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第二章
第二章第四節(参謀総長)
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四
午後二時、陸相、参謀総長、教育総監による「三長官会議」が開かれた。
「外相は満蒙をどうしたいのでしょうかね」
青年将校からの人望が厚い荒木貞夫教育総監が、南陸相の心中を察するように言った。慎重派の金谷総長は渋い顔で黙っている。このとき金谷は重度の胃潰瘍を患っており、国家の危急を背負える健康状態ではなかった。満洲事変の善後策を巡って、歴代参謀総長の中でも最も頻繁に天皇の許へ参内する彼は、このときの心労がたたって事変渦中の昭和八年に病没する運命にある。
「ともかく、閣議が決した以上は従わざるを得まい」
南陸相は事変前の九月八日、宮中に呼ばれて昭和天皇から直々に「軍の規律を厳しくするよう」宣賜されたばかりである。三月に陸軍内部でクーデタ未遂事件が発覚し、軍規の引き締めが喫緊の課題となっていた矢先だけに、出先の軍司令官による独断行動は何としても止めねばならなかった。
「それはそうですが、若い者が容易に納得しますかな」
これに反して荒木は若い将校連中の心情を代弁する。
「とくに橋本や長は要注意ですな」
めずらしく金谷が話に乗ってきた。ロシア班長の橋本欣五郎中佐や長勇少佐は桜会の同士で、この三月に政府転覆の陰謀をたくらんだ前科がある。しかも彼らはこれに懲りず、新たに何か“こと”を仕出かそうとしているとの噂が絶えない。
「ならばどうすればいいという妙案もあるまい。とにかく不用意なことはせぬよう、軍紀を今一度引き締めるのが肝要だ。部長連には参謀総長からよく言い含めておいてくれ」
陸相がそう締めくくって、会議は散会した。
金谷総長はこうした局面での腹芸が得意ではない。その日の部長会議で「事ここに至ったのは致し方ないが、速やかに事態を収拾し旧態へ戻す必要がある」と単刀直入に戦線縮小を切り出す。すぐさまこれに噛みついたのが今村だった。
「お言葉ですが、矢はすでに弦を放れております。今さらこれを抑え込んで旧態に戻すとなれば、軍隊の士気に及ぼす影響は計り知れません。この際は万難を排して国家国軍の威信を守り、大きな目的を達成するために奮闘努力すべきではないでしょうか」
だが金谷の方も譲らなかった。
「大事を行おうと思えばこそ、長官たるもの若い者の意見に引き摺られないよう自らを戒めねばならぬのだ。オレはいま四十七士の大石良雄(蔵之介)の心境にある。今回の事変に関する一切の責任はこのオレが取るつもりでいる」
総長がそこまで腹を括っているのであれば、今村もこれ以上食い下がる訳にはいかない。今村から事情を聞かされた堀場も、不承不承ながら関東軍の本庄司令官へ宛てて「事変処理に就いては、必要の度を越さない範囲で善処する」旨の電文を起草する。
堀場は文案を携えて関連部署をまわり、種々の手直しを加えた『電第十五号』を完成させて総長の署名をもらいに行った。出来上がった文面を見た金谷は、「よしよし」と小さくうなずき、快く署名をしてくれた。堀場にはこのときの金谷総長の苦しい胸の内が、ひしひしと伝わった。
「一、九月十八日夜以降に於ける関東軍司令官の決心および処置は機宜に適したるものにして、帝国軍隊の威重を加えたるものと信じあり。
二、事件は発生以降の支那側の態度に鑑み、事件の処理に関しては必要の度を超えざることに閣議の決定もあり、従って向後軍の行動はこの主旨に則り善処せらるべし」
出先の独断専行には参謀総長としても苦言を呈したいところだが、前線の司令官を最大限に立てた上で、やんわりと「後のことは、こちらで引き取る」とした訳だ。簡単明瞭な文言だが、背景を考慮すると作成者の苦衷を偲ばせるものがある。
午後二時、陸相、参謀総長、教育総監による「三長官会議」が開かれた。
「外相は満蒙をどうしたいのでしょうかね」
青年将校からの人望が厚い荒木貞夫教育総監が、南陸相の心中を察するように言った。慎重派の金谷総長は渋い顔で黙っている。このとき金谷は重度の胃潰瘍を患っており、国家の危急を背負える健康状態ではなかった。満洲事変の善後策を巡って、歴代参謀総長の中でも最も頻繁に天皇の許へ参内する彼は、このときの心労がたたって事変渦中の昭和八年に病没する運命にある。
「ともかく、閣議が決した以上は従わざるを得まい」
南陸相は事変前の九月八日、宮中に呼ばれて昭和天皇から直々に「軍の規律を厳しくするよう」宣賜されたばかりである。三月に陸軍内部でクーデタ未遂事件が発覚し、軍規の引き締めが喫緊の課題となっていた矢先だけに、出先の軍司令官による独断行動は何としても止めねばならなかった。
「それはそうですが、若い者が容易に納得しますかな」
これに反して荒木は若い将校連中の心情を代弁する。
「とくに橋本や長は要注意ですな」
めずらしく金谷が話に乗ってきた。ロシア班長の橋本欣五郎中佐や長勇少佐は桜会の同士で、この三月に政府転覆の陰謀をたくらんだ前科がある。しかも彼らはこれに懲りず、新たに何か“こと”を仕出かそうとしているとの噂が絶えない。
「ならばどうすればいいという妙案もあるまい。とにかく不用意なことはせぬよう、軍紀を今一度引き締めるのが肝要だ。部長連には参謀総長からよく言い含めておいてくれ」
陸相がそう締めくくって、会議は散会した。
金谷総長はこうした局面での腹芸が得意ではない。その日の部長会議で「事ここに至ったのは致し方ないが、速やかに事態を収拾し旧態へ戻す必要がある」と単刀直入に戦線縮小を切り出す。すぐさまこれに噛みついたのが今村だった。
「お言葉ですが、矢はすでに弦を放れております。今さらこれを抑え込んで旧態に戻すとなれば、軍隊の士気に及ぼす影響は計り知れません。この際は万難を排して国家国軍の威信を守り、大きな目的を達成するために奮闘努力すべきではないでしょうか」
だが金谷の方も譲らなかった。
「大事を行おうと思えばこそ、長官たるもの若い者の意見に引き摺られないよう自らを戒めねばならぬのだ。オレはいま四十七士の大石良雄(蔵之介)の心境にある。今回の事変に関する一切の責任はこのオレが取るつもりでいる」
総長がそこまで腹を括っているのであれば、今村もこれ以上食い下がる訳にはいかない。今村から事情を聞かされた堀場も、不承不承ながら関東軍の本庄司令官へ宛てて「事変処理に就いては、必要の度を越さない範囲で善処する」旨の電文を起草する。
堀場は文案を携えて関連部署をまわり、種々の手直しを加えた『電第十五号』を完成させて総長の署名をもらいに行った。出来上がった文面を見た金谷は、「よしよし」と小さくうなずき、快く署名をしてくれた。堀場にはこのときの金谷総長の苦しい胸の内が、ひしひしと伝わった。
「一、九月十八日夜以降に於ける関東軍司令官の決心および処置は機宜に適したるものにして、帝国軍隊の威重を加えたるものと信じあり。
二、事件は発生以降の支那側の態度に鑑み、事件の処理に関しては必要の度を超えざることに閣議の決定もあり、従って向後軍の行動はこの主旨に則り善処せらるべし」
出先の独断専行には参謀総長としても苦言を呈したいところだが、前線の司令官を最大限に立てた上で、やんわりと「後のことは、こちらで引き取る」とした訳だ。簡単明瞭な文言だが、背景を考慮すると作成者の苦衷を偲ばせるものがある。
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