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社会人4年目の魅力的な弟子との素敵な日常風景
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風鈴が澄んだ音を立てるたび、夏がその姿を深くする。1993年の夏、その風の音は、私にとって特別な意味を持っていた。社会人四年目、二十五になったばかりの私が、四十歳でリタイアした師匠、その方のもとで習い事の弟子として日々を送っていた。
師匠は、庭園の隅にある小さな工房で、日々寡黙に手を動かしていた。彼の指先から生み出される作品は、どれも生気と奥ゆかしい光を帯びていた。私が彼のもとに弟子入りを志願したのは、その作品に宿る「人の輝き」に心を奪われたからだ。
「師匠、今日もこの花弁の角度は、これでよろしいでしょうか?」
私が声をかけると、師匠は一度だけ視線を上げ、静かに頷く。それだけで十分だった。彼の頷きは、単なる肯定ではない。そのわずかな動きの中に、無限の示唆と深い慈愛が込められているのを、私はいつしか感じ取っていた。
習い事は、古くから伝わる伝統工芸。正確には、時代とともに忘れ去られつつある、極めて繊細な「装飾品」を施す技術だった。私が取り組んでいたのは、ちりめん細工の中でも最も難しいとされる、フリルやリボンを立体的に、かつ軽やかに表現する技法。絹糸一本、布の端切れひとつにも、命を吹き込むような緻密な作業が求められた。
指先の感覚を研ぎ澄まし、わずか数ミリのフリルを折りたたむ。その手つきは、まるで花の蕾が開くのを手伝うかのようだった。
「このフリルは、息吹を感じさせねばならん。ただの布切れと思うな。乙女の胸の高鳴り、風にそよぐ草原の息吹……そういった、目に見えぬものを織り込むのだ」
師匠の言葉は、いつも抽象的で、深淵だった。初めのうちは、その言葉の真意を理解できず、ただひたすらに見よう見まねで手を動かした。しかし、幾度となく同じ作業を繰り返すうちに、彼の言葉が指し示す「概念の状態」が、朧げながらも掴めるようになってきた。
フリルに息吹を、リボンに鼓動を。それは、単なる技巧を超えた、精神の営みだった。
工房の壁には、師匠がこれまで手がけてきた作品が、所狭しと飾られている。どれもが圧倒的な「美」を放っていたが、中でも私の目を引いたのは、一輪の白百合を模した髪飾りだった。その花びらは、まるで本物の花のように、今にも露を滴らせそうなほど瑞々しく、生命力に満ち溢れていた。
「これは……血潮が通っているようです」
私が呟くと、師匠は初めて、どこか遠い目をしてその作品を見つめた。
「ああ、そうかもしれんな。血潮、そして…薫り立つ一瞬の輝き。この世のすべての美は、一瞬の間に凝縮されている」
彼の言葉には、何十年もの歳月が培ってきた深みがあった。それは、成功と挫折、そして何よりも「美」を追い求め続けた男の、魂の叫びのように私には響いた。
師匠は、若くして事業で成功を収め、四十歳という若さで引退した。世間からは「異端児」と見られていたが、彼にとっては、それはただ「本当にやりたいこと」を見つけるための通過点に過ぎなかったのかもしれない。その「本当にやりたいこと」が、この伝統工芸だった。
師匠の工房は、彼がリタイアしてすぐに建てられたものだった。庭園の片隅にひっそりと佇むその空間は、外界の喧騒から隔絶された、一種の聖域だった。そこで過ごす時間は、私にとって、会社でのせわしない日常を忘れさせてくれる、贅沢な一時だった。
私は、彼の「弟子」という立場を、大切にしていた。それは、彼との間に存在する、唯一無二の、しかし決して踏み込んではいけない境界線だった。私の中で膨らんでいく、師匠に対する「不適切な感情」を、私は必死に否定し、回避しようとした。
師匠の隣で、同じものを見つめ、同じように手を動かす。その瞬間、彼の存在が私の心に深く染み込んでいくのを感じていた。それは、師匠が作品に込める「息吹」や「血潮」と同じように、抗うことのできない、本質的なものだった。
ある日の夕暮れ時、私は師匠に、どうしても聞きたいことがあった。
「師匠は、なぜこの道を選ばれたのですか?」
その問いに、師匠はしばらく黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「この仕事には、嘘がない。この世には、様々なものが溢れているが、そのほとんどは、誰かの思惑や欲望が絡んだ、不純なものだ。しかし、この手から生み出される作品には、私の魂しか宿らない。それは、私にとって、唯一の真実なのだ」
彼の言葉に、私の胸は締め付けられるようだった。彼は、私のような「社会人」の生き方を、否定しているのだろうか。私たちの関係は、決して交わることのない、師匠と弟子という、ただそれだけのものなのだろうか。
私の心に、深い孤独感が広がっていく。その時、師匠は私の手元に目をやった。私が作業していたのは、小さなリボンだった。しかし、私の指先は震え、リボンは歪んでしまっていた。
師匠は、そっと私の手に触れた。その温かさに、私の心臓が大きく跳ね上がる。
「揺れている。お前の心も、このリボンも」
彼は、静かにそう言った。しかし、その声は、私を責めるものではなかった。むしろ、私の揺れる心に寄り添い、優しく包み込むような響きがあった。
「お前は、この道に、何を見出している?」
彼の問いかけに、私は言葉を失った。私は、ただ、師匠の「美」を、彼の生き方を、傍で見ていたかっただけなのかもしれない。私自身の探求心は、本当にこの工芸品に向いているのだろうか。
「……師匠、私は…」
言葉を紡ごうとしたその時、師匠は私の手からリボンをそっと取り上げた。そして、彼の指先が、わずかに歪んだリボンを、まるで魔法のように整えていく。
彼の指先から放たれる、熟練の技。それは、私には決して真似のできない、圧倒的な「器量良し」の極みだった。
「このリボンは、これでいい。不完全なままでいいのだ。不完全さの中に、人の心が宿る。完璧なものには、息吹は宿らない」
彼の言葉が、私の心に深く染み渡る。私は、完璧な「弟子」になろうと、必死に自分を偽っていたのかもしれない。しかし、師匠は、私の不完全さを、私の揺れる心を、そのまま受け入れようとしてくれている。
その時、私は、師匠がこの工芸品に込める「血潮」の意味を、ほんの少しだけ理解できたような気がした。それは、ただの技術ではない。それは、自分の魂を削り、不完全な自分自身を曝け出すこと。その営みの中でこそ、本当の「美」は生まれるのだと。
師匠の温かい手から、リボンが私の手に戻ってくる。私は、そのリボンを胸に抱きしめ、深く、深く頭を下げた。
「師匠、ありがとうございます。もう一度、やらせてください」
私は、再び作業台に向かう。今度は、もう震えてはいなかった。私の心の中には、新たな決意が宿っていた。
私は、師匠が作品に込める「美」を、彼の生き様を、ただ見つめるだけでなく、私自身の「血潮」で表現したい。それは、師匠が求めている「真実」と同じように、決して嘘のない、私だけの「美」なのだと。
風鈴の音が、再び澄んだ音色を奏でる。その音は、師匠と私の間に流れる、静かで、しかし確かな絆を、祝福しているかのようだった。それは、不適切な感情でも、回避すべき関係でもない。それは、師匠と弟子という、尊く、そして美しい、大和撫子の極みを追求する、新たな始まりの瞬間だった。
師匠は、庭園の隅にある小さな工房で、日々寡黙に手を動かしていた。彼の指先から生み出される作品は、どれも生気と奥ゆかしい光を帯びていた。私が彼のもとに弟子入りを志願したのは、その作品に宿る「人の輝き」に心を奪われたからだ。
「師匠、今日もこの花弁の角度は、これでよろしいでしょうか?」
私が声をかけると、師匠は一度だけ視線を上げ、静かに頷く。それだけで十分だった。彼の頷きは、単なる肯定ではない。そのわずかな動きの中に、無限の示唆と深い慈愛が込められているのを、私はいつしか感じ取っていた。
習い事は、古くから伝わる伝統工芸。正確には、時代とともに忘れ去られつつある、極めて繊細な「装飾品」を施す技術だった。私が取り組んでいたのは、ちりめん細工の中でも最も難しいとされる、フリルやリボンを立体的に、かつ軽やかに表現する技法。絹糸一本、布の端切れひとつにも、命を吹き込むような緻密な作業が求められた。
指先の感覚を研ぎ澄まし、わずか数ミリのフリルを折りたたむ。その手つきは、まるで花の蕾が開くのを手伝うかのようだった。
「このフリルは、息吹を感じさせねばならん。ただの布切れと思うな。乙女の胸の高鳴り、風にそよぐ草原の息吹……そういった、目に見えぬものを織り込むのだ」
師匠の言葉は、いつも抽象的で、深淵だった。初めのうちは、その言葉の真意を理解できず、ただひたすらに見よう見まねで手を動かした。しかし、幾度となく同じ作業を繰り返すうちに、彼の言葉が指し示す「概念の状態」が、朧げながらも掴めるようになってきた。
フリルに息吹を、リボンに鼓動を。それは、単なる技巧を超えた、精神の営みだった。
工房の壁には、師匠がこれまで手がけてきた作品が、所狭しと飾られている。どれもが圧倒的な「美」を放っていたが、中でも私の目を引いたのは、一輪の白百合を模した髪飾りだった。その花びらは、まるで本物の花のように、今にも露を滴らせそうなほど瑞々しく、生命力に満ち溢れていた。
「これは……血潮が通っているようです」
私が呟くと、師匠は初めて、どこか遠い目をしてその作品を見つめた。
「ああ、そうかもしれんな。血潮、そして…薫り立つ一瞬の輝き。この世のすべての美は、一瞬の間に凝縮されている」
彼の言葉には、何十年もの歳月が培ってきた深みがあった。それは、成功と挫折、そして何よりも「美」を追い求め続けた男の、魂の叫びのように私には響いた。
師匠は、若くして事業で成功を収め、四十歳という若さで引退した。世間からは「異端児」と見られていたが、彼にとっては、それはただ「本当にやりたいこと」を見つけるための通過点に過ぎなかったのかもしれない。その「本当にやりたいこと」が、この伝統工芸だった。
師匠の工房は、彼がリタイアしてすぐに建てられたものだった。庭園の片隅にひっそりと佇むその空間は、外界の喧騒から隔絶された、一種の聖域だった。そこで過ごす時間は、私にとって、会社でのせわしない日常を忘れさせてくれる、贅沢な一時だった。
私は、彼の「弟子」という立場を、大切にしていた。それは、彼との間に存在する、唯一無二の、しかし決して踏み込んではいけない境界線だった。私の中で膨らんでいく、師匠に対する「不適切な感情」を、私は必死に否定し、回避しようとした。
師匠の隣で、同じものを見つめ、同じように手を動かす。その瞬間、彼の存在が私の心に深く染み込んでいくのを感じていた。それは、師匠が作品に込める「息吹」や「血潮」と同じように、抗うことのできない、本質的なものだった。
ある日の夕暮れ時、私は師匠に、どうしても聞きたいことがあった。
「師匠は、なぜこの道を選ばれたのですか?」
その問いに、師匠はしばらく黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「この仕事には、嘘がない。この世には、様々なものが溢れているが、そのほとんどは、誰かの思惑や欲望が絡んだ、不純なものだ。しかし、この手から生み出される作品には、私の魂しか宿らない。それは、私にとって、唯一の真実なのだ」
彼の言葉に、私の胸は締め付けられるようだった。彼は、私のような「社会人」の生き方を、否定しているのだろうか。私たちの関係は、決して交わることのない、師匠と弟子という、ただそれだけのものなのだろうか。
私の心に、深い孤独感が広がっていく。その時、師匠は私の手元に目をやった。私が作業していたのは、小さなリボンだった。しかし、私の指先は震え、リボンは歪んでしまっていた。
師匠は、そっと私の手に触れた。その温かさに、私の心臓が大きく跳ね上がる。
「揺れている。お前の心も、このリボンも」
彼は、静かにそう言った。しかし、その声は、私を責めるものではなかった。むしろ、私の揺れる心に寄り添い、優しく包み込むような響きがあった。
「お前は、この道に、何を見出している?」
彼の問いかけに、私は言葉を失った。私は、ただ、師匠の「美」を、彼の生き方を、傍で見ていたかっただけなのかもしれない。私自身の探求心は、本当にこの工芸品に向いているのだろうか。
「……師匠、私は…」
言葉を紡ごうとしたその時、師匠は私の手からリボンをそっと取り上げた。そして、彼の指先が、わずかに歪んだリボンを、まるで魔法のように整えていく。
彼の指先から放たれる、熟練の技。それは、私には決して真似のできない、圧倒的な「器量良し」の極みだった。
「このリボンは、これでいい。不完全なままでいいのだ。不完全さの中に、人の心が宿る。完璧なものには、息吹は宿らない」
彼の言葉が、私の心に深く染み渡る。私は、完璧な「弟子」になろうと、必死に自分を偽っていたのかもしれない。しかし、師匠は、私の不完全さを、私の揺れる心を、そのまま受け入れようとしてくれている。
その時、私は、師匠がこの工芸品に込める「血潮」の意味を、ほんの少しだけ理解できたような気がした。それは、ただの技術ではない。それは、自分の魂を削り、不完全な自分自身を曝け出すこと。その営みの中でこそ、本当の「美」は生まれるのだと。
師匠の温かい手から、リボンが私の手に戻ってくる。私は、そのリボンを胸に抱きしめ、深く、深く頭を下げた。
「師匠、ありがとうございます。もう一度、やらせてください」
私は、再び作業台に向かう。今度は、もう震えてはいなかった。私の心の中には、新たな決意が宿っていた。
私は、師匠が作品に込める「美」を、彼の生き様を、ただ見つめるだけでなく、私自身の「血潮」で表現したい。それは、師匠が求めている「真実」と同じように、決して嘘のない、私だけの「美」なのだと。
風鈴の音が、再び澄んだ音色を奏でる。その音は、師匠と私の間に流れる、静かで、しかし確かな絆を、祝福しているかのようだった。それは、不適切な感情でも、回避すべき関係でもない。それは、師匠と弟子という、尊く、そして美しい、大和撫子の極みを追求する、新たな始まりの瞬間だった。
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