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第十五章リース=ロスの幣制改革

第十五章第三十三節(踏み絵)

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                三十三
 
 この年の四月、天津にある華人資本の紡績会社が倒産した。すると連鎖的に上海の紡績会社も経営難に陥り、その救済が問題となった。
 民族資本を保護したいのはやまやまだが、世界最大のイギリス紡績業界を沈黙させた日本の紡績業である。自助努力のみでどうなるものとも思えない。そこで民国政府が補助を与えるか、外国の支援を受けるかが政治課題となった。

 本章で縷々るる述べてきたように、南京政府は極度の財政難に直面している。しかも幸い、足許の日華関係は従来の“敵対”ではなく“友好”の状態にある。そこで綿紡績を日華合弁事業としてはどうかとう案が持ち上がった。
 この時期、つまり「廣田外交」は揚子江方面を中心とした“日華親善”と華北方面における“反日”の継続と言うよじれた政治環境の下で、借款問題と銀の流出防止、通貨の改定、綿紡績の合弁化という諸々の経済的課題に取り組まねばならなかった。

「先般、孔祥熙こうしょうき部長が小職の許へ来られて、『折り入って相談がある』とおっしゃるのです……」
 外交部の唐有壬とうゆうじん次長が七月二十二日、南京の須磨弥吉郎すまやきちろう総領事へこっそり耳打ちをした。
 孔祥熙や宋子文そうしぶんの振る舞いは、政府中央のコンセンサスも取り付けずに独断専行が甚だしい。それを汪兆銘おうちょうめい委員長や外交部が事後報告するかたちで“既成事実化”しようとしている嫌いがないでもない。

「ほう、それはまたどのようなご相談で?」
 いつまでも煮え切らない日本の態度にいよいよしびれを切らせたか--。須磨はその先を促した。
「それが、『もし財政部が外国から借款を受かるか、通貨改定に関して援助を受けた場合、日本はどのような態度にでるだろうか?』というのです」--。
 唐次長の言う「外国」が英国を指しているのは間違いなかろう。孔や宋がロンドンと何らかのはかりごとを進めてことくらいは薄々感づいている。問題は英国が何故こうもことを急ぐのか--である。先ずは南京政府中央の態度が知りたい。

「日本政府の態度の前に、貴国政府はどのようにお考えなのですか?」
 南京政府内が孔や宋の“欧米派”と唐や汪の“親日派”で割れていることを知りつつ、敢えてどちらへなびくのか、踏み絵をさせてみた。唐は無難にそれをかわすべく、こう答えた。
「日華の関係には依然として“機微”なるものがあります。『この種の問題への対応如何によっては、再び関係悪化を招く恐れがあるから、くれぐれも細心の注意が必要だ』とクギを刺しておきました」

 須磨は内心厄介なことになったなと思った。唐有壬の言う通り、孔や宋の先走りがまかり通れば日華の関係悪化は請け合いだ。そればかりか、日英関係も崩壊するだろう。
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