アンダーストリングス

百草ちねり

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第一章

EP2・海の亡霊 3

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 3


 モアランド州サウスウェストシティ。モアランドで1番の標高を誇りその山頂は2500メートル。山頂付近、高層ではお偉いサマたちの住処が連なっており、中腹から下の中層以下は一般人の生活圏となっている。大厄災以前から金が人権に影響を与えていたが、それは現在も変わらず。貧困層ほど海が近い低層スラムへと追いやられる。私の家はサウスウェストシティ2番街にある。標高は1850メートル。入眠中に津波でも発生すれば、逃げる間も無くこの世とおさらばだ。
 ジジジと焼けつくような音を立てて点滅している街灯が、暗い夜道を微かに照らしている。街灯が照らすのはなにも道だけではない。面積の少ない服で生肌を見せびらかす娼婦、闇市場で手に入れた麻薬に浸る若い男たち、マンションの壁際で寝転ぶホームレス。そしてUSに取り憑かれ、海を求めて彷徨う徘徊者。
 私は彼らの間をすり抜ける。足取りは軽く、今にもステップを踏んでしまいそうだ。常人や権力者サマたちはこんな治安が悪い道は避けるだろう。けれど何故かわからないが『いま』を生きている彼らの声を聴くと、私の心は凪いだように穏やかになり、そして少しの高揚感が生まれるのだ。華やかさとはかけ離れた、泥臭く、しかし懸命に生きている人間の姿が、何よりも美しいと私は思っている。
 荒んだ道をまっすぐ進めば右手に小さなマンションが見えてきた。少し黄色味のあるコンクリートの3階建て、2階の海側左端の部屋が私の城だ。
 マンションの門を潜り中央の螺旋階段を登る。廊下を進んで扉に鍵を挿して回せば、ガチャっと私を迎える音が鳴った。
「ただいま」
 ドアを開けて真っ暗な部屋に声を投げる。1人暮らしなので「おかえり」が返ってくることはないが、孤児院にいた頃の習慣が今も抜けず、虚しい独り言を止めることができずにいた。
 玄関にチェーンをしっかりとかけてから部屋へ移動する。3坪程度の間取りには、シングルベッドと小さなローテーブル、ロッキングチェアしか家具がなく、あとは備え付けのシンクとクローゼットだけだ。
 私はローテーブルの上にマグカップを置いた。パセリからの贈り物というだけで私にとっての価値は無に等しいが、店主の腕前が素晴らしいだけあってネーレーイスの花の装飾は美しく、捨てるのは彼に対して非常に失礼な行為だった。なにより食器に罪はない。罪深いのはパセリ単体である。
 しばし店主の技巧を堪能してから、私は玄関から左手に設置されたバスルームへ直行した。夏の淀んだ空気に晒された肌が、汗腺から噴き出した汗でベトベトで不快だったのだ。服をタイルの上に脱ぎ散らかしてバスタブに入り、お湯が飛び散らないようにカーテンを閉めた。ノズルを捻れば、頭上より高い位置にあるシャワーヘッドから、勢いよく水が降ってくる。冷たい水が火照った体に心地よい。ようやくシャワーヘッドから出てくる水がお湯に変わる頃には、石鹸のみで全身を洗い終えていた。無論、頭髪も石鹸で洗った。枝毛が減る日は一生来ないだろう。
 私はシャワーのノズルを閉めると、バスタブに引っ掛けてあったタオルを引っ掴んでバスルームから出た。何も纏わずにずぶ濡れの体で部屋を闊歩する。クローゼットを開けて中に収納されていた小さなチェストからパンツとシャツだけを取り出し、またクローゼットを閉めて、適当に水分を拭き取った体に着用する。そしてベッドまで移動すると、仰向けに寝転がった。
「疲れた」
 不意に腹の虫が鳴き声を上げる。彼らのシンフォニーに耳を傾けつつも、私の体は指先1つピクリとも動かせなかった。
 腹は減った。空腹だ。けれどストックしておいた市販の不味いフルフルを夕食として摂取する気力と体力は、もう残されていなかった。はっきり言おう、連日私を苦しめている不可解な夢のせいで寝不足だったのだ。空腹だ。それはもう。しかしそれを上回るほどの睡眠欲が私の全身を支配していた。
「……おやすみ」
 襲いくる睡魔に身を任せ、私は瞼を閉じた。3秒とかからずに意識は深い闇へ、そして夢の中へと誘われる。真っ暗な海の底へと──。
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