例えこの想いが実らなくても

笹葉アオ

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6)ユーリアと呼ばれる前の記憶①

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 わたしがユーリアと呼ばれる前の話――。


 
 わたしはフラフラになりながら、土砂降りの街の坂道を歩いていた。ボロボロのシャツの胸元から時折小さい十字のネックレスが見える。
 

 血みどろだったが、雨がそれを洗い流してくれていた。


 ほんとうに最近調子が悪い。
 今日の仕事の出来はマムに怒られるなあ。

 
 すんでのところで自分が相手に殺されるところだった。殺されはしなかったが、結構怪我をしてしまった。

 
 物心がついた時にはマムに教えられて、物売り、スリ、果ては今日みたいな「仕事」をしていた。

 

 「おなか空いたなあ……」


 
 身体がうまく動かないので、最近スリもなにも上手くいかず、ろくなものを食べていなかった。
 
 マムに仕事のお金をもらって、今日こそパンでも買おう。


 手足が微かに震える。
 意識を集中しないと今にも倒れそうだ。

 
 坂道の左手は崖があり、右手はぎゅうぎゅうに家が並んでいた。その屋根から雨宿りをしているカラスが彼女を見下ろす。
 まつ毛にしたたる雨粒を手で振り落としながら、やっと人が一人通る坂道を一歩一歩着実に進んでいた。
 
「はやく……。」
 
 その時、
 カアカアとカラスが彼女の真横を横切った。まるで彼女の死を予感させるかのように。

 わたしは空に向かって手を振り追い払った。
 


 その瞬間――



 足を滑らせて、脇の崖から転げ落ちた。咄嗟に手を伸ばして、崖の岩場に生える木を掴む。
  
 自分の足がぶらぶらとぶら下がっている。その下は木々が生い茂っていた。歯を食いしばり、足を岩場にかけ、手に力を入れてぐっと上に登ろうとする。

 
 しかし再び足を滑らせて、
 今度こそ本当に落ちてしまった。

 


 ほんとうに最近調子が悪い。

 


 目の前の空がゆっくりと流れていく。
 身体を縮めてギュッと目を瞑る。深い深い闇の中、真っ逆さまに無限に落ちていくような感覚がした。



—————
 


 「うっ」

 うっすら目を開けるとそこはどこかの部屋で、ベットに寝転がっているようだった。
 身体中がズキズキする。起きたいのにうまく身体が動かない。

 
「……起きた!よかった。」
 という女の子の声が耳元のすぐ近くで聞こえたかと思うと、すぐにパタパタと出ていく音がする。

 
 ゆっくり顔だけ動かして横を見るとサイドテーブルがあり、その上に燭台と銀の十字架の置物があった。その前には水の入ったタライ、中には布が浸かっていた。先ほどまで使っていたのか、布がゆらゆらと水の中で揺れている。



 ハッとなり、首元にかかる小さい十字のネックレスを確認する。

 「よかった……。取られてない。」

 太ももに巻き付けてあったナイフも身につけたままだった。
 
 
 再び顔を天井に向ける。とりあえずここを出なきゃいけない。そんな気がした。
 痛む身体を無理やり起こす。


 「大丈夫ですか?!」


 先ほどと同じ女の子の声がした。部屋に戻ってきたみたいだ。手に持っていたコップをサイドテーブルに置いて、急いで起き上がった自分の背中を支えた。


 「痛いですよね……。」


 本当に痛かった。こくりと頷いた。



 「あんなに高いところから落ちてきたのだから、そうですよね……。」


 「ここは……?」


 「ここは修道院です。大きい音が庭の方からしたと思ったらあなたが落ちてました。」

 
 「そう…。」


 「あの…、喉乾いてませんか?よかったらこれ飲んでください。」
 彼女がわたしに近づけたコップから優しくあたたかい匂いが広がる。
 どうやらスープのようだった。

 ごくっ。
 思わず唾を飲み込む。
 コップを受け取って、カサカサに干からびた唇でスープを少しすする。


 胃に温もりが染み渡る。久しぶりの食事を噛み締めるように、ゆっくりゆっくり飲む。その様子を見て女の子もほっとしたような、満足したような顔でこちらを見て頷いていた。



 女の子は細く、修道院の頭巾を被った下には、青白い顔が覗いた。しかしその顔は一般的にかわいらしいと言われるであろう顔立ちだった。
 それよりも印象的だったのは、こぼれ落ちそうな大きな瞳が薄く翠がかっていて、神秘的な雰囲気に感じた。



 彼女のぽってりとした唇をニコッとさせ、
「落ち着くまでここにいくらでもいてください。」
 とわたしに言った。




—————




 あの子はどっかのいいとこのお嬢ちゃんなんだろう。
 そんな人のお世話になりたくなかった。
 修道院も嫌いだった。
 神なんて信じていないし、いないと思っている。
 


 横のサイドテーブルに置いてある銀の十字架の置物を見る。かなりのお金になりそうだ。
 


 雨は止んだようだが、窓の外は日も暮れて真っ暗だった。痛い身体を気力で起こし、部屋のドアを少し開けてみると、その先は回廊で長く伸びていた。
 回廊の右側は庭に面していて、左側の石壁を月明かりが照らす。
 庭の奥には石垣があって、石垣の中腹の段には木々が生えていた。その木を石垣沿いに渡れば修道院の敷地は出られそうだった。

 

 周りは風ひとつなく、静かだった。

 

 部屋に戻るとサイドテーブルにあった銀の十字架を手に取り、回廊から庭に向かう。

 わたし石垣を見上げた。
 いつもならこんな石垣簡単に登れるのに、今日はどうだろう……。

 ちょっとしか歩いていないのに息切れがする。



 身体も頭もズキズキと痛い。



 手も震えていた。



 眩暈がして、膝をついてしゃがみ目元に手を当てる。
 盗んだ銀の十字架の置物が手から落ちてゴロゴロの転がった。
 


 「あっ」



 声がした方を振り向くと手に毛布を持った先ほどの女の子が立っていた。



 女の子は心配そうな顔つきでわたしに駆け寄ってきたので、急いで盗んだ銀の十字架を自分に引き寄せた。


 
 次の瞬間――、



 女の子の鎖骨から首にかけて切っ先が光った。
 
 左太ももにくくり付けていたナイフを右手でつかみ、わたしは彼女を切りつけた。


 「きゃっ……。」



 女の子は後ろに尻餅をついた。修道服はパックリと割れ、血がうっすら滲む青白い肌が見えた。彼女は驚いた顔をしてその部分を手で押さえる。
 不恰好な姿勢で切りつけたので、深傷にはなってなさそうだった。

 
 「ユーリア様!どうしたましたか?!」

 
 回廊の暗がりから、修道服を着た初老の女性が現れた。
 ユーリアと呼ばれた女の子に駆けよった初老は、両手で肩を押さえ彼女の傷を見る。そしてわたしの方を睨みつけると、

 「あなた、なんてことを……。護衛!護衛!」と大声で叫んだ。

 

 ……声が耳をつんざく。

 頭にきーんとした音が響き、冷たい汗が噴き出る感触がする。
 手が一気に冷たくなり、目も霞んできた。

 そして、わたしは頭から地面に一気に倒れ込んだ。



 
 「ああ、そんな。」



 ユーリアと呼ばれた女の子は、鎖骨の傷など忘れてわたしの方へ身を乗り出した。
 



 その姿がぼんやりと霞み、
 そして目の前は真っ暗になった。

 
 

 
 

 
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