赤い部屋

山根利広

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第1章 血液の渦

8/14 18:37



 ガスコンロの青い炎が、ひとつの円を描く。ややあって、その上に乗せられたステンレスの鍋の蓋がコトコトと音を立て、蒸気が上がる。

 天根あまね舞子まいこは、鍋の蓋を開け、まな板に乗った白菜を流すように入れた。再び鍋の蓋を閉める。

「あの子……」

 そうこぼすと、小さなため息をついた。ポケットから電子煙草を取り出し、新しいスティックをホルダーに差し込む。吐息に紫煙を乗せ、シンクの上部にくゆらせる。靄のような煙は、しかし長く残存せず、霧消してしまう。

 舞子はリビングのスライドドアを、わざと音を立てるように開けた。

「ご飯! 早く来なさい!」

 そしてもう一度、ぴしゃんと音を立てて閉める。

 じっとりした熱い空気が立ちこめる廊下の上から、凛花が階段を駆け下りる。

 ドアを開けてそそくさとリビングに入り込む凛花に、舞子は煙草片手に冷ややかな目をむける。
「ごめんごめんお母さん、ちょっと集中してて」

「言い訳はいい」

 舞子は煙をもう一度吸い込んで、吐き出しながら、

「ご飯の時間になったら、呼ばなくても来ればいいのに」

「あ」凛花は、母が機嫌を損ねているのを推しはかるように、「ごめんなさい。次からは、ちゃんとする」

「あんたはいっつも、おんなじこと言って。ご飯も作らないくせに」

 再三煙を吸い吐きしながら言う。しかしそれではどうもならないことを悟って、舞子はコンロの火をとめてテーブルの上にどっかと鍋を置いた。

「ご飯、ついでくれる」

「あ、うん」

 ふたり分の白飯と取り皿を用意した凛花は、ついでに冷蔵庫から麦茶を取り出した。

「わたし、ビール」

 舞子は冷蔵庫の奥にある缶を一本取り出し、リモコンでテレビをつける。

「じゃあ、いただきます」

「どうぞ」

 プシュ、と缶のプルタブが起きる音がした。テレビのチャンネルが5秒ごとに変わり、やがてバラエティ番組に落ち着いた。流行りの芸能人とオーディエンスがゲラゲラ笑っている。

「今日は面白くなさそうね」

 そう言って煙草を吸い続ける母を横目に、凛花は杓子で豆腐と鶏肉を掬って、取り皿に流し入れた。

「たまにはニュースとか、見たら?」

「そんなのはスマホで十分よ。偉い人が揉めてるか事件が起きてるかのどっちかでしょ、くだらない」

「そっか、……」

 凛花はしばし沈黙したのち、豆腐を箸で細かくして口に運んだ。

「凛花」舞子は頬杖をついてテレビ画面を見たまま言った。「あんたがニュース見たいなら、チャンネル変えていいよ」

「えー、ほんとに」凛花は無機的な声を発した。舞子がリモコンを差し出してきたので、それを手に取ってチャンネルを変える。

「ハッ。嬉しくなさそうね」

「う、ううん。そうでもないよ」

 凛花はにこっと笑って誤魔化した。

「——ということが閣議決定され、政府は明日にも改正法に基づく新しい指標を提示する方針で……」

 せっかくニュースを見ているのだから、と、凛花は鍋の具を口に運びながら、できるだけ画面を見ていた。

「こんなの面白くない」そう言ってビールをあおる舞子。

「まあ、大半はそうかもね……」凛花は弱々しい声でそう言った。

「——次のニュースです。きょう朝、茨城県のアパートで、20代の男性が変死しているのが発見されました」

 舞子はおかずの一部であるかのように、煙草のスティックに口をつけ、

「最近多いわね、こういうの」うんざりするように煙を吐く。同意を求めるように凛花をちらと見るが、凛花がニュースに見入っているのを察して、もう一度煙を吸い込む。

 スタジオの映像が、「立入禁止」の黄色いテープが張り巡らされたアパートの映像に変わった。マイクを手にしたリポーターが、ライトに照らしつけられている。

「こちら、水戸市の私営アパートです。このアパートの住人が『上階から血液のようなものが落ちてくる』と警察に通報し、駆けつけた警官の捜査によって3階に住んでいた男性が死んでいるのが発見されたということです」

 次いで、昼間に撮影されたと思われる映像に切り替わる。防護服を着た救急隊員と思しき人影が、せわしなくアパートの内外を行き来している。

「警察によりますと、亡くなったのは水戸市内の会社に勤める秋野行さん、26歳とみられています。遺体の状態から判別した限り、死亡推定時刻は午前0時ごろ、他殺だと推定されていますが、まだ犯人が侵入した痕跡などがまったく見えず、捜査は難航しているようです。警察は、不安を募らせる近隣の住民に対し、不要な外出は控え、戸締りをしっかりするよう呼びかけているということです」

 ふたたびスタジオのニュースキャスターが映る。

「明日は終戦記念日です。終戦80周年の節目となる今年、各地で鎮魂の催しが開かれる予定ですが、いま、若い世代が主導となり、新しい平和への祈りを捧げる動きが、注目を集めています——」

 舞子はビールを口に含んでゆっくり嚥下すると、テレビに釘付けになった凛花に「ねえ」と声をかけた。

「こんなシケたニュース、どこが面白いわけ」

 凛花は丸くなったままのまなこを舞子に向ける。一瞬目が合ってしまう。舞子はきまり悪そうな笑い声を立てた。

「怖くなった? 小学生じゃあるまいし」

「う、ううん」

 凛花の心は、不穏なざわめきを立てていた。


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