アンダーストリングス

百草ちねり

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第一章

EP3・波に乗って 8

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 8


 私たち3人はヘルクの視線の先へと注目した。洞窟からすぐ出た場所、岩礁の上にオーテインが立っていた。彼は今にも泣き出しそうな顔で、スプリングフィールドM14を構えている。警察と同じく、アレの中身も実弾だ。
「オーティー!?」
 ホタルが焦った声を出す。パセリは「は、早く出ないと捕まっちゃう!」と慌てて船に乗り込み、キャビンの中へと入って行った。
 私は姿勢を正してオーテインを真っ直ぐ見つめる。
「早かったですね」
「そうだな。遅かれ早かれ、こうなるとは思ってたよ」
 ガチャリ。オーテインの構える銃からセーフティーが外れる音がした。
「オーティー! そんなもん構えんな! 逆効果や!」
 ホタルが慌ててオーテインに叱責を飛ばすが、オーテインは「オマエは離れていろ」と耳を貸さずに淡々と指示を出した。ホタルは不服そうな表情でボートから離れた。
「ヘルク、船から降りるんだ。そこはオマエが居るべき場所じゃない。なあ? 賢いオマエならわかるだろ?」
 じりじりと距離を詰めながら、オーテインは冷静に、しかし重圧をかけてヘルクに語りかけた。彼らしいな。私は率直な感想を抱いた。ヘルクはオーテインに畏怖を抱いている。銃という武器の効力も合わさって、尚更オーテインは恐ろしく見えることだろう。きっとすぐにボートから降りる。
 しかし私の予想はあっさりと外れた。
「ああわかってるよ! 僕は海に出るべきだっていう事実がね!」
 ヘルクは興奮しながら唾を飛ばして叫ぶ。畏怖対象の兄の姿を見ても、ヘルクのつもりに積もった海への渇望は衰えなかった。オーテインは一瞬、ヘルクの態度に動揺したが、すぐに冷静さを取り戻し説得を試みた。
「ヘルク、ヘルキンス、落ち着くんだ。海に出るなんてそんな無謀な事をオマエはしないはずだ。そうだろう? ほら、母さんも心配している」
「母さん? 違うでしょ?」
 ヘルクは苦笑しながら吐き捨てた。ピタリ、オーテインの足が止まる。
「嫌だって駄々をこねてるのは兄さんさ。父さんを殺したUSを、海の亡霊を、許せなくて僕と母さんを遠ざけようと必死になってるのは兄さんだ。そうだろ!?」
「ヘルキンス!」
 図星を突かれたオーテインが顔を赤くし怒鳴りつけた。しかしヘルクは少しも怯むことなく、オーテインを睨み返していた。私は呆気に取られてヘルクを見つめる。
 ヘルクはいつもオーテインの機嫌を損ねないようにビクビクと顔色を伺っていた。なのに今はどうだ? おそれていた兄に対して真正面からぶつかり合っている。背を伸ばして真っ直ぐ立ち、強い意志を持って。誰だ──私の目の前にいるコイツは、本当にヘルクなのか?
「うわっ、とと、」
「あ゙あ゙!?」
 膠着状態の中、突然ボートがブルリと大きく揺れる。私とヘルクは想定外の揺れにバランスを崩して転倒しそうになった。キャビン内に居るパセリがエンジンをかけたのだ。
「ヘルくん降りて! お願いよ!」キャビンから顔を出してパセリが、オーテインに代わって説得しようとする。「もう船を出すわ! 今降りないと、お母さんとお兄さんを、家族を悲しませることになるのよ!?」
 夜の澄んだ空気の中で、パセリの声はよく響いた。
「嫌だね」しかしヘルクには響かない。ハッと我に返った私はヘルクに体当たりをかました。
「うおらぁっ!」
「エルピス!? 何をっ……、」
「こうでもしないとアンタは降りないだろ!」
「くっ、やめてよ!」
 多少強引ではあるが、もうボートから突き落とすしかない。さいわいなことに波は穏やかだ。誤って岩礁の上ではなく海に落ちたとしても、すぐにホタルとオーテインが拾ってくれる。ヘルクは私の猛攻をボートの手すりを掴むことでなんとか耐えた。私は躍起になってもう一度の背中を押そうと突進する。しかしヘルクは振り返って私の両手を自身の両手で受け止め、それどころか私を押し返してきた。
「君の腕ってこんなに細かったんだね。筋力も僕の方がずっと上……そっか、女性ってこんなに非力なんだ。知らなかったなぁ」
「チッ!」
 そうだった。普段のなよなよした態度に慣れきって忘れていたが、コイツは男だった! 上背だって筋肉量だって、私よりずっとあるに決まってる。反して私は掴まれた手を振り解くことさえできない、弱い女だ。──それにしても、聞き捨てならないほど屈辱的な言葉を吐きやがる!
 私はボートから少し離れた場所で戸惑っているホタルと、唖然と状況を見つめているオーテインに怒号を飛ばした。
「ホタル! オーテイン! アンタらもそっちから引っ張り落とせ!」
「うえっ!? あ、アイアイサー!」
「俺に命令すんな!」
 2人は慌てて駆け寄ってきた。だが、もう遅かった。

「来ないで!」

 ヘルクは絶叫を上げて私を力いっぱい引き倒した。私はサイドデッキの縁に背中、続いて頭をぶつける。
「カハッ、」
 肺から空気が抜けた。痛みが脊髄を駆け昇って脳に直接ハンマーを振り下ろしている。ガンガンガン、ああ、痛い。
「エルちゃん!?」
 パセリが蒼白な面持ちで私に駆け寄った。──大丈夫!? 怪我してるの!?──まるで膜を1枚隔てたかのように彼女の声が遠い。そして朦朧とする私の意識は、彼女の声ではなく、その背後、ポケットから折りたたみ式のサバイバルナイフを取り出すヘルクに向けられていた。
「来ないで」
 ヘルクは右手でナイフを構えた。月光を受けて鈍く光るブレードが彼の姿にそぐわず、まるで浮世にいるような心地にさせる。
「ヘルクはん、そんな物騒なもんから手え離して、一旦落ち着こう。な?」
 ボートまであと数十センチの場所にいたホタルは、両手を軽く前に突き出してナイフを手放すようにジェスチャーした。しかしヘルクはホタルに一切関心を示さず、その翡翠の瞳でオーテインを射抜いた。
「僕を止めたいなら撃ちなよ」
 静かな声が波間を泳ぐ。私はふらつく身体に激励を飛ばし、苦労の末に上半身をなんとか起こした。
「ヘルク、ああ、そんなことを言うな」
 ボートから遥か向こうに見える位置にいるオーテインは、道に迷った幼児のように目を潤ませていた。震える手に構えられた銃。あれではまともに狙いを定めることは無理だろう。
「足を狙えばいい。そうだね、太腿が良いよ。その銃で僕を動けなくしてから連れて帰ればいい。簡単なことだろう?」
 ヘルクは易々と言った。オーテインには実行することなど不可能だと分かりきった顔で。
「やめてくれ、オレはただ、家族を護りたいだけなんだ……」
 オーテインの喉から出た言葉は、ほとんど泣き声に近い。しかしヘルクは片眉を上げて微笑するだけだ。
「護りたいってなに? 何から護ってくれるの? US? それともイルネティアの政府?」
 美しいご尊顔が月光に照らされて淡く浮かび上がっている。神話の1ページを独占できるほど幻想的な出立ちだというのに、私には彼がおぞましい怪物に見えた。
「家は遺物だらけだから警察に占拠されてて帰れない。で? 政府や警察、兄さんの所属している警備軍に怯えながらサーシャさんの隠れ家を転々として、人権を失ったまま日陰暮らしを続けろって言うの?」
「ちがう、そうじゃない、オレはただ、」
「兄さんのってのは、父さんのように死んでほしくないっていうただの我儘。海洋管理警備軍に入ったのだってただの自己満足でしょ」
「ああ、ああぁ……」
「う、ヘルク……今すぐ、その口を閉じろ……! オーテインは、アンタの為を思ってそうしたんだぞ……!」
 警鐘が鳴り響く頭をぐらぐらと揺らしながら、私は必死にオーテインを庇おうと声を振り絞った。ヘルクはチラリと私に目をよこす。「エルピスさっきはごめんね」とたった一言。謝るくらいならボートから降りろっての。
「別に僕は兄さんのことを悪く言いたいんじゃないよ。兄さんは、兄さん自身の信条に従ってた。ただそれだけ」
 ヘルクはすうーっと息を吸い込んだ。

「僕は、僕自身のために、海に出る」

 ザクッ。ヘルクはナイフを振り下ろして、ボートを岩礁に留めていたロープを断ち切った。
 海の悪戯がこんな時にまで仕事をしているのか。それとも海の亡霊が私たちを呼んでいるのか。誰も舵をとっていないエンジンを蒸しただけのボートは、導かれるように入り江から遠ざかり、波をかき分けて海を進む。
「何を、何をしてんだ!」
 脳震盪のうしんとうでも起こしたのか、まだ上半身を持ち上げるだけで精一杯だ。けれど、今ならまだ間に合う。私はヘルクを海に突き落とそうと、ガクガクと震える身体に鞭を打って力を込めた。しかし私を抱きしめて拘束する手に最後の望みは阻まれる。パセリだ。
「っ……!? 離れなさい! 早く、コイツを、」
「エルちゃん、これで良いんだよ」
 思い通りにならない身体を捩って足掻く私に、エルピスは真摯な眼差しを向ける。
「ヘルキンスは自分の意思で海に出ることを選んだ。数ある選択肢の中からそれを選んだの。これは彼のなんだよ」
 勇気。これが勇気……?
「は、ふざけるな」
 私はパセリに噛み付き捲し立てた。
「じゃあアンタの親がアンタを孤児院の前に捨ててったのも、勇気だって言うのか!? 私の両親が私を捨てていったのも、全部勇気だって言うのか!」
「わからないわ」
「わかんねぇのに適当なことを抜かすな! 私たちはいい! 待つ家族なんていないからな! だけどヘルクには母も兄もいたんだ! それなのに、」
「でも!」パセリは私をギュッと抱きしめた。彼女の首元からは、甘い香りがした。ネーレーイスの、花の香り。
「誰かを置いて行くって決断するには勇気が必要なの。そしてヘルキンスは今日、勇気を出して決断した」
 彼を見て。パセリは小さく囁く。私は促されるままヘルクに視線を向けた。──口を真一文字に結んで、声も上げずに涙を流していた。真っ直ぐに、オーテインが居る入り江を見つめて。

 ──ヘルキンス! オマエまでオレを置いて行くのか!──

 風に乗ってオーテインの慟哭が聞こえる。家族に置いて行かれた、哀れな男の慟哭が。私はその悲しげな旋律から逃れたくて、歯を食いしばって俯いた。
「こんなの、私は認めない」
 モアランド州がだんだんと遠く、小さくなっていく。やがてオーテインの声も聞こえなくなった。
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