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第三章
【1】 少女に暗転する牙 3
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人間の少年と、吸血鬼の少女を乗せた馬の後ろを、あたしと亨悟は歩いてついて行く。
亨悟はどんな目にあったのか、顔を腫れあがらせて、あちこち血だらけで、つらそうだった。時折悪態をつきながら歩いている。
担いでやろうかと言ったが、さすがにやめとく、と断られた。
あたしと亨悟を後ろから見張るために、吸血鬼がひとりその後ろを歩く。亨悟を捕まえていた男だ。
少しも行かないうちに大きなビルと、地下へ続く道があったが、馬は無視して進み続けた。
あたしの後ろの吸血鬼が声を上げる。
「地下鉄は通らないのか」
「馬鹿ね、馬が恐がるじゃない」
少年の腕から顔をのぞかせて、少女は笑った。
地下鉄を無視して道を進み、川を越えてまた大きな道を曲がる。
向かう先には大きな山がそびえていた。昨日通りかかった海辺とは随分と雰囲気が違う。
天神付近とも雰囲気が違う。
あたりは住宅街で、時折マンション群があるが、大きなビルのようなものはない。
彼らは、その中でひときわ大きな建物へ向かっているようだった。ロータリーのある広い敷地へ入っていく。
『福岡大学病院』と書かれた建物だった。ガラス張りで元は日当たりのいい建物だったのだろうが、今はカーテンがいくつもぶらさげられて、中の様子が見えない。
少年はまず自分が馬を降りてから、杏樹を抱えて丁寧に地面に下ろす。
そして、馬を連れてどこかへ行ってしまった。
通用口らしきところから中に入ると、曇り空の上に日を遮られた室内は薄暗い。
だが天井が高くがらんとしたロビーはゴミもなく、とても清潔そうに見えた。
受付のカウンターの近くには植木や水槽が置かれている。
広々とした待合のソファーに座っていた子供達が、あたしたちを見つけて声を上げた。
「お疲れ様、もう帰っていいわよ。見張りなんてめんどうなことしたくないでしょ」
建物の中に入ってから、杏樹はサングラスをはずした。あどけない少女の顔であたしたちを見張っていた吸血鬼に言うと、男は舌打ち一つ、杏樹を睨みつけてから建物の奥へ行く。
階段を降りていくところを見ると、地下からどこかへ行けるようだった。
「杏樹! お帰り!」
子供たちがワッと駆けてくる。
「どこ行ってたの? 何かお土産ある?」
近くにいる大人達は、思い思いに座って、おしゃべりをしている。子供達が吸血鬼に近づいたって、少しも気にした様子がない。
――何より、人間も吸血鬼も、見た目は同じだ。
こうして建物の中で、日を遮った場所にいると、少しも違いが分からない。
そもそもここにいる人達が人間なのか、吸血鬼なのか、混じっているのかすら。
奇妙な感覚だった。
今までこんなことなかった。
人間はいつも窮屈に隠れて生きていて、吸血鬼はいつも日を恐れて影に隠れて生きている。
どちらもこの荒廃した世界で、縮こまって憎み合って生きている。――そのはずだった。
子供達に囲まれた、フリルでいっぱいの洋服を着た人形のような少女は、絵本の中の慈愛の姫君のようだった。
「あの人達、だれ?」
子供の一人が、あたしと亨悟を指さす。隣で亨悟がビクリと肩を震わせた。
杏樹は、ふふふと、小さく笑う。
「あの人達、怪我してるから手当してあげないといけないの、また後で紹介してあげるわ」
えー、と上がる声に手を振って、杏樹は近くに立っていた大人に言う。
室内でもフードをかぶっている所を見ると、吸血鬼なのかも知れない。――多分。
「空いてる部屋あったわよね。できれば隣同士に二部屋あるとこがいいんだけど」
「五階にあるよ」
「ありがと」
そして少女はあたしたちを振り返ると、意地悪く笑った。
「ですって。ついてきて」
連れてこられたのは、入院用の個室のようだった。
暗い色のカーテンがきっちりと閉められていて、部屋の中は暗い。だが無機質な部屋のベッドのシーツは古いが洗われてきれいに整えられている。
「こっちの建物は主に居住に使ってるわ。近くの大学のグラウンドとかで農作物を作ったり、家畜を飼ったりしてるの。ため池もあるし、そこから水も引けるようになってる」
あたしが住んでいたところよりも、随分と居心地が良くて、住みやすそうに見える。
管理されているのでなければ。
「人間を飼ってるのか?」
「まあ、見方によってはそうかもね」
――飼っている。という言葉がよく分からなくなる。
下にいた子供達や、大人達――誰が人間か吸血鬼かも分からないが、あの態度を見れば、共存をしているように見える。
「なんで助けた」
あたしの問いに、少女はおかしそうに高く笑った。
「やーね。助けてなんかないわよ。人手がいるのは本当だもの。どこだってそうでしょ、これだけ生きてる者が減れば。体力があって健康な若い男なんて、血のもらいがいがあるし、働かせがいもあるわ。あんたも、それだけ元気に吸血鬼もヤクザもぶちのめすような元気があるなんて、使い出がありそうじゃない」
それから意地悪く亨悟に笑う。
「ねえ亨悟。あんたを捕まえられて楽しいわ。榛真と一緒にうろうろうろうろ、目障りだったもの。あんたは榛真ほど馬鹿じゃないから、こっちに余計なことしてくるわけでもないし、放っておいたけど」
――なんだ。
「知り合いなのか」
「顔見知りだよ」
亨悟は腫れ上がった顔を痛そうにしかめた。
「こいつら、ここのガーディアンなんだけど、たまに人間狩りにうろついてるんだよ。俺たちが食料探しにうろついてるとたまに遭遇するんだ」
「人間狩りなんかやらないわよ。そんなめんどうなこと。あたしは、ここを守るために周囲に異変がないか探ってるだけ。その時に人間を見つけたら連れ帰ることもあるわ。あんたたちが勝手に敵視して刃向かってくるんでしょ」
「榛真は吸血鬼と見たら攻撃せずにいられない奴だから。俺だって面倒は嫌いだし、集団も嫌いだし、あんたらに関わりたくもねーよ」
「でしょうね」
肩をすくめた少女の後ろから、背の高い少年が姿を見せた。シャツの上から防弾チョッキのようなものを着たままだが、弓は持っていない。
かわりに、木の箱を持っている。
「あいつは杏樹も俺も目の敵にしてる。放っておくと何するか分からない。さっさと殺すべきだ」
「物騒ねえ、史仁」
杏樹はくすくすと無邪気に笑う。
「手当してやるから、さっさと来い」
史仁と呼ばれた少年は、居丈高に言った。
亨悟の腕をひっつかんで、個室の洗面台のところにいくと、史仁はペットボトルにつめた水で亨悟の傷口を洗う。
亨悟が大げさに「いたいたい」とわめいて叱責されていた。
怒られてしょぼくれた亨悟をベッドに座らせて、史仁は箱の中から小さく切った布や包帯を取り出す。
亨悟はあちこちに切り傷や擦り傷をこさえた他に、やけどの跡のようなものまでつけていた。
「俺、ただでさえ出血してんのに、血抜かれたら死ぬんじゃないかな」
「今言うか、それを」
手当てをしている史仁が憮然とした顔で言う。そのまま、亨悟の傷口に消毒のアルコールをぶっかけた。
亨悟がいてえええと大声を上げて、うるさい、と史仁が一喝する。
「別に今すぐ取って食ったりしないわよ。死んじゃったら元も子もないじゃない。馬鹿ねえ」
杏樹は近くにあった椅子に座って、頬杖をつきながら呆れた声をだした。
「逃げるにしても、もうちょっと回復してからにしたらどう? 別にいたくない人はいなくていいのよ、集団を乱す者は邪魔だもの」
「そんなこと言って、逃げるそぶり見せたら殺すんだろ。殺す理由がほしいだけだろ」
声を上げる亨悟に、少女はすまして言う。
「他の人を巻き込んだら殺すわ。殺す理由なんか必要ないわよ。もともとここにいる人間なら必要だけど、あんたなんか殺すのに必要ないわよ、別に」
人間を飼っていると言うのなら、食料に逃げられるのは困るんじゃないのか。
「出て行きたい者は出て行っていいのか」
ドアの横に立ったままあたしが言うと、杏樹は首を傾けて無邪気に笑った。
「いいけど、外で会ったら殺すかもね。もうわたしたちの庇護下にないんだから。面倒を起こしたくないし、人間達の反乱の元になるから、ここにいるわたしたちは、あんたたちを傷つけたりしないわ。でもよその奴らは道理が通じるとは限らないわよ。博登《ひろと》みたいなどうしようもないのとか」
「博登って」
「けやき通りで会ったでしょ。あいつ、あんたのこと嫌ってるみたいだから、気をつけたら。あんた、あいつの仲間をだいぶやったみたいだし」
あの黒いコートの少年か。
「あいつは、崩壊前に感染して吸血鬼になったらしいの。世界が便利だった頃も、人間が感染者たちを迫害し始めた頃も知ってるし、自分自身も糾弾されたことがあるはず。人間が大嫌いなのよ」
感染症が明らかになって、世界中で起きている事が彼らの仕業――彼らのうち、暴走した者たちのしわざだと明らかになって、感染者も疑いのある人も、糾弾された。
「まあ、あんたの場合は、姉を殺したからっていうのもあるけど」
杏樹はおかしそうに笑った。それから、ひょいとベッドを降りて、あたしのところへ歩いてくる。
「亨悟の食事は、レストラン跡でもらえるわ。地下のカフェは吸血鬼《わたしたち》用だから近づかない方がいい。地下鉄で天神と通じてるから、別の縄張りの奴らも来るのよ。あんたは、血がほしかったらあげるわよ。そのかわり働いてもらうけど」
さっきあたしたちと来た吸血鬼が地下に降りていったのは、地下鉄の駅があるからか。そこをよそとの行き来に使用しているんだろう。
そんなところは吸血鬼しかうろつかない。
「わたしたち、人間を飼ってるって言っても、人間の数だってそんなに多くないわ。一人からそんなにいつもたくさん血をもらうことはできないから、少しずつわけあってのんでるの。それから人間が食べる家畜から血を抜くときにもらったりもする。あたしたちが噛みついたら食べられなくなるから」
入り口で杏樹はくるりとまわって、あたしたちを見る。フリルでいっぱいのスカートがふわりと広がった。
「わたしだって、むやみやたらに人を殺したいとは思ってないのよ。もともと人間だったんだから」
「今だって人間だ。――血が必要なだけの」
史仁は表情を変えずに言った。亨悟の腕にぐるぐると包帯を巻きながら。
杏樹はまた肩をすくめる。
「あんたは隣の部屋。ここの人達に危害さえ加えなければ、好きにうろついていいわよ。赤ずきんちゃん」
亨悟はどんな目にあったのか、顔を腫れあがらせて、あちこち血だらけで、つらそうだった。時折悪態をつきながら歩いている。
担いでやろうかと言ったが、さすがにやめとく、と断られた。
あたしと亨悟を後ろから見張るために、吸血鬼がひとりその後ろを歩く。亨悟を捕まえていた男だ。
少しも行かないうちに大きなビルと、地下へ続く道があったが、馬は無視して進み続けた。
あたしの後ろの吸血鬼が声を上げる。
「地下鉄は通らないのか」
「馬鹿ね、馬が恐がるじゃない」
少年の腕から顔をのぞかせて、少女は笑った。
地下鉄を無視して道を進み、川を越えてまた大きな道を曲がる。
向かう先には大きな山がそびえていた。昨日通りかかった海辺とは随分と雰囲気が違う。
天神付近とも雰囲気が違う。
あたりは住宅街で、時折マンション群があるが、大きなビルのようなものはない。
彼らは、その中でひときわ大きな建物へ向かっているようだった。ロータリーのある広い敷地へ入っていく。
『福岡大学病院』と書かれた建物だった。ガラス張りで元は日当たりのいい建物だったのだろうが、今はカーテンがいくつもぶらさげられて、中の様子が見えない。
少年はまず自分が馬を降りてから、杏樹を抱えて丁寧に地面に下ろす。
そして、馬を連れてどこかへ行ってしまった。
通用口らしきところから中に入ると、曇り空の上に日を遮られた室内は薄暗い。
だが天井が高くがらんとしたロビーはゴミもなく、とても清潔そうに見えた。
受付のカウンターの近くには植木や水槽が置かれている。
広々とした待合のソファーに座っていた子供達が、あたしたちを見つけて声を上げた。
「お疲れ様、もう帰っていいわよ。見張りなんてめんどうなことしたくないでしょ」
建物の中に入ってから、杏樹はサングラスをはずした。あどけない少女の顔であたしたちを見張っていた吸血鬼に言うと、男は舌打ち一つ、杏樹を睨みつけてから建物の奥へ行く。
階段を降りていくところを見ると、地下からどこかへ行けるようだった。
「杏樹! お帰り!」
子供たちがワッと駆けてくる。
「どこ行ってたの? 何かお土産ある?」
近くにいる大人達は、思い思いに座って、おしゃべりをしている。子供達が吸血鬼に近づいたって、少しも気にした様子がない。
――何より、人間も吸血鬼も、見た目は同じだ。
こうして建物の中で、日を遮った場所にいると、少しも違いが分からない。
そもそもここにいる人達が人間なのか、吸血鬼なのか、混じっているのかすら。
奇妙な感覚だった。
今までこんなことなかった。
人間はいつも窮屈に隠れて生きていて、吸血鬼はいつも日を恐れて影に隠れて生きている。
どちらもこの荒廃した世界で、縮こまって憎み合って生きている。――そのはずだった。
子供達に囲まれた、フリルでいっぱいの洋服を着た人形のような少女は、絵本の中の慈愛の姫君のようだった。
「あの人達、だれ?」
子供の一人が、あたしと亨悟を指さす。隣で亨悟がビクリと肩を震わせた。
杏樹は、ふふふと、小さく笑う。
「あの人達、怪我してるから手当してあげないといけないの、また後で紹介してあげるわ」
えー、と上がる声に手を振って、杏樹は近くに立っていた大人に言う。
室内でもフードをかぶっている所を見ると、吸血鬼なのかも知れない。――多分。
「空いてる部屋あったわよね。できれば隣同士に二部屋あるとこがいいんだけど」
「五階にあるよ」
「ありがと」
そして少女はあたしたちを振り返ると、意地悪く笑った。
「ですって。ついてきて」
連れてこられたのは、入院用の個室のようだった。
暗い色のカーテンがきっちりと閉められていて、部屋の中は暗い。だが無機質な部屋のベッドのシーツは古いが洗われてきれいに整えられている。
「こっちの建物は主に居住に使ってるわ。近くの大学のグラウンドとかで農作物を作ったり、家畜を飼ったりしてるの。ため池もあるし、そこから水も引けるようになってる」
あたしが住んでいたところよりも、随分と居心地が良くて、住みやすそうに見える。
管理されているのでなければ。
「人間を飼ってるのか?」
「まあ、見方によってはそうかもね」
――飼っている。という言葉がよく分からなくなる。
下にいた子供達や、大人達――誰が人間か吸血鬼かも分からないが、あの態度を見れば、共存をしているように見える。
「なんで助けた」
あたしの問いに、少女はおかしそうに高く笑った。
「やーね。助けてなんかないわよ。人手がいるのは本当だもの。どこだってそうでしょ、これだけ生きてる者が減れば。体力があって健康な若い男なんて、血のもらいがいがあるし、働かせがいもあるわ。あんたも、それだけ元気に吸血鬼もヤクザもぶちのめすような元気があるなんて、使い出がありそうじゃない」
それから意地悪く亨悟に笑う。
「ねえ亨悟。あんたを捕まえられて楽しいわ。榛真と一緒にうろうろうろうろ、目障りだったもの。あんたは榛真ほど馬鹿じゃないから、こっちに余計なことしてくるわけでもないし、放っておいたけど」
――なんだ。
「知り合いなのか」
「顔見知りだよ」
亨悟は腫れ上がった顔を痛そうにしかめた。
「こいつら、ここのガーディアンなんだけど、たまに人間狩りにうろついてるんだよ。俺たちが食料探しにうろついてるとたまに遭遇するんだ」
「人間狩りなんかやらないわよ。そんなめんどうなこと。あたしは、ここを守るために周囲に異変がないか探ってるだけ。その時に人間を見つけたら連れ帰ることもあるわ。あんたたちが勝手に敵視して刃向かってくるんでしょ」
「榛真は吸血鬼と見たら攻撃せずにいられない奴だから。俺だって面倒は嫌いだし、集団も嫌いだし、あんたらに関わりたくもねーよ」
「でしょうね」
肩をすくめた少女の後ろから、背の高い少年が姿を見せた。シャツの上から防弾チョッキのようなものを着たままだが、弓は持っていない。
かわりに、木の箱を持っている。
「あいつは杏樹も俺も目の敵にしてる。放っておくと何するか分からない。さっさと殺すべきだ」
「物騒ねえ、史仁」
杏樹はくすくすと無邪気に笑う。
「手当してやるから、さっさと来い」
史仁と呼ばれた少年は、居丈高に言った。
亨悟の腕をひっつかんで、個室の洗面台のところにいくと、史仁はペットボトルにつめた水で亨悟の傷口を洗う。
亨悟が大げさに「いたいたい」とわめいて叱責されていた。
怒られてしょぼくれた亨悟をベッドに座らせて、史仁は箱の中から小さく切った布や包帯を取り出す。
亨悟はあちこちに切り傷や擦り傷をこさえた他に、やけどの跡のようなものまでつけていた。
「俺、ただでさえ出血してんのに、血抜かれたら死ぬんじゃないかな」
「今言うか、それを」
手当てをしている史仁が憮然とした顔で言う。そのまま、亨悟の傷口に消毒のアルコールをぶっかけた。
亨悟がいてえええと大声を上げて、うるさい、と史仁が一喝する。
「別に今すぐ取って食ったりしないわよ。死んじゃったら元も子もないじゃない。馬鹿ねえ」
杏樹は近くにあった椅子に座って、頬杖をつきながら呆れた声をだした。
「逃げるにしても、もうちょっと回復してからにしたらどう? 別にいたくない人はいなくていいのよ、集団を乱す者は邪魔だもの」
「そんなこと言って、逃げるそぶり見せたら殺すんだろ。殺す理由がほしいだけだろ」
声を上げる亨悟に、少女はすまして言う。
「他の人を巻き込んだら殺すわ。殺す理由なんか必要ないわよ。もともとここにいる人間なら必要だけど、あんたなんか殺すのに必要ないわよ、別に」
人間を飼っていると言うのなら、食料に逃げられるのは困るんじゃないのか。
「出て行きたい者は出て行っていいのか」
ドアの横に立ったままあたしが言うと、杏樹は首を傾けて無邪気に笑った。
「いいけど、外で会ったら殺すかもね。もうわたしたちの庇護下にないんだから。面倒を起こしたくないし、人間達の反乱の元になるから、ここにいるわたしたちは、あんたたちを傷つけたりしないわ。でもよその奴らは道理が通じるとは限らないわよ。博登《ひろと》みたいなどうしようもないのとか」
「博登って」
「けやき通りで会ったでしょ。あいつ、あんたのこと嫌ってるみたいだから、気をつけたら。あんた、あいつの仲間をだいぶやったみたいだし」
あの黒いコートの少年か。
「あいつは、崩壊前に感染して吸血鬼になったらしいの。世界が便利だった頃も、人間が感染者たちを迫害し始めた頃も知ってるし、自分自身も糾弾されたことがあるはず。人間が大嫌いなのよ」
感染症が明らかになって、世界中で起きている事が彼らの仕業――彼らのうち、暴走した者たちのしわざだと明らかになって、感染者も疑いのある人も、糾弾された。
「まあ、あんたの場合は、姉を殺したからっていうのもあるけど」
杏樹はおかしそうに笑った。それから、ひょいとベッドを降りて、あたしのところへ歩いてくる。
「亨悟の食事は、レストラン跡でもらえるわ。地下のカフェは吸血鬼《わたしたち》用だから近づかない方がいい。地下鉄で天神と通じてるから、別の縄張りの奴らも来るのよ。あんたは、血がほしかったらあげるわよ。そのかわり働いてもらうけど」
さっきあたしたちと来た吸血鬼が地下に降りていったのは、地下鉄の駅があるからか。そこをよそとの行き来に使用しているんだろう。
そんなところは吸血鬼しかうろつかない。
「わたしたち、人間を飼ってるって言っても、人間の数だってそんなに多くないわ。一人からそんなにいつもたくさん血をもらうことはできないから、少しずつわけあってのんでるの。それから人間が食べる家畜から血を抜くときにもらったりもする。あたしたちが噛みついたら食べられなくなるから」
入り口で杏樹はくるりとまわって、あたしたちを見る。フリルでいっぱいのスカートがふわりと広がった。
「わたしだって、むやみやたらに人を殺したいとは思ってないのよ。もともと人間だったんだから」
「今だって人間だ。――血が必要なだけの」
史仁は表情を変えずに言った。亨悟の腕にぐるぐると包帯を巻きながら。
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