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菊桜銀行、古野森支店は平常通り

仕事は仕事(2)

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「この前、つづらが来なかった飲み会で言ってたの。本命がいます。って。それだけだったけど、古野森支店の女子行員はきゃあきゃあ言ってたよ。『もしかして私?』『いや、その女誰?』ってね」

 そんなことを言ってたのか。
 本命……って。

 ばち、と。遠く、営業の机にいる高峰さんと目が合った。

「え」

 そのまま立ち上がり、ずんずんと、長い足でこちらまで歩いてくる。

「つ……木之元さん。ここの口座開設の書類のことで確認したいんだけど」

「あ、え、はい」

 高峰さんは私に何点か質問をしてきた。後方事務としては基本のことであったため、通常通りに応えれば、彼は珍しく口元をあげて微笑んだ。

「ありがとう」
「い、いえ……」
 真っすぐにお礼を言われると、こちらもどうしていいかわからなくなる。

「高峰さぁん。別に事務の人間に聞かなくても」
矢口さんは少々不満そうに口を開く。

「いや、確実なことを聞いておきたかったんだ。俺は事務がわかるわけじゃないから」

 高峰さんの後ろにいた矢野さんに、ぱし、っと言ってのける。

「それに、矢野さん、君が持ってきた書類の―――わからない、と言った部分は営業の手続きじゃなくて、事務の方の手続きが必要なものだ。今度から、事務の人に聞いてくれた方がいい。俺じゃ答えられないから」

「あ……はい」

 目に見えてしゅんとする矢野さんがそこにいた。
 ありゃりゃ、と肩をすくめる翠子。
 
 好きな人に、強めの口調で拒絶されれば、例え仕事上のこととはいえ辛いだろう。
 少しばかりうつむく矢野さんに、高峰さんはまた声をかける。
 
「営業のことなら、応援に来てるものとして、できることなら何でもするから」
「は、はい」

 上目遣いで高峰さんに返事をし、かわいらしく返事をした。
 さっきまでの、落ち込んでいた表情がウソのような変わりよう。

 自分の領分ではない仕事は他の人間に教えを乞い、言うべきところは言い、フォローもかかさない。
 仕事ができる人間とは、こういう人間なのだろう、と思った。

 高峰さんと矢野さんは、お礼だけ言って、戻っていった。

「罪作りだね、高峰さん。わざとかな?」
 翠子が私に目線を向け、言った。

「さぁね」

「いや、あれはねぇ、高峰君はね、不器用なんだよきっと」

 会話に割って入ってきたのは、正木支店長だ。優し気なタレ目は、時折、威圧感を与える瞳にもなることを、古野森支店にいる人間は良く知っていた。
 
 いつの間にか背後にいた支店長に背筋が伸びる。
 
「ま、古野森支店のために頑張ってくれるなら、僕はなんでもいいから、いいんだけどねー。社内の人間関係を乱さないでくれればねー」

 陽気に言ってのける支店長は、全てを見通しているかのような発言をたまにする。

「ね、木之元さん」

「なんで私に話をふるんですか」

「悪い奴ではないよ、高峰は」
「だから、なんで」

「かわいらしい女性行員二人が、仕事を置いてまでお話してるから、気になっただけだよ」

 ふふふん、と何故か上機嫌に言う正木支店長。
 
 普段は優しいけれど、こういう時は少し恐ろしい。タレ目の奥に何やら圧が眠っていそうだ。
 
 一瞬で嫌味を理解した翠子と私は、すぐさま自分の席に戻ったのである。

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