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第六章(十月理事会)

第六章第二十九節(漏洩)

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                二十九

 ブリアン議長を前にあらん限りの虚勢を張った芳澤だが、聯盟を相手に“強面こわもて”を気取って見せた挙句あげく、振り返れば他の理事たちから総スカンを食らう羽目になった。イタリア代表も親日派のグランジ外相から原理主義のシャロイアに交代し、いまやジュネーブの反日感情はそのきわみに達したといえる。
 気が付けば、第三者を利用して自己に都合よい状態をつくるすべに長けた華人の思うツボに、自らはまり込んでしまった。

 形勢がこうなった以上、民国側が日本と直接交渉するなど望むべくもない。このまま撤兵の機会をいっしていたずらに世界の輿論を敵に回すのも面白くない。
 背に腹は替えられないと、幣原外相へ「五大綱第五項目」の内容にある程度の配慮を加えて欲しいと懇請こんせいした。
 
 片や沢田は十九日午後、ドラモンドを訪問してあらためて「大綱協定」の必要を説いた。
「まったく満州問題を巡る貴官らの態度は、これまで仕事を共にしてきた日本代表とは別人のようで、戸惑っています」
 事務総長は英国人らしいそつのない物腰に、辛らつな皮肉を添えた。
施肇基しちょうき博士は『もし聯盟が日本の主張をれて大綱協定を撤兵の条件とするならば、民国の国論は大騒ぎとなり、対日開戦の事態を引き起こすかもしれない』と訴えています。聯盟はそちら側の意もまねばなりません」
「まさか事務総長は日華が本当に戦争をするとでもお思いですか? 彼らが口で何を言おうとも、絶対に戦争が起こることはないと断言できます」

 沢田は先だっての吉田茂よしだしげる大使の言葉を借りて、華人はあらゆることを政争の具とするが、対外戦争を起こす気など毛頭ないと言って聞かせた。それでドラモンドの考えが幾分いくぶんなりともやわらげばと期待したが、事務総長はさらに厳しい表情で打ち明けた。
「南京あたりでは聯盟が日本への経済封鎖を実施するとの飛語流言ひごりゅうげんが飛び交っています。聯盟関係者としてそのような事実はないと保証しますが、言葉は独り歩きするものです。日本側も十分にお気を付けになったほうがいい」
 それではまるでマフィアのおどしではないか。側聞そくぶんするところでは、聯盟事務局情報部長のコメールが英仏海峡を行き来して、しきりに対日強硬論をあおっているという。南京のライヒマンといい、まさしく聯盟挙げてのマッチポンプである。

「ところで日本側の『大綱』ですが、他国の理事たちは『日本側は何かたくらんでいるに違いない』とあらぬ疑いを強めています。本職は日本の真意を存じているものの、いつまでもこれを伏せておくのはらぬ誤解を招くばかりで、決して懸命な策とは思えません」
 その点はすでに、ブリアン議長からも公表をせまられていた。沢田も芳澤も、早くおおやけにして日本の公正な立場をアピールすべきと願っている。幣原外相の渋る顔が目に浮かぶが、再度請訓してみると請け合った。

 それにしてもドラモンドがいつになくいらついているのが気に掛かった。冒頭から露骨に当てつけがましい態度を見せてくるなど、これまでちょっとなかった。きっと腹に何かくすぶるものがあるのだろう。沢田は「我々の間に少しでも“しこり”があってはいけないから、ぜひとも腹蔵ふくぞうなく聞かせてほしい」と誘いかけた。

 ドラモンドはしばし言いよどんだが、ふところから一枚の電報を取り出して沢田へ見せた。
 それは十九日発のロイター電で、日本政府の「スポークスマン」が発した声明に関する記事だった。そこには、「日本が三週間以内に撤兵するよう求める聯盟の要求には断じて応じない」とか、「撤兵に際して聯盟の監視員を立ち会わせることなど一切承諾しょうだくしない」など、いかにも腹に据えかねるといった口調の文言がつずられてあった。
 だが何よりそれらは十七日、ドラモンドが杉村公使へ示した、「総長の私案」への強烈な反論である。東京へ送る際、くれぐれも念を押したはずのものが、よりによって報道機関へ公然と、しかも非難声明のかたちで公表されたのだから、唖然あぜんとするしかない。

 沢田は穴があれば入りたかった。東京は一体、何ということをしでかしてくれたのか--。これでは外務当局が自ら外交を破壊したようなものではないか。祖国の存亡がかかる機微な局面で、あまりにも杜撰ずさんな行為と言わざるを得ない。

 ドラモンドはよほど憤慨したと見え、沢田に不満をぶつけた後も杉村公使を捕まえて重ねて遺憾の意を告げた。ところが、ことの次第を本省へ報告したにもかかわらず東京からは何の反応も帰ってこなかった。
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