 男は死にました。会社の階段から転げ落ち、頭を打ちました。救急車に乗せられたときには意識があり、誰かに押されたと言ったそうです。搬送先の病院を見つけ、救急車が発進します。そして、サイレンを鳴らしながら交差点に進入したとき、横から大型トラックが猛スピードで突っ込んできました。救急車は横転し、大破しました。幸運にも運転手や救命士は助かりました。でも、男は死にました。大型トラックを運転していた誰かはその場から逃げて見つかっておらず、そのトラックは盗難車で犯人に繋がる手がかりはありませんでした。
 娘は一人になりました。


「そういう話です」
 佐々木は喉が疲れたのか、お茶をぐびっと飲んだ。
「やっぱり単純な話じゃないですね。しかも、恋バナじゃない」と薫はため息を吐いた。
「え、そうなんですか? 恋愛の話ですよね?」
「ただの嫌な話です」
「……そうですか」
「はい」
 佐々木は少し考えるように腕を組んだ。
「でも、この二つの話を聞いて、僕は思うんです。幸せに繋がる嘘もあるし、不幸に繋がる真実もあるって。だから、暴かないでいい嘘もあるし、隠すべき真実もあるんじゃないかって思うんです」
「でも、真実を話したことと、父親の戸籍を買った男が事故に遭った不幸は関係はないんじゃないですか?」
「そうかもしれませんね。でも真実を話したからこそ、二人は一緒になったのだと思います」
 薫は考え込んだ。しかし、すぐにそれをやめて、前を向いた。
「じゃあ、お会計お願いしますね」
 佐々木はお茶を飲み干し、席を立った。今日は素直だなと、薫は意外に思って、嬉しくなった。だから調子に乗って、久しぶりに聞いてみることにした。
「佐々木さんが閉店時間を過ぎてもここにいる理由って、何ですか?」
 今までも何度か聞いたことがあったが、教えてはくれなかった。
「守秘義務です」
「教えてください。事件のことはベラベラと話すのに」
 佐々木は財布からお札を出し、トレイに置いた。
「事件のことを話してしまうのは、僕の悪癖です。本当はダメなんですけどね。……いや、ダメというか何というか」
 薫はレジを開けて、お釣りの千円札と小銭を手にとった。でも、佐々木には渡さない。
「教えないとお釣り返しませんよ」
「手強いなあ」と佐々木は笑って手を出した。
 本当にお釣りを渡さないのを見て、佐々木は手を置いて、口に出した。
「理由は簡単ですよ。薫さんの料理が美味しくて、余韻に浸りたいからです。……僕は煙草を吸わないので、その代わりにゆっくり熱いお茶を飲むのが好きなんです。薫さんが話を聞いてくれるのも楽しいし、ついつい長居したくなるんです」
 佐々木は真実を言って、嘘をついた。
「本当ですかあ?」薫は満更でもない顔を見せて、お釣りを渡した。「そういえば、よくよく、考えたら佐々木さんがいることで防犯にもなっていますよね。いざとなったら、警察の人がいると安心だし。まあ、でも、もう少し早く帰ってくれたら助かります」
 佐々木は薫の発言に眉を動かし、少し驚いたような表情を見せた。でも何も言わなかった。
「そういえば、薫さん」
「はい」
「僕は聞き込みや尋問といった類のことが苦手なので、あまりやらないんですけど、薫さんには聞きたいことがあったんです」
「はい。何でしょう」
「隠し事ってあります?」
「隠し事?」
「そう。隠し事」
「ありません。……いや、あったとしても些細なことだし、人に話すことはありません」
「そうですか。薫さんのおばあさんが、心配していたので。薫さんは真っ直ぐ過ぎるところがあるから、恨みを買ってないだろうかって」
「おばあちゃんが? 佐々木さんに?」
 薫は祖母と佐々木の関係性を不思議に思ったが、生前の祖母の人たらしのような性格を思い出し、勝手に納得した。
「ええ。言っていました」
「大丈夫ですよ。別に。両親とは離れて暮らしているけど仲は悪くないし、友だちもいるし、元彼とも変な別れ方していないし、常連さんにストーカーもいないし」
「そうですか」
「ええ、そうです」
「ちなみに薫さんは、昔、どんな仕事してたんですか?」
「ただの事務員ですよ。面白くなかったなあ」と笑った。「普通に辞めました。いざこざで辞めたとかじゃないです」
「そうですか」
「ええ、そうです」
佐々木が店を出るとぽつぽつと雨が降り始めた。佐々木は、ごちそうさま、と言ってちょうど走ってきたタクシーに手を上げた。タクシーが走り去るまで薫は見送り、それから店に入った。
 それからしばらくの間、佐々木は店に訪れなかった。
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みんなの感想(1件)

2023.05.23 ユーザー名の登録がありません

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松藤 四十弐
2023.05.23 松藤 四十弐

読んでいただきありがとうございます!
感想も嬉しいです😭
ゆっくりになるかもしれませんが、最終回までよろしくお願いします🙇‍♂️

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