アンダーストリングス

百草ちねり

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第一章

EP2・海の亡霊 5

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 5


 ザァー……、ザァー……。砂利を地面にばら撒いたようなノイズがオーテインの鼓膜を通って脳に伝わる。時折、フタゴウミネコのキテレツな鳴き声やUSが水面を跳ねる音がノイズに混じり込み、不協和音へ変化させている。
(忌々しい音だ)
 喉が詰まったように苦しくなり、はらわたは煮えくり返る。岩礁に立つオーテインは、ギリリと奥歯を噛み締めた。満天の星が放つ光が、闇を煮詰めたような海の不気味さを際立てていた。
 オーテインは海が嫌いだった。USに海の亡霊、ろくなものがありゃしない。毎朝パイユート港沿いにぷかぷかと浮かぶ死体、モアランドの海岸に打ち上げられている死体。死体、死体、死体。海には死がひしめいている。
 遺体の身元確認は海洋管理警備軍に一任されていた。海水を吸ってブヨブヨにふやけた皮膚。ガスで膨らんだ顔や身体。そんな状態の遺体を確認する度に、オーテインは彼らの生前の姿を想像して、胸を抉られるような痛みに苛まれ、毎晩夢の中で海に引き摺り込まれる彼らの助けを求める声に魘されるのだ。
 自分には向いていない仕事だ。オーテインはそれを重々承知していた。それでも辞めようとは思わない。オーテインは海洋管理警備軍に、ここに居続ける明確な理由と決意があった。
「おや、先客がいた」
 不意に、背後からハスキーな声が飛んできた。オーテインは眉間に皺を寄せて振り返る。エルピスが気怠そうに、入り江の隙間の洞窟から出てくるところだった。寝起きなのか、短めの髪があちこちへと跳ねている。色素の薄い髪は、少しだけ月の色に似ていた。
「……ここは立入禁止区域だぞ」
 オーテインはエルピスに鋭い視線を投げる。エルピスは片眉を上げてその場で腕を組んだ。
「アンタと同じく、サーシャさんに通してもらったんですよ」
 イルネティア合衆国は海に繋がるすべての道を封鎖しており、政府に許可を得なければ立ち入ることができない。しかし完璧な閉鎖など実現するわけもなく。闇市場を開く人がいるように、規制品を密輸する人がいるように、誰かが必ず、政府の目を掻い潜って海へ繋がる道を見つけ出す。そして有権者であるサーシャ・リベラシオンが、秘密の抜け道を見つけ出し、政府に見つからないように管理していた。
 サーシャの店、喫茶〈波止場〉の床下に隠されている地下通路が、この岩礁に出る洞窟へと繋がっている。彼女のお気に召した者のみがここへ来ることを許されるのだ。
「なんで今日もオマエの顔を見ないといけないんだ。帰れ」
「それはこっちのセリフです。というか、今日は久しぶりにアンタが帰宅したとホタルが感涙していましたが……家に居なくていいんですか?」
「チッ、アイツ余計なこと教えやがって。夜風にあたりに来ただけだ。いちいち詮索してくるな鬱陶しい」
「わざわざこんな場所に? ねえ、海嫌いのオーテインさん?」
 エルピスの小馬鹿にしたような口調がオーテインの頭に血を昇らせる。
「テメェごときがオレをファーストネームで呼ぶんじゃねえ」
 オーテインは辛辣に吐き捨てる。エルピスはやれやれと肩をすくめた。
「はいはいご無礼をお許しください。オーテイン・リフト・アーク2等海士」
 平坦に謝罪を述べて訂正したエルピスは、岩礁上を身軽に進みオーテインの右隣に立った。飄々ひょうひょうとした態度の彼女にこれ以上噛み付いても無駄だ。早々にオーテインは判断を下し、遥か遠い水平線を見つめるエルピスに並んで海に視線をやった。緩やかな潮風が2人の肌を撫でる。夏場のぬるい空気も、日が沈むと少し涼しく感じられた。
「ここに来たって何もありませんよ」
 ふとエルピスが呟いた。オーテインは右に視線を向ける。海に囚われたエルピスの瞳は、白いキャンパスを黒く塗りたくったように濁っていた。
「みんな波に乗って行ってしまった。誰も……誰も、身体だけしか帰ってこない。魂は海の底に沈んだままだ」
 まるで己に言い聞かせるかのように、エルピスは重く言葉を吐いた。オーテインは下唇を噛み締めた。ぶちり、皮膚が裂ける音がして鉄の味が舌の上に広がる。それとともに喪失感が心に沁み渡った。
「アンタの父さんだって帰ってこない」
「……んなこと、オマエに言われるまでもなくわかってる」
 オーテインが喉を震わせて吐き出した言葉は、細く、脆く、今にも切れてしまいそうな糸のように頼りなかった。
 オーテインは4人家族だった。穏やかで前向きな母、少し頑固だが優しい心を持った弟。そして、思慮深く聡明な父。しかし父は今はもういない。6年前、海の亡霊に取り憑かれてしまい、波に攫われて帰らぬ人となった。テラス側の右席、父の特等席は6年前から空いたまま。あの椅子に座る人は、もういない。
「取り憑かれるってわかってんのに、どうしてゴミを扱うんだ。母さんもヘルクも、父さんだって」
 どうして。どうして。オーテインの心はいつもその言葉で埋め尽くされていた。
 最初はただの雑貨店だったコーラルの店。しかし父がサルベージされた遺物を〈シー・ガル号〉船長のエルドレッドから買い取って売り始めてから、家族はみんな遺物に魅了されてしまった。表通りで日用品を売り捌いていたコーラルの店は、いつのまにかサウスシティ6号ストリートへ、闇市場へと移転して。遺物を売り捌く違法店へと成り下がった。
「母さんもヘルクも、父さんが死んだ原因に、どうして平気な顔で触れられるんだ?」
 オーテインは苦々しげな表情で疑問を吐く。
「遺物のせいで……いやオマエらクソどものせいで父さんは死んだんだ。オマエらが殺したようなもんだろうがよ」
 オーテインはエルピスに憎しみを込めた言葉をぶつける。彼の父は海に攫われて、魂どころか遺体すら帰ってこなかった。集合墓地に建てられた墓石の下は、空っぽだ。
「そう思うなら〈シー・ガル号〉乗組員を全員検挙すればいいでしょうが」
 エルピスは嵐のように荒立つオーテインに応えた。彼女の視線は遥か向こうの水平線に固定されたままだ。
「吊り上げる材料ならアンタの目の前とアンタの家にゴロゴロ転がっているんですから」
 エルピスの提案を聞いたオーテインは、途端に威勢をなくした。
「……、それは、」
「乗組員や見逃していた自分だけでなく、大切な家族も捕まってしまうから嫌? ワガママな男ですね」
 エルピスは岩の端まで移動した。打ちつける波が飛沫を上げて彼女の足元を濡らす。エルピスがそっと真っ黒な闇を覗き込むと、小さなUSたちが月光を浴びて煌めいていた。死の光だ。
「──アンタの父親は聡明で勇敢だった」
 凪いだような雰囲気のエルピスに、オーテインは少しばかり困惑の表情をみせた。
「急になんだよ……」
「サーシャさんと同じで、アンタの父親は、この国が停滞していることに気がついていた」
 エルピスは目を細めた。
「海抜が上がり地上で採集できる資源はもろもろが海に沈んで無くなった。文明の再建に、発展に必要な資源は、サルベージ隊が海から引き揚げるしかない。なのに実際はどうだ? 私たちが命懸けで日々サルベージしている遺物のうち、高性能で再利用可能な機械類は汚染物質のレッテルを貼られて処分されつづけ、何かの部品だった螺子やら錆びついた文具用品ばかりを熱心に研究している」
「アレらが文明の発展に本当に役立つを思っているのは、よっぽどのバカだけだ」
 主観的に現状を解釈して結論を述べるエルピスの言葉を、オーテインは静かに聞き入る。
「アンタの弟のように、熱心に高性能な遺物を弄くり回す変態が1人や2人現れたっておかしくないはずだ。なのにシエラネバダ州中央研究所の職員は、まったく興味を示さず、錆びた螺子を熱心に磨いているだけ」
 オーテインはようやく、へばりついた唇を開いた。
「高性能なゴミは海の亡霊に取り憑かれるリスクが何倍にも膨れ上がる。人間が取り扱って良いモノじゃない」
「でもヘルクはアンタが言うを、人類の進歩に役立ててみせた。嵌める機材もない螺子を狂ったように磨くよりよっぽど役に立っている」
「それでも危険物質を扱っていることに変わりはない」
 ふう。オーテインの反論を聞いたエルピスは小さく息を吐くと、再びオーテインへと振り向いた。
「そこまで言うのであれば、私が温情によりタダで譲ったを返していただけますか?」
 エルピスの突然の申し出にオーテインは押し黙った。不遜な態度が少しばかり萎縮する。
「今月金欠で。ロザリオの中のを抜いて換金しようかと」
 返せの意思表示で右手を差し出すと、オーテインは慌ててシャツの胸元を右手で握りしめ、ズボンの左ポケットを左手で押さえた。あの下に、オーテインが家族の居場所を特定するために利用している発信機と受信機が隠れている。
「貯金が趣味のくせして金欠なんてくだらない嘘をつくんじゃねえ! そもそもクーリングオフ期間はとっくに過ぎてるから返品不可だろ!」
「念入りに調査した結果、我が社の商品は全て不良品ということでしたので。回収対象です」
「何が不良品だ、サルベージ品なんて元から壊れてるくせに。それに返す気なんてさらさらないな。コレはもうオレのものだ」
「わかりましたそれならば──、」エルピスはオーテインに歩み寄った。「中の発信機だけ抜いてまたお渡しします。せっかく2人にプレゼントしたのに今更返せなんて言えませんもんね。大丈夫、手入れをしたいから少し預からせてくれとでも言って回収してきてください」
「……嫌だ。拒否させてもらう」
「なぜ? アンタはUSが憎くてたまらないんだろう。ロザリオに嵌め込んである発信機はアンタの大嫌いな汚染物質だ。そんなものを母親と弟の胸元にぶら下げておくなんて、危険極まりない。いつ海の亡霊に取り憑かれてしまうことやら……さあ大人しく私によこしなさ──」
「断る!」
 エルピスの言葉を遮るようにオーテインは叫んだ。肩を怒らせ、顔一面を真紅に染め上げている。
 ロザリオの中に埋め込まれた発信機と受信機は、エルピスが2年前に引き揚げた遺物だった。旧世紀の発信機の性能は凄まじく、最先端の技術を誇るイーグルピーク国立研究所で開発された発信機とは比べものにならない程の精密さを持ち、かつ未知の原動力で動いていた。
 そしてこの発信機は、父親を失ったオーテインの心の拠り所でもあった。彼がと評する海の遺物に頼ることで、彼の心の安息は守られているのだ。
「すでに自分が遺物に依存していることに気づかないなんて、バカな人ですね。いや気づいているけど否定しているだけか……」
 エルピスはオーテインに憐れみの眼差しを送る。しかしオーテインも言葉のナイフで一方的に傷つけられるほど、繊細な人間ではなかった。彼の性根は頑固なのだ。
「──何を言われようとも、俺はコレを返すつもりはない。依存……しているのかもしれねえが、それでもコレは2人の命を守るために必要なモノなんだよ」
 嘲るようにエルピスは鼻で笑った。
「マザコン、ブラコン、ファザコンの3コンボ。家族のストーカーは楽しいですか?」
「なんとでも言えばいい。それにオマエだって似たようなもんだろうが。お前の両親はいつまで待とうが迎えにこない」
「……私が海に出るのは、そんなチープな理由じゃない」
「どうだか」
「……」
 攻勢に転じたオーテインに、今度はエルピスが閉口する番だ。複雑そうに縫いつけた口元を歪めていた。
 オーテインは父親の影を求めて時折ここへ足を運ぶ。大嫌いな海に関わる仕事を選んだ理由も、海洋管理警備軍に所属していれば、大切な家族が海に引きずり込まれる前に見つけて助けることができると考えたからだった。
 対するエルピスは、文明の発展への貢献のためにサルベージ隊に入ったと言いふらしている。しかしオーテインは、両親に逢えるかもしれないという一抹の望みに縋っているからだと憶測していた。
 ──エルピスはパセリと同じく孤児だ。それも捨て子。頭のイカれた彼女の両親が夜中にパイユート港へと侵入し、生まれて間もない柔らかな彼女を、白い布に包んで置き去りにした。そして当時、海洋管理警備軍に所属していたオーテインの父が、巡回中に彼女を発見したのだ。
 その後、警察がエルピスの両親を捜索したが結局見つからなかった。故意に捨てていったのか。それとも彼女だけを残して海の亡霊に攫われたのか。真相はわからずじまいのまま。エルピスは孤児院〈マリア・バド〉の院長ギルベルト・バドへと引き渡され、ギルベルトに大切に育てられた。そして13歳の誕生日、イルネティア合衆国が定めた労働可能年齢になったその日に彼女はサルベージ隊に入ったのだった。
 人類のため。大義名分を盾に両親を追い求めて海を彷徨うエルピスの願いが叶う日は、きっとこの先こない。オーテインはそう確信していた。
「エルピス、オレたちは海に囲まれて生きている。USの脅威から、海の亡霊から完全に逃れるすべはない」
「でも、」オーテインは落ち着いた声で続けた。「多少なりとも身を護ることはできるんだ。オマエがは『文明を発展させるために』とかほざいていようが、じつはで海に出ていようが、オレは興味なんかないし勝手にすればいい」
 エルピスは黙って聞いている。オーテインは少しだけ口調を強めた。
「だけどな、オレの弟と母さんを巻き込むのはやめろ。逝くなら1人で逝け」
 そう言い切ると、オーテインは視線を深淵の色彩を帯びた海に戻す。真っ直ぐ背中を伸ばして堂々と立つオーテインの姿に、エルピスはふっと微笑んだ。
「……アンタはクソ野郎だけど、ヘルクと同じで愛情深い人間だよ」
「オマエに言われてもなんにも嬉しくないな」
 オーテインはぶっきらぼうに吐き捨てる。エルピスは目を閉じて少し俯き「知ってますよ」と応えた。

 ヘルキンスとコーラルがすでに海の亡霊に取り憑かれていることなど、オーテインはとっくの昔に理解していた。いつの間にか〈シー・ガル号〉が卸しにくる遺物を待ち侘びるようになったコーラル。小さな頃からイーグルピークの国立研究所で働くことを夢見ていたのに、なぜかサルベージ隊に入ったヘルキンス。
 だからこそ海の亡霊に2人を攫われてしまわないように、2人を護るために、オーテインは大嫌いな海で働き続けるのだ。
 父を死に追いやった憎き海で。
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