343 / 466
第二部第十三章スチムソンドクトリン
第十三章第三十七節(予防措置)
しおりを挟む
三十七
さてすっかり忘れられてしまっただろうが、ここまでの長々とした話はすべて、「スチムソン・ドクトリン」につながる「ブライアンの覚書」を説明するための文章である。
だから本題は、肝心の「覚書」だ。
日本政府が最後通牒を発するに際して第五号の希望事項をすべて撤回したのは、欧米諸国から等しく賞賛をもって迎えられた。井上勝之助大使が危惧した英国輿論もすっかり論調を変え、『クロニクル』紙などは「同盟国に対する不義理を理由に日本を攻撃する向きもあるが、これらには何ら根拠がない」と論じた。
この間のヨーロッパ人たちの心情をうまく綴ったのが、『イヴニング・スタンダード』紙に載せられた次の文章だ。
「もし日本が欧州戦争の時機を利用してあくまで侵略的かつ強硬な態度を示したならば、時局は恐らく非常なる戦禍を見ることとなったろう。だが幸いにしてそのようなことは起こらなかった」
また『クロニクル』紙は「日華交渉は東洋風の外交に沿って双方が“掛け値”を用いた押し問答の末に結局、『最後通牒』を見てようやく決着した。(日本の)要求内容は在米ドイツ派新聞と北京によって(中略)甚だしく誇大に吹聴された」と交渉を振り返った。
グレー外相は五月十日、井上大使に向けて「今回の最終提案は、日本国の寛大さと節度(moderation)を一般に印象付け、日本国の威信(prestige)を高めた」と花向けの言葉を贈った。
この頃のアメリカの新聞は「ルシタニア号事件」で持ちきりだったため、極東の件はわずかに『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』紙が「日華間の妥協は大陸における日本の地位を、同国に対してよりむしろ他国に対して強く印象付けた」と書いた。同紙は交渉において膠州湾還付を約束した点を高く評価し、「(この交渉が)中華民国の独立もしくは領土保全を侵犯すると言うのは、事実とほど遠いと言わざるを得ない」と論じた。
自国の新聞論調とは相反して五月十三日、東京の米国代理大使が加藤外相を訪ね、ブライアン国務長官の「口上書」を差し出した。そこにはこうあった。
「米国政府は大日本帝国政府へ以下のことを通知する栄誉に浴するものである。曰く、合衆国政府はアメリカおよびアメリカ人が中華民国において有する政治上、領土保全上、また『門戸開放』政策として国際間に定着している条約上の権利を侵害するようないかなる合意事項をも承認することはできない」
これが件の「ブライアンの覚書」である。
あたかも祭りの後の“最後っ屁”のような 「捨て台詞」に、加藤高明外相は不快の色を隠さなかった。即座に代理大使へ「今さらかくの如きを申し入れられる米国政府の動機はいかなるものか?」と尋ねたが、返ってきた答えは「真意は分かり兼ねるものの、単に記録に留めんとしたのではないでしょうか」というものだった。
しかし、いやしくも主権国家へ向けた申し入れである。ただ聞き流す訳にもいかないから、ワシントンの珍田大使へ命じて国務長官本人へ真意を尋ねさせた。
ところがこちらも「将来に対する『予防措置』に過ぎません」と、これまた不得要領の返答しか得られなかった。
加藤外相は、あるいは英米法ではそのような予防措置が必要なのかも知れないと思い、グリーン英大使に聞いてみた。すると英大使も、「今にいたってそんな申し入れなど、まったく解し難い」と首を傾げた。
さてすっかり忘れられてしまっただろうが、ここまでの長々とした話はすべて、「スチムソン・ドクトリン」につながる「ブライアンの覚書」を説明するための文章である。
だから本題は、肝心の「覚書」だ。
日本政府が最後通牒を発するに際して第五号の希望事項をすべて撤回したのは、欧米諸国から等しく賞賛をもって迎えられた。井上勝之助大使が危惧した英国輿論もすっかり論調を変え、『クロニクル』紙などは「同盟国に対する不義理を理由に日本を攻撃する向きもあるが、これらには何ら根拠がない」と論じた。
この間のヨーロッパ人たちの心情をうまく綴ったのが、『イヴニング・スタンダード』紙に載せられた次の文章だ。
「もし日本が欧州戦争の時機を利用してあくまで侵略的かつ強硬な態度を示したならば、時局は恐らく非常なる戦禍を見ることとなったろう。だが幸いにしてそのようなことは起こらなかった」
また『クロニクル』紙は「日華交渉は東洋風の外交に沿って双方が“掛け値”を用いた押し問答の末に結局、『最後通牒』を見てようやく決着した。(日本の)要求内容は在米ドイツ派新聞と北京によって(中略)甚だしく誇大に吹聴された」と交渉を振り返った。
グレー外相は五月十日、井上大使に向けて「今回の最終提案は、日本国の寛大さと節度(moderation)を一般に印象付け、日本国の威信(prestige)を高めた」と花向けの言葉を贈った。
この頃のアメリカの新聞は「ルシタニア号事件」で持ちきりだったため、極東の件はわずかに『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』紙が「日華間の妥協は大陸における日本の地位を、同国に対してよりむしろ他国に対して強く印象付けた」と書いた。同紙は交渉において膠州湾還付を約束した点を高く評価し、「(この交渉が)中華民国の独立もしくは領土保全を侵犯すると言うのは、事実とほど遠いと言わざるを得ない」と論じた。
自国の新聞論調とは相反して五月十三日、東京の米国代理大使が加藤外相を訪ね、ブライアン国務長官の「口上書」を差し出した。そこにはこうあった。
「米国政府は大日本帝国政府へ以下のことを通知する栄誉に浴するものである。曰く、合衆国政府はアメリカおよびアメリカ人が中華民国において有する政治上、領土保全上、また『門戸開放』政策として国際間に定着している条約上の権利を侵害するようないかなる合意事項をも承認することはできない」
これが件の「ブライアンの覚書」である。
あたかも祭りの後の“最後っ屁”のような 「捨て台詞」に、加藤高明外相は不快の色を隠さなかった。即座に代理大使へ「今さらかくの如きを申し入れられる米国政府の動機はいかなるものか?」と尋ねたが、返ってきた答えは「真意は分かり兼ねるものの、単に記録に留めんとしたのではないでしょうか」というものだった。
しかし、いやしくも主権国家へ向けた申し入れである。ただ聞き流す訳にもいかないから、ワシントンの珍田大使へ命じて国務長官本人へ真意を尋ねさせた。
ところがこちらも「将来に対する『予防措置』に過ぎません」と、これまた不得要領の返答しか得られなかった。
加藤外相は、あるいは英米法ではそのような予防措置が必要なのかも知れないと思い、グリーン英大使に聞いてみた。すると英大使も、「今にいたってそんな申し入れなど、まったく解し難い」と首を傾げた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
電子の帝国
Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか
明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる