灰色の海で待つ

からり

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 午後11時きっかりに部屋のドアがノックされた。
 コツコツコツ、と強くも弱くもないバランスのいいノックが3回鳴った。
 聞き覚えのあるノックに戸惑いながら「どうぞ」と応じる。
 ドアが開く。
「こんばんは」無機質な挨拶。ノックの音で予想はしていた。でも驚かずにはいられなかった。
 ドアの向こうには紙谷さんが立っていた。
「入っていいですか?」
 私はうなずく。そもそも拒否する権利はない。尋ねるのは儀礼的、あるいは紙谷さんの優しさだ。
「失礼します」
 紙谷さんはどこか慎重な足取りで部屋に入り、鋭い視線で辺りを見渡した。
「なんで紙谷さんがここに?」
「荒鐘副室長の命令です」
 荒鐘の命令?私は混乱していた。助けを求めるようにソファの上のリグルを見るがまだ眠っている。どうやら私は一人で対処しなければいけないらしい。
「警備部の人がコピーの結果を見に来るなんて初めてです」
「警備部は組織上は副室長配下ですから」
 紙谷さんは窓際のキャンバスに向かって歩き出す。姿勢のいい背中の後を追う。キャンバスの前で紙谷さんが立ち止まる。表情は真剣で、どこか熱を帯びていた。
「初めて実物を見ました。いつもよりずいぶん抽象的ですね」
「いつもより?」
「荒鐘副室長に、過去の画像ファイルを見せてもらいました」紙谷さんは言った。「先ほど荒鐘副室長の命令と言ったのは、すみません、嘘です。ここに来ることは私が希望したんです。自分は現在は警備部所属ですが研究室への異動を希望しています。独学で色々と勉強をしてはいますが、生の資料を見られる機会は貴重です。今ここにいることもそうです。アビリティの結果をこんなに間近で見られるのは……」
 紙谷さんは急に口をつぐみ、形のいい眉をひそめ「すみません」と謝った。
「昔から人の気持ちを考えることが苦手で。気分を害しましたか?」
 なぜ謝られたのかよくわからなかった。「何で私が気分を害したなんて思うの?」
「研究対象として興味を持たれるなんて嫌じゃないですか?」
「全然」私は首を振った。「むしろ興味を持ってもらえるのは嬉しいです」
 今度は紙谷さんがとまどった顔になった。
「三鬼さんはやっぱり変わっていますね」
「紙谷さんも中々だと思います」
 そう言うと、紙谷さんの戸惑いはますます深まったようで、途方に暮れた子供みたいな顔になった。クールな彼女らしからぬ表情がかわいくて思わず笑ってしまう。
「なぜ笑うんですか」
「ごめんなさい」これ以上紙谷さんを混乱させてはいけない。私は笑いをこらえて説明する。
「興味を持ってもらうのが嬉しいのには理由があって。私は一人でいることも好きだけど、誰かといることはもっと好きなんです。人間がとても好き。でもこの地下室で人と過ごせる機会は多くない。たまに担当の研究員の人が来るだけ。研究員の人にとって、私はただの研究対象に過ぎないだろうけど、私は彼らが来ることをいつも待っているんです。彼らと一緒に過ごせる時間は私にはとても大事なんです。だから興味を持ってもらえると嬉しい。だって興味があれば、研究のためにここに来る時間が増えるから」
 紙谷さんの表情から戸惑いが抜けて、研究者らしい好奇心がのぞく。
「面白いですね」紙谷さんは言った。「アビリティ保有者にはサイコパス傾向があり、攻撃性が高く平気で他者を傷つけるものも多いと本で読みました。でも三鬼さんは違う。やはり自分は三鬼さんに興味を抱かずにいられません」
「ありがとう」
「機会をくれた荒鐘副室長にも感謝しなければ」
 その言葉には、少しだけ皮肉が混じっている気がした。
「荒鐘……さんはどうして紙谷さんをそんなに優遇してくれるんですか?」
「荒鐘副室長に城木さんを紹介したのが、自分だからです」紙谷さんは言った。「荒鐘副室長はその見返りに、私の要求をある程度叶えてくれます。ここに来ることや、研究室への異動も約束してくれました」
「納得しました」
「何がですか?」
「あの人とは、今日初めてあったけど、部下思いなタイプには全然見えなかったから。交換条件なら、なるほどって思えて」
 紙谷さんは考えるように首を傾げ、
「彼は上司としては最低な部類でしょうね」と感情のこもらない声で言った。「部下を支配することに喜びを感じ、手柄を横取りするのは当然の権利だと思っています。だからといって上司や組織に対して忠実でもありません。媚びへつらいながら面従腹背です。自分の利益のためなら世話になった相手でも平気で後ろから刺すでしょう」
「上司としてより人間として問題な気がする」
「その通りです。けれど分かりやすくもあります。自分の利益を最優先にする人間は、エサに弱いんです。食いつかずにはいられない」
「どういうことですか」
 紙谷さんは「深い意味はありません」とつぶやき、キャンバスを指さした。
「今回、なぜこのように画面が乱れているんですか?」
「わからない。でも結果はでています」
「つまり?」
「彼がキャンバスにいないことは確か」
「死んでいるということですね」
「……えぇ」
 紙谷さんはデジタルブックを取り出しキャンバスの撮影をはじめた。色々な角度で何枚も撮る。キャンバスは、この後、私が眠ると真っ白に戻ってしまうからだ。
「城木さんとはどういう知り合いなんですか?」
 沈黙があった。答えてもらえないかと思ったが、
「城木さんは、元警察官僚です。私は以前、警察で働いていました。詳しくは話せませんが、ある特殊事案で彼の片腕となり動きました。それ以来、プライベートでも何かとお世話になっています」
 紙谷さんは撮影を終え、デジタルブックをジャケットのポケットにしまった。それから目を細めキャンバスをじっと見つめた。
「城木さんは恐いほど仕事のできる上司でした。判断力と決断力に長けていて、指示はいつでも明確でした。でも当時、自信過剰で生意気だった私は、現場で彼の指示に従わなかったことがあります。結果、まんまと敵の罠にはまり命を落としかけました。通常であれば切り捨てられて当然の状況でした。でも彼は私を救いに来ました。組織の長としてではなく、一個人として、命を賭けて。私は一生かかっても返せない恩があります。だから……」
 言葉が途切れた。短い沈黙の後「そろそろ失礼します」と紙谷さんは去ろうとした。私は慌てて写真を紙谷さんに渡そうとする。
 だが紙谷さんは一歩後ずさり受けとろうとしなかった。反射的な動きだったが、写真に触れたくないかのように見えた。
「撮影に来た人がいつも持って返るの」私は説明した。
「そうなんですか」
「城木さんに返してほしい。大切な写真だと思うから」
 紙谷さんは無言で写真を受け取ると、ジャケットのポケットに無造作に差し込んだ。かすかに指先が震えていた。写真の中の彼が死んでいた結果に動揺しているのだろうか。
「紙谷さんは、彼を知っていたの?」
 一瞬、彼女の表情が複雑に歪んだ。
「えぇ」その声は低く暗かった。「知らなかったら、どんなによかったか」
 どういう意味か聞こうとして口をつぐむ。紙谷さんの目が激しい怒りに燃えていたからだ。
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