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風紋(Sand Ripples)プロローグ
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宗像 紫雲
プロローグ
蘇州河の北側に広がる虹口一帯は、「東洋のパリ」とか「アジア随一の国際都市」と褒めそやされる外灘辺りとは比ぶべくもないほどみすぼらしい。それでも確かに上海共同租界の一部に違いなかった。
呉松路と漢璧礼路、塘沽路が交差する辺りは虹口の中心街で、朝から通行人やら行商人、路面電車や自動車がひっきりなしに行き交う場所だ。その間をぬうようにして大八車や黄包車が走りぬけていく。警笛やクラクションに車夫の威勢よい掛け声が入り混じって、かしましいことこの上ない。交差点では赤いターバンを巻いたインド人巡査が黒い大きな手を器用に動かして、その喧騒と雑踏をさばいていた。
交差点に面した三層の虹口マーケットはこの町の台所と呼ばれ、早朝から昼前まで買い物客で賑わうことで知られる。ここには大陸特産の肉や魚や野菜などはもちろんのこと、季節に応じて鮎やイワナ、サンマ、ハモなどの鮮魚類から、タケノコやタラの芽、ワラビ、ゼンマイなどの山菜にいたるまで内地の品々が溢れんばかりに並ぶ。仲買人や料亭の板前に交じって家庭の主婦など一般人が直接買いに来られるのもここの良さで、当時は一般に開放されていなかった東京の築地市場とはまた違った活気を呈していた。
昭和十一年夏の終わり。
照りつける陽光は心なしか過日の勢いを失い、ついこの間までジージー鳴いていた蝉の声も、いつしかつくつく法師に変っていた。目抜き通りの北四川路からひとつ路地を隔てると街の喧騒はすっかりまろやかになって、風に漂う潮騒のごとく妙に耳へ馴染んでくる。時おり遠くで響く汽笛が海鳴りのようにこだました。
その家は虹口の租界からさらに北へとはみ出した、越界築路に沿ってひっそりと佇んでいた。一部が崩れかけたコンクリート塀の内側からプラタナスの大きな枝が張り出して、そこだけ涼やかな木陰を作っている。切妻造りを直角に組み合わせた三階屋は、内地ではあまり見かけないものだ。ケラバを覆う破風がかろうじて日本家屋の面影を残した。
慎ましやかな家の中庭に幼い男の子が独り、たらいに張った水に木船を浮かべて遊んでいる。木船と呼ぶにはあまりに粗末なその木片は、父親が家を空ける前に愛息子のためにこしらえてくれたものだった。
「ハジくん、おふね、楽しい?」
「あっ、おじちゃまだ」
男の子の名は肇といった。おじちゃまと呼ばれた志村は家の主人の同僚で、ひと月あまり前から三階に居候している。
「俺ももう、上海生活三年半になる。九月頃には内地へ帰れるだろう。家具はそのままにしておくから、後は君が引き受けてくれ」
志村は上海へ来て一年近くになるが、独り身の気安さに任せてまだ居を定めていなかった。肇の父から誘われるまま、「それなら今から君のところへ置いてくれ」と、転がり込んできた。
主人も志村も明けっ広げで飾るところのない性格だったから、すぐに家族の一員となった。
「志村さん、朝ですよ。お寝坊ですね」
階下で女主人の声がすると、肇がタタタタタッと部屋へ入ってきて、容赦なく布団の上で跳び跳ねた。この家に転がり込んでから、志村の寝起きは目に見えて悪くなった。その原因はこの家の主人にある。
家の主人は人柄の点で全く非の打ちどころがないが、ひとつ重大な欠点を持っていた。それは、クジラの唸りのような大いびきである。主人のいびきは職場でも有名で、志村も重々承知のはずだった。だが夫婦の寝室は一階にあり、自分は三階の居候部屋だからと安易な気持ちで越してきたのが間違いのもとだった。(いったいこの家の住人はどうやって暮らしているのだろうか)。寝不足の苛立たしさを若い女主人や幼子にまでぶつけては、己の浅はかさを悔いるのであった。
そんなこととは露知らず、子どもたちは年の若い志村にすぐに懐いた。主人が仕事で不在のときは、志村が遊び相手を引き受けた。庭のたらいに水をはってくれたのも志村である。
「パパがね、うんと……帰ってきたらね、お船ね、うんと……かってく・で・どぅ・の」
肇はたどたどしい言葉遣いでうれしそうに言った。今度の旅行に出かける前、父は「いい子にしていたら、おみやげに帆の付いた立派な船を買ってきてやる」と約束してくれた。肇は目を輝かして「ホント? きっと、きっとだよ」と、何度も指切りをした。
その日、志村はまだ陽の高いうちに帰ってきた。しかも何やらかしこまったなりの客を連れてきた。それなのに自分は客とは同席せず、逃げるように庭へ出て肇のところへやってきた。肇はてっきり志村が自分と遊ぶために帰ってきたものと独り決めした。そのぎこちない振る舞いと客の様子に、この家の阿媽は何か常ならぬ雰囲気を感じ取った。そして来客に茶と茶菓子を勧めると、茉莉子を抱いて自分も外へ出てきた。
その客は居間で女主人と差し向かい合っている。差し出された名刺には、「大阪毎日新聞社 上海支局長 田知花信量」とあった。二人の会話は最初から重苦しかった。時候の挨拶が済むと田知花はさらにためらいがちになった。所々で会話が途切れたというより、沈黙の合間に時折言葉を差し挟んだような対話だった。女主人はすでにある種のことを察しているようで、ただくずおれないように必死に堪えているかに見えた。田知花は用心深く言葉を探した。
ややあって、田知花は意を決したように何かを告げた。女主人は少しだけ表情をこわばらせ、そしてうつむきがちに遠くを見やった。さっきより長い沈黙が流れた。“言の葉”は田村を離れ女主人へと向かったが、彼女の中へは容易に入り込もうとしなかった。音声が左脳を刺激して“意味”となり、彼女の中に融け込むにはそれ相応の時間を要した。
「私どもも最善を尽くしております。何か分かりましたら、すぐにご連絡いたしますので……」
田知花は重々しい口調で言った。女主人はそれ以上何も聞いていないかに見えた。蝉の声と遠くで鳴る汽笛が、会話の空白を埋めた。
沈黙こそがこの部屋の主になった頃、女主人はおもむろに口を開いた。
「なにぶん、よろしくお願いいたします」
遠くへ投げた視線をそのままに、声だけはしっかりと踏みとどまろうとしているかのようだった。
プロローグ
蘇州河の北側に広がる虹口一帯は、「東洋のパリ」とか「アジア随一の国際都市」と褒めそやされる外灘辺りとは比ぶべくもないほどみすぼらしい。それでも確かに上海共同租界の一部に違いなかった。
呉松路と漢璧礼路、塘沽路が交差する辺りは虹口の中心街で、朝から通行人やら行商人、路面電車や自動車がひっきりなしに行き交う場所だ。その間をぬうようにして大八車や黄包車が走りぬけていく。警笛やクラクションに車夫の威勢よい掛け声が入り混じって、かしましいことこの上ない。交差点では赤いターバンを巻いたインド人巡査が黒い大きな手を器用に動かして、その喧騒と雑踏をさばいていた。
交差点に面した三層の虹口マーケットはこの町の台所と呼ばれ、早朝から昼前まで買い物客で賑わうことで知られる。ここには大陸特産の肉や魚や野菜などはもちろんのこと、季節に応じて鮎やイワナ、サンマ、ハモなどの鮮魚類から、タケノコやタラの芽、ワラビ、ゼンマイなどの山菜にいたるまで内地の品々が溢れんばかりに並ぶ。仲買人や料亭の板前に交じって家庭の主婦など一般人が直接買いに来られるのもここの良さで、当時は一般に開放されていなかった東京の築地市場とはまた違った活気を呈していた。
昭和十一年夏の終わり。
照りつける陽光は心なしか過日の勢いを失い、ついこの間までジージー鳴いていた蝉の声も、いつしかつくつく法師に変っていた。目抜き通りの北四川路からひとつ路地を隔てると街の喧騒はすっかりまろやかになって、風に漂う潮騒のごとく妙に耳へ馴染んでくる。時おり遠くで響く汽笛が海鳴りのようにこだました。
その家は虹口の租界からさらに北へとはみ出した、越界築路に沿ってひっそりと佇んでいた。一部が崩れかけたコンクリート塀の内側からプラタナスの大きな枝が張り出して、そこだけ涼やかな木陰を作っている。切妻造りを直角に組み合わせた三階屋は、内地ではあまり見かけないものだ。ケラバを覆う破風がかろうじて日本家屋の面影を残した。
慎ましやかな家の中庭に幼い男の子が独り、たらいに張った水に木船を浮かべて遊んでいる。木船と呼ぶにはあまりに粗末なその木片は、父親が家を空ける前に愛息子のためにこしらえてくれたものだった。
「ハジくん、おふね、楽しい?」
「あっ、おじちゃまだ」
男の子の名は肇といった。おじちゃまと呼ばれた志村は家の主人の同僚で、ひと月あまり前から三階に居候している。
「俺ももう、上海生活三年半になる。九月頃には内地へ帰れるだろう。家具はそのままにしておくから、後は君が引き受けてくれ」
志村は上海へ来て一年近くになるが、独り身の気安さに任せてまだ居を定めていなかった。肇の父から誘われるまま、「それなら今から君のところへ置いてくれ」と、転がり込んできた。
主人も志村も明けっ広げで飾るところのない性格だったから、すぐに家族の一員となった。
「志村さん、朝ですよ。お寝坊ですね」
階下で女主人の声がすると、肇がタタタタタッと部屋へ入ってきて、容赦なく布団の上で跳び跳ねた。この家に転がり込んでから、志村の寝起きは目に見えて悪くなった。その原因はこの家の主人にある。
家の主人は人柄の点で全く非の打ちどころがないが、ひとつ重大な欠点を持っていた。それは、クジラの唸りのような大いびきである。主人のいびきは職場でも有名で、志村も重々承知のはずだった。だが夫婦の寝室は一階にあり、自分は三階の居候部屋だからと安易な気持ちで越してきたのが間違いのもとだった。(いったいこの家の住人はどうやって暮らしているのだろうか)。寝不足の苛立たしさを若い女主人や幼子にまでぶつけては、己の浅はかさを悔いるのであった。
そんなこととは露知らず、子どもたちは年の若い志村にすぐに懐いた。主人が仕事で不在のときは、志村が遊び相手を引き受けた。庭のたらいに水をはってくれたのも志村である。
「パパがね、うんと……帰ってきたらね、お船ね、うんと……かってく・で・どぅ・の」
肇はたどたどしい言葉遣いでうれしそうに言った。今度の旅行に出かける前、父は「いい子にしていたら、おみやげに帆の付いた立派な船を買ってきてやる」と約束してくれた。肇は目を輝かして「ホント? きっと、きっとだよ」と、何度も指切りをした。
その日、志村はまだ陽の高いうちに帰ってきた。しかも何やらかしこまったなりの客を連れてきた。それなのに自分は客とは同席せず、逃げるように庭へ出て肇のところへやってきた。肇はてっきり志村が自分と遊ぶために帰ってきたものと独り決めした。そのぎこちない振る舞いと客の様子に、この家の阿媽は何か常ならぬ雰囲気を感じ取った。そして来客に茶と茶菓子を勧めると、茉莉子を抱いて自分も外へ出てきた。
その客は居間で女主人と差し向かい合っている。差し出された名刺には、「大阪毎日新聞社 上海支局長 田知花信量」とあった。二人の会話は最初から重苦しかった。時候の挨拶が済むと田知花はさらにためらいがちになった。所々で会話が途切れたというより、沈黙の合間に時折言葉を差し挟んだような対話だった。女主人はすでにある種のことを察しているようで、ただくずおれないように必死に堪えているかに見えた。田知花は用心深く言葉を探した。
ややあって、田知花は意を決したように何かを告げた。女主人は少しだけ表情をこわばらせ、そしてうつむきがちに遠くを見やった。さっきより長い沈黙が流れた。“言の葉”は田村を離れ女主人へと向かったが、彼女の中へは容易に入り込もうとしなかった。音声が左脳を刺激して“意味”となり、彼女の中に融け込むにはそれ相応の時間を要した。
「私どもも最善を尽くしております。何か分かりましたら、すぐにご連絡いたしますので……」
田知花は重々しい口調で言った。女主人はそれ以上何も聞いていないかに見えた。蝉の声と遠くで鳴る汽笛が、会話の空白を埋めた。
沈黙こそがこの部屋の主になった頃、女主人はおもむろに口を開いた。
「なにぶん、よろしくお願いいたします」
遠くへ投げた視線をそのままに、声だけはしっかりと踏みとどまろうとしているかのようだった。
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