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小学校高学年のメンタル系名誉娘
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夕暮れ時の商店街は、メンソレータムの匂いと古本屋の埃っぽさと、少し湿った土の匂いが混じり合っていた。千尋は、その匂いをすうっと鼻から吸い込み、フリルのついた白いブラウスの袖をふわりと揺らした。
「ちーちゃん、お疲れ様。今日もかわいかったよ」
肉屋のおじさんが、揚げたてのコロッケを紙袋に入れて差し出す。千尋は、丁寧に両手でそれを受け取った。彼女は、この街の名誉娘だった。一年ごとに選ばれる、たったひとりの女の子。リボンとフリルが似合う、誰からも愛される「理想の娘」。
その理想を演じることは、千尋にとって息をすることと同じだった。完璧な笑顔、完璧な姿勢、完璧な言葉遣い。すべてが彼女の当たり前だった。
しかし、その日は違った。コロッケを受け取った千尋の足元で、突然、小さな石が跳ねた。見上げると、見慣れない男が立っていた。薄汚れたベージュのコートを着て、大きなカバンを肩から下げている。彼は千尋の頭からつま先までを、値踏みするようにじろじろと見つめた。
「君が、例の『名誉娘』か」
男は、抑揚のない声で言った。千尋は、反射的に完璧な笑顔を作った。
「はい。何かご用でしょうか?」
男は、カバンから小さなメモ帳とペンを取り出した。
「国民性調査員だ。君の住むこの町の調査に来た」
「調査?」
「ああ。君のような『理想』の国民が、どうやって形成されるのか、な」
千尋は、男の言葉に違和感を覚えた。理想。それは、周りの大人が彼女に与えた言葉だ。彼女自身が作り上げたものではない。
「そのフリルとリボンも、君の意思か?それとも、誰かに着せられているのか?」
男は、千尋のブラウスのフリルに指を向けた。千尋は、答えに詰まった。フリルもリボンも、彼女の「役割」を完璧にするためのアイテムだ。それを着たいと思ったことはない。でも、嫌だと思ったこともない。ただ、当たり前だった。
「……これは、街の皆さんが、私に似合うと選んでくれたものです」
千尋は、なんとか言葉をひねり出した。男は、ふっと鼻で笑った。
「そうか。じゃあ、君の個性はどこにある?フリルとリボンの下か?それとも、その完璧な笑顔の裏か?」
千尋は、男の言葉に動揺した。その日から、彼女の日常は少しずつ崩れていった。街を歩けば、男の言葉が頭をよぎる。リボンの色は何色がいいか、フリルの幅はどうするか。すべて、誰かの好みや期待に合わせて選んでいたことに気づいた。
ある日の午後、千尋は公園のブランコに座っていた。いつもなら、見守ってくれる大人や、話しかけてくれる子供たちがいる。でも、その日は誰もいなかった。男は、千尋の隣のブランコに腰を下ろした。ぎい、ぎい、と錆びた音が鳴る。
「君の笑顔は、美しいが、少しだけ怖いな」
男は、空をぼんやりと見上げながら言った。
「…どうしてですか?」
「空っぽだからだ。感情がない。ただの型だ」
千尋は、反論できなかった。男の言葉は、まるで彼女の心を見透かしているようだった。
「君が本当に好きなものは何だ?フリルやリボンじゃなくて、だ」
千尋は、しばらく考えた。本当に好きなもの。
「……カブトムシ、です」
男は、驚いたように目を見開いた。
「カブトムシ?」
「はい。オスもメスも、強くてかっこいい。見ていると、少しだけ、心が強くなれる気がするんです」
千尋は、恥ずかしそうに言った。カブトムシを捕まえるために、フリルとリボンを汚したことは秘密だ。汚れた服を見られて、街の人にがっかりされたくなかったから。
「そうか」
男は、そう言って、また空を見上げた。千尋は、彼の横顔をじっと見つめた。彼は、誰の期待にも応えようとしていない。ただそこにいるだけ。その姿が、千尋にはとても不思議に、そして少しだけ羨ましく見えた。
翌日、千尋はいつものように、完璧な笑顔で街を歩いていた。しかし、心の中には、昨日の男との会話が響いていた。その時、彼女の目の前に、男が再び現れた。
「君に、これを」
男は、手のひらを差し出した。そこには、小さなフタ付きのビンが入っていた。ビンの中には、カブトムシのオスとメスが、仲良く寄り添うように入っている。
千尋は、驚いて男の顔を見上げた。彼は、いつものように無表情だ。しかし、その瞳の奥には、どこか優しい光が宿っているように見えた。
「調査は、これで終わりだ」
男は、それだけ言うと、大きなカバンを肩にかけ、商店街の奥へと歩いていった。
千尋は、カブトムシの入ったビンを両手でそっと包み込んだ。それは、誰かにもらった「理想」のアイテムではない。彼女自身の、ただ一つの宝物だった。
家に帰った千尋は、部屋の奥にある古い木箱を開けた。中には、汚れた長靴や、破れた麦わら帽子、そして、たくさんのカブトムシの標本が入っていた。彼女は、ビンの中のカブトムシたちを、新しい標本箱に移した。
リボンをほどき、フリルのブラウスを脱ぎ、いつものパジャマに着替える。
鏡に映った自分は、いつもの自分だった。でも、少しだけ違っていた。その顔には、完璧な笑顔はなかった。ただ、ほんの少しだけ、本当の自分が顔をのぞかせているような、そんな気がした。
明日から、私は、どんな私になれるだろう。
千尋は、新しい標本箱を胸に抱きしめ、静かに夜空を見上げた。遠く、夜の帳が降りた商店街の奥から、ほんのりとしたメンソレータムの匂いが、風に乗って運ばれてくるようだった。
「ちーちゃん、お疲れ様。今日もかわいかったよ」
肉屋のおじさんが、揚げたてのコロッケを紙袋に入れて差し出す。千尋は、丁寧に両手でそれを受け取った。彼女は、この街の名誉娘だった。一年ごとに選ばれる、たったひとりの女の子。リボンとフリルが似合う、誰からも愛される「理想の娘」。
その理想を演じることは、千尋にとって息をすることと同じだった。完璧な笑顔、完璧な姿勢、完璧な言葉遣い。すべてが彼女の当たり前だった。
しかし、その日は違った。コロッケを受け取った千尋の足元で、突然、小さな石が跳ねた。見上げると、見慣れない男が立っていた。薄汚れたベージュのコートを着て、大きなカバンを肩から下げている。彼は千尋の頭からつま先までを、値踏みするようにじろじろと見つめた。
「君が、例の『名誉娘』か」
男は、抑揚のない声で言った。千尋は、反射的に完璧な笑顔を作った。
「はい。何かご用でしょうか?」
男は、カバンから小さなメモ帳とペンを取り出した。
「国民性調査員だ。君の住むこの町の調査に来た」
「調査?」
「ああ。君のような『理想』の国民が、どうやって形成されるのか、な」
千尋は、男の言葉に違和感を覚えた。理想。それは、周りの大人が彼女に与えた言葉だ。彼女自身が作り上げたものではない。
「そのフリルとリボンも、君の意思か?それとも、誰かに着せられているのか?」
男は、千尋のブラウスのフリルに指を向けた。千尋は、答えに詰まった。フリルもリボンも、彼女の「役割」を完璧にするためのアイテムだ。それを着たいと思ったことはない。でも、嫌だと思ったこともない。ただ、当たり前だった。
「……これは、街の皆さんが、私に似合うと選んでくれたものです」
千尋は、なんとか言葉をひねり出した。男は、ふっと鼻で笑った。
「そうか。じゃあ、君の個性はどこにある?フリルとリボンの下か?それとも、その完璧な笑顔の裏か?」
千尋は、男の言葉に動揺した。その日から、彼女の日常は少しずつ崩れていった。街を歩けば、男の言葉が頭をよぎる。リボンの色は何色がいいか、フリルの幅はどうするか。すべて、誰かの好みや期待に合わせて選んでいたことに気づいた。
ある日の午後、千尋は公園のブランコに座っていた。いつもなら、見守ってくれる大人や、話しかけてくれる子供たちがいる。でも、その日は誰もいなかった。男は、千尋の隣のブランコに腰を下ろした。ぎい、ぎい、と錆びた音が鳴る。
「君の笑顔は、美しいが、少しだけ怖いな」
男は、空をぼんやりと見上げながら言った。
「…どうしてですか?」
「空っぽだからだ。感情がない。ただの型だ」
千尋は、反論できなかった。男の言葉は、まるで彼女の心を見透かしているようだった。
「君が本当に好きなものは何だ?フリルやリボンじゃなくて、だ」
千尋は、しばらく考えた。本当に好きなもの。
「……カブトムシ、です」
男は、驚いたように目を見開いた。
「カブトムシ?」
「はい。オスもメスも、強くてかっこいい。見ていると、少しだけ、心が強くなれる気がするんです」
千尋は、恥ずかしそうに言った。カブトムシを捕まえるために、フリルとリボンを汚したことは秘密だ。汚れた服を見られて、街の人にがっかりされたくなかったから。
「そうか」
男は、そう言って、また空を見上げた。千尋は、彼の横顔をじっと見つめた。彼は、誰の期待にも応えようとしていない。ただそこにいるだけ。その姿が、千尋にはとても不思議に、そして少しだけ羨ましく見えた。
翌日、千尋はいつものように、完璧な笑顔で街を歩いていた。しかし、心の中には、昨日の男との会話が響いていた。その時、彼女の目の前に、男が再び現れた。
「君に、これを」
男は、手のひらを差し出した。そこには、小さなフタ付きのビンが入っていた。ビンの中には、カブトムシのオスとメスが、仲良く寄り添うように入っている。
千尋は、驚いて男の顔を見上げた。彼は、いつものように無表情だ。しかし、その瞳の奥には、どこか優しい光が宿っているように見えた。
「調査は、これで終わりだ」
男は、それだけ言うと、大きなカバンを肩にかけ、商店街の奥へと歩いていった。
千尋は、カブトムシの入ったビンを両手でそっと包み込んだ。それは、誰かにもらった「理想」のアイテムではない。彼女自身の、ただ一つの宝物だった。
家に帰った千尋は、部屋の奥にある古い木箱を開けた。中には、汚れた長靴や、破れた麦わら帽子、そして、たくさんのカブトムシの標本が入っていた。彼女は、ビンの中のカブトムシたちを、新しい標本箱に移した。
リボンをほどき、フリルのブラウスを脱ぎ、いつものパジャマに着替える。
鏡に映った自分は、いつもの自分だった。でも、少しだけ違っていた。その顔には、完璧な笑顔はなかった。ただ、ほんの少しだけ、本当の自分が顔をのぞかせているような、そんな気がした。
明日から、私は、どんな私になれるだろう。
千尋は、新しい標本箱を胸に抱きしめ、静かに夜空を見上げた。遠く、夜の帳が降りた商店街の奥から、ほんのりとしたメンソレータムの匂いが、風に乗って運ばれてくるようだった。
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