アンダーストリングス

百草ちねり

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第一章

EP3・波に乗って 5

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 5


 着替えを済ませたパセリがサーシャとともに2階から降りてきた。
 純白のシャツに丈の短い茜色のオーバーオール。裾からのぞく足は下腿中央までの白い靴下と、山吹色のシューズに覆われている。シューズの表面はテカテカと不自然に光っていた。撥水塗料をアホほど塗りたくっているようだ。シャツの襟には同じく山吹色のスカーフが胸の前で緩く結ばれており、髪も普段通り後頭部の高い位置に1つに束ねられ、根元に暑苦しいヒマワリを咲かせている。
 黄色、黄色。派手な黄色。少々眩しく目に痛いが、それでも太陽の光を真似た蛍光色は、彼女によく似合っていた。
 サーシャはカウンターの裏に用意してあったレザーバッグをパセリに手渡す。縦32センチ横40センチ奥行き18センチ、見覚えしかないフォルムに私は口の端をひくつかせる。これはサルベージ隊の航海士に支給されるモノのはずだが……エルドレッドが秘密裏にサーシャに譲ったのか。
「この子ったら、勝手に別の荷物をまとめてたのよ? それも全部、作ったことのないレシピの本ばかり!」
「だって海に出るのよ!? 栄養不足にでもなったら即お陀仏だわ!」
 サーシャはため息を吐きながらパセリにレザーバッグを渡した。何を詰め込んだらそうなるのか、バッグは今にも破裂してしまいそうなほど膨らんでいる。
「それを避けるために、貴女は今までたくさんのレシピを学んできたんでしょう? あらかじめ貴女が作り置きしていたフルフルは包んで入れてあるし、フルフルの材料や調理器具も入れておきました」
 なんとまあ用意周到なことか。しばらくは食糧難で苦しむ必要はなさそうだ。
 パセリは涙ぐみながらバッグを襷掛けすると、「ありがとう」とサーシャに抱きついた。サーシャもパセリを抱きしめる。本日2回目の、いや、もしかするとこれが彼女たちにとって最後の抱擁になるのかもしれない。私は離別という現実がすぐそばまで近づいている事実を改めて感じた。ゴクリ、飲み込んだ唾が喉に絡みついて気持ち悪かった。
 パセリはしっかり10秒サーシャに抱きしめられてから、名残惜しげに身体を離した。サーシャは少し皺が刻まれた指でまなじりの涙を拭うと、大きく深呼吸をして誇らしげに笑った。
「さあ、旅立ちの時ね!」
 サーシャはそう言ってカウンターの裏へと回り、キッチンスペースに引かれたキッチンマットをめくりあげた。現れたのは1メートル四辺の収納床の扉だった。サーシャは扉の前に屈み、服の下に隠していたネックレスを取り出して首から外す。ネックレスの先には金色の小さな鍵が付いていた。
 サーシャは扉の取っ手付近にある鍵穴に鍵を差し込んで、右に回した。……しかし解錠の音は鳴らない。
「あら……? 私ったら鍵を閉め忘れてたのかしら」
 不思議そうにサーシャは首を傾げた。それに対してパイロープが表情を険しくして注意する。
「危ないなぁ。誰かが勝手に忍び込んで、この抜け道が警備軍のクソどもにバレたらどうするんだよ」
「ごめんなさい、私の注意不足だったわ」
 サーシャはパイロープに申し訳なさげに謝罪を述べた。そして気を取り直すと「よいしょ!」という掛け声とともに、サーシャは取っ手を持ち扉を引き上げた。
 ギイィ……。暗い穴が開き、足元に冷たい空気を運んできた。人を呑み込む真っ暗な深淵。この先が海へと繋がっている。
「ほらこれ、いるでしょう」
 サーシャがキッチンの戸棚からランタンを取り出してスイッチを入れた。中の白熱灯が穴の淵を照らし、備え付けられた木製の梯子はしごがうかび上がる。私はランタンを受け取ると、背中のリュックにランタンを引っ掛けた。そして収納床の縁に手を付いて梯子に足をかけ、ゆっくりと腰まで降りる。
 そこで一旦身体を止めて、私は下からサーシャの顔を真っ直ぐに見上げた。
「サーシャさん、ありがとうございます。その……さようなら。もう会うこともないでしょう」
 海でUSアンダーストリングスに殺されるかもしれない。海難事故で死ぬかもしれない。海は人智の及ばない領域だ。そんな場所に、私は身を捧げる。だから『また会いましょう』なんて不確実な約束を結ぶことは、私の信念に反するのでできなかった。
 サーシャは私の意を汲み取ったのか、悲しげに微笑んで「いってらっしゃい」としか言わなかった。
 私はさっそく梯子を降りた。パセリも続いて梯子に足をかける。そしてパセリの姿が少し遠くなってから「神の御加護があらんことを」と言って、サーシャはバタンと扉を閉めた。天からの光が消え、私たちを照らすのはランタンの灯りのみ。後戻りはもうできない。
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