終わりの町で鬼と踊れ

御桜真

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第三章

【1】 少女に暗転する牙 1

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 夕闇の薄暗い部屋の中で、肩に食い込む手。
 あたしは骨が折れそうなほどの力で、床に押さえつけられていた。どれだけもがいても、少しも動けなかった。

 圧倒的な力に蹂躙される恐怖。

 見下ろしてくる男と目が合う。ゼエゼエと息をしながら、そいつは青白い顔であたしを見ていた。
 開けた口から鋭い犬歯がのぞく。

 時折あの恐怖が蘇る。

 ※

 榛真《はるま》がバイクをふかすと同時、黒煙がふきあげて、あたしとにらみ合っていた吸血鬼が思わずのようにパドルを離した。

 あたしはその隙に腰をおとし、両手でパドルを握り直す。くるりとその場で回って、思い切り振り回した。
 パドルの平たい部分が男の肩にヒットして、重い手応えがずしりとくる。そのまま振り抜くと、男は数メートル吹き飛んでひっくり返った。

 起き上がってくる前に、あたしは捕まっている亨悟の方をへ顔を向ける。亨悟は泣きそうな顔であたしを見ていた。
 あたしが駆け出すと同時、爆音が鳴り響いた。

「お前らはさっさと行け!」
 叫ぶ声がする。
 思わず足を止めて見遣ると、亨悟が「和基さん」と呼んでいた男の乗る車のマフラーから煙を上げ、エンジンを空吹かししていた。黒煙と轟音が木の葉を揺らす。

 周りに残っていたヤクザ達が、戸惑った声を上げる。
 バイクに乗った者、蒸気トラクターに乗った者、もう数は多くない。

「奴らを狩るんでしょう!?」
 吸血鬼へ向けて銃を撃ちながら、地面にタイヤ痕を残しながらバイクを空ぶかし、ヤクザの一人が怒鳴った。

「違うだろ。お前らの役目は何だ、物資を持ち帰ることだろう!」
 和基は窓から顔を出し、拳銃を構えている。

「行け!」
 黒煙をあげる車が、亨悟の方へ向かう。
 同時に、残っていたヤクザ達が、反対方向へとトラクターとバイクを走らせた。吸血鬼達は、逃げた者を追わなかった。

 オートマチックの拳銃が、亨悟を掴まえている吸血鬼を狙う。だがあんなの、亨悟に当たるんじゃないのか――

「しつこいなあ」
 あきれた声が上がった。

 いつの間にか、車の近くに黒いコートの少年が立っている。
 さっき突進してきた車を素手で止めた少年は、走る車を今度は横から蹴飛ばした。

 車は自身のスピードと横からの衝撃で弾き飛ばされて、横転した。そのまま滑ってケヤキに激突して、ひっくり返る。

「和基さん!」
 亨悟がわめいた。

 シルエットのきれいな黒いケープコートの上から、グレーのチェックのストールをかぶった少年は、ひらひらと裾をなびかせて、ゆっくりと車に近づく。

 バキバキに割れた窓ガラスと、ひしゃげたフレームの中から、窮屈そうに、這いずるようにして大柄な男が出てくる。

「和基さん、逃げてくれ!」
「弟分を残して逃げられるか」
 男は、頭と口から血を垂らしながら、はっきりと言った。

 轟音でトラクターやバイクを乗り回して、町を荒らして回って、人の睡眠の邪魔をして、人を追い回して、イライラさせられたヤクザども。
 だが、このままだと。

「俺は、あんたたちを捨てたんだ、あんたがそこまでする必要ない!」
 どれだけ亨悟がもがいても、捕らえた吸血鬼の手はびくともしない。

「うるさいなあ」
 拳銃を手に握ったまま、地面に四つん這いになって、車から出てきた男の横に少年が立っている。
 生まれてから日に当たったことなどないような白い頬をほころばせて、少年は微笑んだ。歌うように言った。

「ほんとに下品で嫌になるよ」
 その声の不穏さに、あたしは思わず走り出していた。
 ヤクザなんか、助ける理由がない。この地の荒廃の一因でしかない奴らだ。
 だけど――見過ごせない。

 でも、間に合わなかった。
 和基はなんとか拳銃を握った手をあげる。 
 力が入らずぐらぐらと揺れる腕を、少年は爪先で蹴飛ばした。拳銃が和基の手から飛んで、でこぼこのアスファルトに落ちる。

 少年は掲げられたままの和基の腕を捕らえると、反対の手で後頭部を掴んだ。
 そのまま少年の細腕は、大柄な和基の頭を地面に叩きつけた。

 ごん、と鈍い音が響き渡る。血が地面に広がる。
 男はもがくが、背中を膝で踏みつける少年はびくともしない。

「やめろやめろやめろ!」
 亨悟の叫び声が響き渡る。少年はチラリと亨悟を見て笑う。
 そして、男の首に噛みついた。

 ――ぞくりと、心臓が嫌な音をたてる。

 辺りにあふれかえる血の臭い。
 空っぽの胃がムカムカする。
 血を欲する飢餓感と同時に、あの日の絶望が頭を覆った。
 人を害したい衝動と、害される事への恐怖と、相反する衝動に頭がぐちゃぐちゃになる。

 攻撃的な興奮にまみれて、脳の奥底から湧き上がってくる、あの日の恐怖――肩を押さえつける手、常軌を逸した目。
 あの、獲物を見る目。

「うわあああああ!」
 あたしは叫びながら、少年の頭にパドルを振り下ろす。

 少年は素早く顔を上げて、あたしのパドルを掴む。
 唇を血で真っ赤にした少年の、眼鏡の奥の目があたしを見た。ほの暗い、感情のわからない黒い瞳。

 ゾッとした。
 あどけなさを装った少年の中の闇が見える。思わず少年の肩を蹴飛ばし、後ろに下がる。

「あっはははは」
 血まみれの唇で、少年は高笑いをあげる。
「新鮮な血はおいしいなあ」

 ゆらりと身を起こして、少年は黒い前髪の間から、あたしを見た。
 そして、足元に転がる男を見る。
 起き上がってくるのか、そのまま死ぬのか、うかがっているようだった。

 吸血鬼に噛まれると、死のウイルスに感染する。そのまま、大抵のものは死ぬ。高熱を出して、そのまま眠りに落ちて死ぬ。
 だがまれに、眠りから覚める者がいる。抗体があるせいなのか、よくわからないけれど。
 ――そうやって生まれ変わる。
 人を害するものに。

 かふ、かふ、と男の喉から、空気の漏れるような声がする。
 ビクビクと手足が痙攣している。どうなるかは、すぐは分からない。
 だけども、あれは多分違う。

 あのまま死ぬ。

 亨悟の声が、細くなってうめき声になった。
 少年は手の甲で赤い口の周りを拭う。それから、ストールを見て、唇を尖らせる。

「汚れちゃった」
 まるでイタズラをした子供のように言った。

 辺りに轟いていた蒸気トラクターの爆音も、男達の怒声も消えて、いつの間にか辺りは静まりかえっていた。
 どんよりとした雲の下、ざわざわと葉鳴りがさざなみのように聞こえる。

 血だまりに倒れたヤクザたちが、うめき声を上げる者も、動かない者も、吸血鬼達に引きずられていく。
 まわりを取り囲む吸血鬼達を無視して、あたしは目の前の少年をただ睨みつけていた。パドルを構え直す。

 何とか亨悟だけでも助ける。
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