婚約破棄され悪役令嬢にされました

綾取

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第3話 冷たい月の下

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 馬車の車輪が石畳を静かに鳴らしながら、エヴァレット公爵邸の門をくぐる。

 リディアは窓の外に視線を投げたまま、無言だった。
 夜空には満ち欠け途中の月が浮かび、白く冷たい光を地上に注いでいる。

 ー何が起こったと言うのか。

 舞踏会の喧騒も、婚約破棄の宣言も、嘘に塗れた視線も。
 全てが夢だったかのように、静かな夜の空気は残酷なまでに平常を保っていた。

 馬車が止まり、扉が開かれる。

「お疲れ様です。お帰りなさいませ、リディア様」

 オスカー・グレイ——彼女にとって唯一、絶対的な信頼を寄せる執事であり、いわば“盾”のような存在。
 その声音はいつも通り冷静だったが、今夜ばかりは、微かににじむ怒りと悲しみをリディアは感じ取っていた。

「オスカー、遅くまでご苦労さま」

「お役目でございますから。しかし……あの場における殿下の言動、到底納得できるものではありません」

 リディアは静かに首を振る。

「言っても仕方ないわ。それが“彼の選んだ真実”だったというだけのこと」

 淡々と返すその声は、まるで感情が欠落しているかのようだった。
 だが——それは彼女のいつもの“仮面”だった。

 廊下を歩くリディアの背筋は、まっすぐで、寸分の乱れもない。
 手にしたスカートの裾も、どこかの舞踏会にいるかのように優雅だった。

 オスカーは、その理由を知っていた。
 彼女が凛としているのは、強いからではない。弱さを見せることを許されなかったからだ。

 やがて、リディアの部屋の前にたどり着く。
 扉の前で彼女は振り返り、微笑を浮かべた。完璧な貴族令嬢の顔で。

「心配しないで。私は大丈夫」

「……その言葉を、何度お聞きしたか」

 オスカーは小さく目を伏せた。
 けれどそれ以上、何も言わず、ただ静かに一礼する。

 扉が閉まり、リディアは部屋でひとりになった。

 重厚なカーテンに包まれた室内。
 鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。

 化粧はまだ崩れていない。笑みの形も保たれている。

 それでも、瞳の奥に宿る空虚な光だけは、彼女自身すら隠しきれなかった。

(私は、公爵家の娘。……誰にも、軽んじられてはならない)

 幼いころから、それだけを心に刻んできた。
 気高く、強く、完璧でなければ、家の名も、自分という存在も、すぐに否定される世界だった。

 だからこそ、泣くことも、弱音を吐くことも、彼女は決して許さなかった。

 ……けれど。

 扉の向こうに誰もいないと確認して、ほんの少しだけ。
 リディアは唇を噛み、両の手を胸元に押し当てた。

 冷たい指先が、ほんの少しだけ震えていた。



 リディアが落ち着きを取り戻した頃、ドアがノックされオスカーが立っていた。

「執務室にて、ご両親がお待ちです」

「……わかりました」

 重厚な扉を前に、リディアはほんの一瞬だけ立ち止まる。表情を整え、背筋を伸ばし、いつも通りの“公爵令嬢”としての仮面をかぶった。

 扉を開けると、真っ先に目に入ったのは、暖炉の前に立つ父――グレゴリー・エヴァレット公爵だった。

「……戻ったか」

「はい、父上」

 その背中は大きく、威厳に満ちていた。だが、向き直ったその眼差しは冷ややかで、娘の痛みに目を向ける余裕はなかった。

「お前の評判は、既に幾つかの貴族の耳に届いている。中には“婚約破棄された令嬢など、我が子の伴侶には相応しくない”との声もある」

 つい先程の事なのに噂はもう広まっている。

「今後は、余計な行動は慎め。公爵家の威信をこれ以上貶めることのないように。それだけだ」

 言葉が終わると、グレゴリーは背を向け部屋を後にした。まるで、彼女を一人の娘ではなく“失策を起こした部下”のように扱うその態度に、心は冷えていく。

 だが――

「リディア」

 母の、優しい声が割って入った。

 その声に、リディアの眉がほんのわずか揺れる。

 母・レイチェルは、静かに歩み寄り、誰も見ていないのを確認すると、そっと娘の手を握った。

「……よく、耐えましたね」

「……母上……」

 震える手。泣いてなどいない。だが、リディアはもうそれだけで、胸が詰まった。

「泣いてはいけません。あなたは、公爵家の誇りを背負う娘。でも、同時に私たちの、大切な子でもあるのですよ」

 その声は、優しくて、あたたかかった。

 涙は流さない。それが彼女の選んだ生き方だった。

 けれどその夜、リディアは生まれて初めて、母の手のぬくもりを「救い」と感じたのだった。
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