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第三章ジュネーブ
第三章第十五節(リーク)
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十五
「しかし日本軍が占領地を吉林まで拡大したというのでは、南満洲はほぼ全て日本の手に落ちたのと同じことになります。そうなれば、我が国の輿論は一段と緊張するでしょう」
長官は、悪さを働いた生徒を諭す教師のような口調で、婉曲に関東軍を非難した。これまで合衆国は沈黙を守り続けてきたが、いつまでもそうはいかないぞ――と言わんばかりであった。
「ただ、合衆国政府がここで何か公式な声明を発すれば、日本の輿論を刺激して累を貴国政府へ及ぼすことになるのは、日米外交の今後のためにも賢明ではありません」
もったいぶった言いまわし方で何か“心づもり”があるとばかりに匂わせたが、同時に寛容の心を持っていないでもないゾ--と、仄めかしもした。もし君が自ら反省し言動を慎むならば、これまでのことは無かったことにしないでもない――言外にそう言っている。出渕は一言も返さずに、一方的に諭されていた。
南満州の真ん中にある長春から遼東半島の先端へ向けて南北一直線に走る満鉄に加えて、長春からハルビンへ延長した支線を考慮すれば、吉林はその“わき腹”に位置する。奉天を起点に考えれば吉林はいかにも遠く見えるが、ハルビンを視野に入れて満洲を眺めると、純軍事的にみて吉林は是非とも押さえておきたい要所に当たる。第一次大戦へ志願したはずのスチムソン長官だったが、どうも極東の地政学には疎いようだった。
「実は……、出渕大使にお聞かせしたいと思い、ここにある種の書き付けを用意してきました」
散々もったいつけたが、やはり長官は“心づもり”を行動に移すようである。そして実際、背広の内ポケットから数枚の紙片を取り出した。
「先ほども申し上げた通り、貴国政府の立場や日本の国論については重々承知しているつもりです。従って、これから読み上げる内容は、出渕大使のご裁量によって適宜、貴国政府へお伝えいただきたいと希望します。ただこれは、決して米政府から公式に何かを申し入れるものではありませんので、その点にご注意を願います」
「忖度」――、とは何も日本的な腹芸ばかりを意味するものではない。こちら側の希望はこうだから、波風立てないよう内々にことを運んでくれ--。そういう訳である。
スチムソン長官の意図を反映したメモにはこうあった。
「事態の背景に踏み込むのはひとまず置いて、この四日間に発生した軍事衝突の拡大には驚きを隠せない。
今や日本軍は、実質的に南満洲全域を占領下に置いた。本件は単に日華両政府間の問題に終わらず、不戦条約や九カ国条約の意義を問うものとなった。
米政府は性急にある種の結論に至ったり、立場を明確にするものではないが、事態を非常に憂慮している。我々の懸念を伝えることが、日本政府を当惑させるものではないと信じる。南満州が実質的に日本軍のコントロール下にあるという意味合いにおいて、今後の事態をどの方向へ導くかの鍵を握るのは、主に日本側の責任にある。
米国政府は、両国がこれ以上軍隊による敵対行為を行わず、国際法や協定に則り友好的な手段によって紛争を解決するよう望む」
それで日本政府が出先の軍隊へ撤退命令を出し、軍隊がこれに従えば、国務省としては万々歳であったろう。もっともそれくらいだったら、はなから国際聯盟を煩わす必要もなかっただろうが……。
だが日本の外務省は、長官が「出渕大使のご裁量により」と断りを入れて伝えた「覚書」を新聞へ公表する。当然、新聞は「けしからん!」という論調でこれを大々的に報じ、国民は米国の態度に怒りの声を上げた。
まさかの展開に愕然としたのは当の本人であったことは想像に難くない。出渕の面目も丸つぶれとなった。何よりこれによって、日本という国家の信頼が著しく損なわれたに違いなかった。
さぞや外務省内も「犯人捜し」に大わらわとなっただろうと思いきや、そんなことはなかった。むしろこれは、外務本省という「確信犯」の仕業であったことすら明らかになる。その後も外務本省は、杜撰な情報管理と新聞への無責任なリークを繰り返し、出先の外交官たちを困らせる。
前述のように、この頃までの日米関係は決して安泰と言えるものではなく、鋭い刃先の上で揺れる「やじろべい」のようなものであった。事変は政府当局の望みも虚しく拡大の一途を辿る。日本政府の情報管理も当てにならない。長官は次第に出渕を信用しなくなり、日本政府を信用しなくなった。そして年が明けるや、いわゆる「スチムソン・ドクトリン」として知られる政策を突き付けるに至る。
「しかし日本軍が占領地を吉林まで拡大したというのでは、南満洲はほぼ全て日本の手に落ちたのと同じことになります。そうなれば、我が国の輿論は一段と緊張するでしょう」
長官は、悪さを働いた生徒を諭す教師のような口調で、婉曲に関東軍を非難した。これまで合衆国は沈黙を守り続けてきたが、いつまでもそうはいかないぞ――と言わんばかりであった。
「ただ、合衆国政府がここで何か公式な声明を発すれば、日本の輿論を刺激して累を貴国政府へ及ぼすことになるのは、日米外交の今後のためにも賢明ではありません」
もったいぶった言いまわし方で何か“心づもり”があるとばかりに匂わせたが、同時に寛容の心を持っていないでもないゾ--と、仄めかしもした。もし君が自ら反省し言動を慎むならば、これまでのことは無かったことにしないでもない――言外にそう言っている。出渕は一言も返さずに、一方的に諭されていた。
南満州の真ん中にある長春から遼東半島の先端へ向けて南北一直線に走る満鉄に加えて、長春からハルビンへ延長した支線を考慮すれば、吉林はその“わき腹”に位置する。奉天を起点に考えれば吉林はいかにも遠く見えるが、ハルビンを視野に入れて満洲を眺めると、純軍事的にみて吉林は是非とも押さえておきたい要所に当たる。第一次大戦へ志願したはずのスチムソン長官だったが、どうも極東の地政学には疎いようだった。
「実は……、出渕大使にお聞かせしたいと思い、ここにある種の書き付けを用意してきました」
散々もったいつけたが、やはり長官は“心づもり”を行動に移すようである。そして実際、背広の内ポケットから数枚の紙片を取り出した。
「先ほども申し上げた通り、貴国政府の立場や日本の国論については重々承知しているつもりです。従って、これから読み上げる内容は、出渕大使のご裁量によって適宜、貴国政府へお伝えいただきたいと希望します。ただこれは、決して米政府から公式に何かを申し入れるものではありませんので、その点にご注意を願います」
「忖度」――、とは何も日本的な腹芸ばかりを意味するものではない。こちら側の希望はこうだから、波風立てないよう内々にことを運んでくれ--。そういう訳である。
スチムソン長官の意図を反映したメモにはこうあった。
「事態の背景に踏み込むのはひとまず置いて、この四日間に発生した軍事衝突の拡大には驚きを隠せない。
今や日本軍は、実質的に南満洲全域を占領下に置いた。本件は単に日華両政府間の問題に終わらず、不戦条約や九カ国条約の意義を問うものとなった。
米政府は性急にある種の結論に至ったり、立場を明確にするものではないが、事態を非常に憂慮している。我々の懸念を伝えることが、日本政府を当惑させるものではないと信じる。南満州が実質的に日本軍のコントロール下にあるという意味合いにおいて、今後の事態をどの方向へ導くかの鍵を握るのは、主に日本側の責任にある。
米国政府は、両国がこれ以上軍隊による敵対行為を行わず、国際法や協定に則り友好的な手段によって紛争を解決するよう望む」
それで日本政府が出先の軍隊へ撤退命令を出し、軍隊がこれに従えば、国務省としては万々歳であったろう。もっともそれくらいだったら、はなから国際聯盟を煩わす必要もなかっただろうが……。
だが日本の外務省は、長官が「出渕大使のご裁量により」と断りを入れて伝えた「覚書」を新聞へ公表する。当然、新聞は「けしからん!」という論調でこれを大々的に報じ、国民は米国の態度に怒りの声を上げた。
まさかの展開に愕然としたのは当の本人であったことは想像に難くない。出渕の面目も丸つぶれとなった。何よりこれによって、日本という国家の信頼が著しく損なわれたに違いなかった。
さぞや外務省内も「犯人捜し」に大わらわとなっただろうと思いきや、そんなことはなかった。むしろこれは、外務本省という「確信犯」の仕業であったことすら明らかになる。その後も外務本省は、杜撰な情報管理と新聞への無責任なリークを繰り返し、出先の外交官たちを困らせる。
前述のように、この頃までの日米関係は決して安泰と言えるものではなく、鋭い刃先の上で揺れる「やじろべい」のようなものであった。事変は政府当局の望みも虚しく拡大の一途を辿る。日本政府の情報管理も当てにならない。長官は次第に出渕を信用しなくなり、日本政府を信用しなくなった。そして年が明けるや、いわゆる「スチムソン・ドクトリン」として知られる政策を突き付けるに至る。
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