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第七章嫩江(ノンコウ)
第七章第八節(新発田聯隊)
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八
話はやや遡って十一月一日--。
起床ラッパが静寂を破ったのは、明け方の午前三時のことだった。
吉林の街はまだ深い眠りの中にいた。演習か実戦か、どちらであっても不思議はない。
熙冾参謀長が行政権を握ってから吉林の治安は見る見る良くなったが、それでも鳳凰城や開原には時折、匪賊や馬賊と化した敗残兵たちが人里へ降りてきては強姦、略奪、放火をほしいままにしたり、列車を襲っては狼藉を働いた。
そのたびに数少ない関東軍が部隊を割いて西へ東へと鎮圧に駆り出された。冬へと向かうこの時期、冬籠りに備える匪賊の活動はいっそう活発化する気配があった。
長谷部千次の属する越後新発田の歩兵第十六聯隊が、満洲駐箚部隊となって旅順へ上陸したのは今年二月のこと。
総延長約一一四二キロにおよぶ満鉄線とその附属地の治安を守るのは、独立守備隊六個大隊の五千人と内地から二年ごとに交代で赴任してくる駐箚師団五千四百人の計一万四百人だ。
新発田第十六聯隊は同郷の高田第三十聯隊と同よう、仙台に本部を置く第二師団の隷下にある。第三十聯隊は会津の第二十九聯隊とともに旅順へ駐留し、仙台の第四聯隊は長春へ行った。そして新発田聯隊は師団本部とともに、奉天の南方約八十四キロにある遼陽へ駐屯した。
兵隊であることと戦争をすることは、直ちには結びつかない。独立守備隊も駐箚師団も、主な任務は沿線の治安を維持する警備活動である。前任の京都第十六師団もその前の宇都宮第十四師団も、時おり匪賊討伐に出動することはあったが、兵士の生死にかかわるような戦闘を経験することもなく、淡々と任務をこなして帰還していった。
千次の第十六聯隊が遼陽に駐屯して間もなく、満洲の情勢は急速に悪化した。それでも遼陽の空気は奉天ほどには険悪化せず、日華の正規軍が干戈を交えるなどリアリティに欠けた空想話の域を出なかった。
仮に戦争が起こったらどうするとかどうしないとかなど、千次の脳裏に浮かんだことはない。戦争になったどうするというのではなく、戦争はともかくやるしかないのだと、兵隊たちは信じていた。
だが現実味に乏しかったはずの正規軍どうしの武力衝突が、突如として現実のものとなった。
事変勃発とともに聯隊は北上を命ぜられ、奉天城の警備活動に任じた。そこへ国境を越えて朝鮮軍がやって来たので、新発田聯隊は玉突きのかたちで長春へと移動した。もともと長春にいた仙台第四聯隊は南嶺、鉄嶺の戦闘で多くの戦死傷者を出し、部隊の立て直し中だった。だが新発田聯隊に与えられた任務はこれへの補充ではなく、情勢の悪化が伝えられる吉林への転進であった。
吉林軍は精鋭をもって知られ、なおかつ省長の張作相は旧奉天派の重臣でもあり、そのお膝元は反日の総本山として知られていた。実際、満洲事変の引き金のひとつとなった萬宝山事件はここで起こっている。
それだけに吉林へと向かう軍用列車には緊張が走ったが、寸でのところで熙冾参謀長が無血開城を決意した。
話はやや遡って十一月一日--。
起床ラッパが静寂を破ったのは、明け方の午前三時のことだった。
吉林の街はまだ深い眠りの中にいた。演習か実戦か、どちらであっても不思議はない。
熙冾参謀長が行政権を握ってから吉林の治安は見る見る良くなったが、それでも鳳凰城や開原には時折、匪賊や馬賊と化した敗残兵たちが人里へ降りてきては強姦、略奪、放火をほしいままにしたり、列車を襲っては狼藉を働いた。
そのたびに数少ない関東軍が部隊を割いて西へ東へと鎮圧に駆り出された。冬へと向かうこの時期、冬籠りに備える匪賊の活動はいっそう活発化する気配があった。
長谷部千次の属する越後新発田の歩兵第十六聯隊が、満洲駐箚部隊となって旅順へ上陸したのは今年二月のこと。
総延長約一一四二キロにおよぶ満鉄線とその附属地の治安を守るのは、独立守備隊六個大隊の五千人と内地から二年ごとに交代で赴任してくる駐箚師団五千四百人の計一万四百人だ。
新発田第十六聯隊は同郷の高田第三十聯隊と同よう、仙台に本部を置く第二師団の隷下にある。第三十聯隊は会津の第二十九聯隊とともに旅順へ駐留し、仙台の第四聯隊は長春へ行った。そして新発田聯隊は師団本部とともに、奉天の南方約八十四キロにある遼陽へ駐屯した。
兵隊であることと戦争をすることは、直ちには結びつかない。独立守備隊も駐箚師団も、主な任務は沿線の治安を維持する警備活動である。前任の京都第十六師団もその前の宇都宮第十四師団も、時おり匪賊討伐に出動することはあったが、兵士の生死にかかわるような戦闘を経験することもなく、淡々と任務をこなして帰還していった。
千次の第十六聯隊が遼陽に駐屯して間もなく、満洲の情勢は急速に悪化した。それでも遼陽の空気は奉天ほどには険悪化せず、日華の正規軍が干戈を交えるなどリアリティに欠けた空想話の域を出なかった。
仮に戦争が起こったらどうするとかどうしないとかなど、千次の脳裏に浮かんだことはない。戦争になったどうするというのではなく、戦争はともかくやるしかないのだと、兵隊たちは信じていた。
だが現実味に乏しかったはずの正規軍どうしの武力衝突が、突如として現実のものとなった。
事変勃発とともに聯隊は北上を命ぜられ、奉天城の警備活動に任じた。そこへ国境を越えて朝鮮軍がやって来たので、新発田聯隊は玉突きのかたちで長春へと移動した。もともと長春にいた仙台第四聯隊は南嶺、鉄嶺の戦闘で多くの戦死傷者を出し、部隊の立て直し中だった。だが新発田聯隊に与えられた任務はこれへの補充ではなく、情勢の悪化が伝えられる吉林への転進であった。
吉林軍は精鋭をもって知られ、なおかつ省長の張作相は旧奉天派の重臣でもあり、そのお膝元は反日の総本山として知られていた。実際、満洲事変の引き金のひとつとなった萬宝山事件はここで起こっている。
それだけに吉林へと向かう軍用列車には緊張が走ったが、寸でのところで熙冾参謀長が無血開城を決意した。
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