魔法使いと栗色の小鳥

宵川三澄

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7話

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その娘は細い肩を小さく震わせて祈るように手を握りこんでいる。
ひじまでの白い長手袋、肩を露出した夜会用のドレス。淡い白は月のようだ。
だが、その夜の精のような姿形でずっと――その娘は――暗示をかけていた。
キースのような〝魔法使い〟でもよほど注意せねば掴み取れない巧妙さで。
キースですら己以外ではありえないと思っていた、その――膨大な魔力で。

カサリと葉が揺れる音に怯えて娘は振り向いた。キースは彼女に不思議な違和感を感じる。娘はとても整った顔をしていた。しかし、なぜか印象が定まらない。そして、キースは彼女が先から願っていたことを思い出す。
そこでキースはいつものように優しい声で娘に問いかけた。
「なにをしているの?」
――ああ、人…! お願い、変なこと聞かないで…。
娘はなにも、と口にする。
扇を口元にあてない。貴族ではないな、とキースは思う。
「なにをしに来たの?」
――怖い…。なにって…。ああ、男爵様お早くお話を終えて下さい…!
「広間は暑くて…涼みにここにいました…。あの、もう戻りますから」
キースは焦れる。
…誘導がなかなか効かないな。彼女の魔力のせいだろう。これは、支配下に置いた方がいいかな。
怯える娘はその美しい目をこちらに向けている。
〝魔法使い〟としては半人前だ、とキースは思いながら、すっと彼女に手をのばしてほんの少し腕に力をこめて、彼女を引っ張った。
娘はかかとの高い靴を履きなれないのか簡単にバランスを崩し、キースの腕にすっぽりと収まりそして、簡単にキースの口付けを受け入れた。

その日、その夜、娘――イルネギィアは自分になにが起きているか全くわかっていなかったのだけども。


イルネギィアは小さな森の中で育った。
傍らにはいつも祖父がいた。
両親は知らない。祖父はなにも語らなかった。
人嫌いの祖父は森で薪をつくり炭を焼き小さな畑を育て、そして孫娘のイルネギィアをとても可愛がってくれた。
その祖父の唯一の言葉。

「目立ってはならないよ」
隠れなさい、人に関わるときは人に紛れなさい。お前は美しくないのだからせめて嫌われないようにするのだ――と。
言い聞かせるように こんこんと諭す祖父。
暖炉の前で祖父の膝で転寝しながら聞いていた記憶がある。
十三の時、祖父が亡くなった。
親切な村の大人が人目を避けて暮らしていた祖父を弔ってくれたが、身内のいない彼女の行く末は結局領主の男爵家への奉公ということで収まった。
特に取り柄もない、地味な娘なのだから、と。
大好きだった祖父。
奉公が決まった時、祖父の言った通りだと思った。
目立たず、嫌われず。
これが一番安心して暮らせる方法だと思った。
だから、いつも祈っている。
隠れなさい、隠れなさい。あたしは誰も見つめてはいけないと。

膝がカクンと崩れた。

夜会の音楽がとても遠くから聴こえる。

ここはどこだろう? 目の前に誰かがいて、あたしになにかした。

なにか…。

思ったとき、優しい声が降り落ちてきた。

「名前は?」
――逆らえない。嘘がつけない。
「イルネギィア…」
「どうしてここにいる?」
「マーネメルト男爵様に同行して…。男爵様が公爵様とどうしても商取引のお話をしたいと…。ご令嬢のアン様が駆け落ちしてしまい、この公爵様の夜会に参加できないので、今夜だけの身代わりです…」
「マーネメルト家とお前の関係は?」
「十三の時よりご奉公にあがっています…。お嬢様の部屋付女中です…」
「〝魔法使い〟に会ったことは?」
「ありません…」

崩れ落ちそうになるイルネギィアの体を優しい声の主は支えた。
温かい手。
意識を手放す前にそんなことを考えた。

柔らかい草の上に娘を横たえキースは考え込む。
娘の唇にそっと指を這わせた。口紅の色が合っていないと思いながら。
「拾い物かな…。まさか、ここまで魔力の強い人間が、なんの首輪もついていないなんてね」
今まで魔力を暴発させないで来たのが奇跡のようだ。
今見た彼女の過去から祖父とやらが暗示を強いてきたのだろう。
そして、今度は彼女が無意識に魔法を使って「自分は目立たぬ人間」と己の安全のために周囲に対して暗示をかけてきていたのだ。彼女は決して注目されない。その強力な魔法を見つけられることがなかったことが幸いだった。こんなものが軍以外で使われたら、いったいどれだけ危険なことか。強力な暗殺者のいっちょあがり、だ。
「まあ、軍にいたってやることは同じだけどね」
少なくとも、セヴァレト以外の国に利用されなくて良かった、と彼女の体を抱きかかえた。細い肢体は軽かった。
髪をなでると分け目から栗色の髪が見える。
軽く眉をひそめる。
まあ、王都ではそういる髪じゃない。仕方ない。
「このまま寝室に連れ込んで寝てしまうのが一番楽だけど」
支配下に置くには体液を同じくするのが一番、効果的なのだ。
「少なくとも彼女に口づけたおかげでしばらくは彼女の魔力は僕がコントロールできるし」キースは夜の緑の合間をぬって、己の住処の離れへ向かう。
「いい玩具が手に入ったかな」
木々が彼らを飲み込んだ。



その夜、マーネメルト男爵は一人で帰った。屋敷の誰もそれをいぶかしまなかった。
翌日、マーネメルト男爵令嬢が駆け落ちしたと、屋敷の誰もがさざめき慌てたが、男爵令嬢のお気に入りの夜会のドレスや宝石がなくなっていることに屋敷の誰もが疑問に思わなかったし、女中の一人がいつの間にかいなくなっていることにも勿論、屋敷の誰もが言及しなかった。


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