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第1話 フードファイター女王決定戦 こもれびのお腹の中、こうなってます。
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「お寿司、おいしそう。いただきまーす!」
両手を合わせて、ぎゅっと目を閉じてから箸を取る。
うっとり。
寿司げたの上には中トロ、牡丹エビ、真鯛にバフンウニ、光り輝くイクラの軍艦巻きが五貫ずつ計二十五貫、こぼれんばかりに盛りつけられていた。
常識外れのてんこ盛りは、銀座有名店によるフードファイト特別仕様だ。
「こもれびちゃん急いで!」
いけない、見とれてた!
マネージャーの景子さんの声に、はっとして隣のテーブルを見る。
ハンディカメラが接写する右手席には、元祖大食いタレントの大木マリモさん――業界では尊敬を込めてマリモ様と呼ばれる――が、ダイソン並みの吸引力で高級寿司を胃に流し込みはじめている。体重108キロを越えたマリモ様は、もはや煩悩などないとインタビューで語っていた。
(煩悩を払う鐘つきの数と、マリモ様の体重を引っ掛けてるの? すごい! おもしろい~っ)
口下手で頭の回転が遅い私としては、打てば響く彼女の機転にただただ感心するばかりだ。
そして今、彼女はその言葉どおりに、実にストイックな食べっぷりを発揮している。
東京ローカルテレビのフードファイター女王決定戦。
番組収録のスタジオは最終決戦中。大食い番組に初出場の私、桜松#__さくらまつ__#こもれびとお茶の間でおなじみ、女王マリモ様との一騎打ち。
これまでの予選では二十人のファイターと戦い、肉まん、イチゴ、餃子、アイスクリーム、ステーキ、ケーキとしょっぱい甘いを繰り返す勝負を勝ち残ってきた。うれしいのは、勝ち進むごとに食材が高級品になることだ。
お肉も果物もお魚もおいしい、すごくおいしい。
味わうことによっていくらでも食べられるスタイルの私に対して、マリモ様は詰め込むスタイルだ。リングネームは食品収集車。圧倒的スピード感で、すべての食材を手元でぺちゃんこに潰し、口の中に押し込む。
「これぞプロフェッショナルって食べっぷりですねぇ」
最近司会業の方が顕著なお笑い芸人のオギちゃんさんが言う。
お腹からの発声は明瞭で、親しみやすい声のかけ方は優しい人柄がにじみ出る。本当に優しいのかはさておいて、この感じのよさはさすが売れっ子だと、またしても感心する。テレビ業界の人って、なんていうの? エンターティナー? 才能のカタマリ? お口から生まれてる?
「こもれびちゃんのリングネームは天使のティータイム。美味しそうに食べるねぇ。優雅な食べ方だけど、制限時間に間に合いそう?」
問いかけられて、口の中のマグロをごくんと呑み込み「がんばります」と返事をする。
気の利いた返しなんて私には難しすぎる。凡人の悲しさよ。
マリモ様が、ほお肉にうずまった目で私をギロリとにらんだ。
バラエティ番組ではマシュマロマンのような巨体と明るい性格で人気の彼女だが、ステーキ対決あたりからあきらかにいらいらしている。わかる。フードファイターとしての私の知名度はゼロ、マリモ様は人気タレントで、東京では敵なしの下馬評だった。それなのに現在の戦況は私の方が圧倒的に優勢だからだ。
「俺ねぇ、本当に信じられないの。こんな綺麗な顔をしててスッゲー細い子が大食いって、うそだろって! 二十二歳だっけ? 不思議だね、こもれびちゃんって?」
ザ・芸能人に大きな声で問いかけられて、力なく首を振った。やめて、緊張しちゃう。
私はぜんぜん不思議な子なんかじゃない。地味顔はお化粧で盛っているし、お腹も妊婦さんみたいに膨らんでいる。ただ、内臓とよく相談しているだけ。
味わったお寿司を飲み込むと、胃の中に落ちていくネタとシャリを意識する。
魚に含まれるドコサヘキサエン酸やエイコサペンタエン酸、鉄分やビタミンE、臓器には今日の私に必要なだけしか栄養吸収しないように指示を出し、固形物には胃酸をふりかけて体積を減らし、胃の中に順番に詰めていく。
子どものころからの阿吽の呼吸で内臓は動く。
寿司げたを一枚まっさらにし、リズムよく二枚、三枚と片付ける。おいしい、しあわせ。
それでも、さすがに百貫を越えてくるとキャパオーバーだ。
(そろそろ広げよっか?)
内臓に語りかけると、がってんだとばかりに胃袋がぷるんと揺れて周辺の臓器に指令を出す。空間を作るために心臓や肺がせり上がり、小腸に膀胱が押さえつけられるけれど、私の内臓はとても従順に場所を空けてくれる。
よし、これであと五十貫いける! 私の内臓、絶好調。
いい子、いい子と自らの内臓を褒めたたえていたそのとき。強烈な視線を感じて、私はスタジオの隅に顔を向けた。
マリモ様からの圧やスタジオの喧騒が消え、ウニの軍艦巻きを目指して短い軌道を描いていた箸が止まる。
視線の主は、番組収録の立ち合い医師。橘駿介先生だった。
彼の背後には、医薬品を満載したカートと、ジャージっぽいユニフォームを着た看護師さんが待機している。カタブツの消化器内科医を絵に描いたような風貌のお医者さんだ。
いままさにエコバックのごとく胃を広げ、無駄遣いのごちそうを収納しようとする私の内臓を透かして見ている彼の薄茶色い目。重しのされた子宮が、きゅんと収縮した。
強すぎるまなざしに動揺した私がもじもじとしても、先生の視点は真っ直ぐに私の腹部にロックオンされていて、いっそ潔いほどの集中力を見せている。見られている内臓がざわざわと騒ぎはじめた。
白いボタンダウンのシャツにスラックス、白衣は無し、歳はたぶん三十歳ぐらい? 特徴のない短髪と、細身中背、メガネをかけた顔が男性にしては白くて、洗い立てみたいにさっぱりとしている。子宮にぽっと熱がこもった。
橘先生は、逆に私が彼を観察しても、ただじっと私を……というか私のお腹を見ている。
番組ディレクターがファイター集団に大学病院の先生だと紹介してくれた時にも、彼はお医者さんらしい温かみがなかった。
ぼそぼそと「みなさんが醤油中毒になったり、腸がねじれたりしたらいけないので待機しています」なんて怖いことを言って、場を凍らせたのだった。
平坦な喋り方が淡泊な印象、でも清潔感では高得点、よく見ると鼻筋がすっと通った、いい顔立ちをしている。ほとんど動かない眼球のせいで、ちょっとロボットみたいだ。
「残り、あと五分です」
おっと、急がないと。止まっていた箸でウニの軍艦巻きをつまみ、濃厚な甘みと粘りに舌鼓を打つと、調子よく次々とお寿司を口に運ぶ。
大食い食材対象外のガリとお味噌汁をおともにして、ついに私は百五十貫を完食した。
「ごちそうさまでした」
満腹の幸せに両手を合わせて感謝する。いいものが食べられてラッキーだった。
はい、時間終了です。オギちゃんさんが片手をあげた。
「うあああっ、うぉおおおおっ、もういやぁああっ」
突然、マリモ様が獣の咆哮をあげ、号泣に肩を震わせると金切り声を発した。
椅子から浮き上がるほどにびっくりしてマリモ様を見ると、力士みたいに頭の上でひっ詰めたまとめ髪を振り乱し、細い瞳から涙の筋を作って泣きじゃくっている。
未食のお寿司が載ったテーブルが小刻みに揺れて、マリモ様は108キロの巨体から脂汗の臭いを放ちながらフロアに倒れ込んだ。レギンスの上に着ていたレースのチュニックが、強風で舞い上がるカーテンのように風をはらみ、捲れあがる姿がスローモーションで目に映る。
重い音とともに、スタジオが上下に揺れた。
「マリモ様、どうしたの? おーい、ドクター」
真っ青になったオギちゃんさんが、橘先生を呼ぶ。まさか本当に彼が出動することになるなんて……。緊急事態を間近に見た私は、動揺しすぎて固まってしまう。
クレーンカメラが録画を続ける中、橘先生がマリモ様に駆け寄り、頭の怪我と呼吸の有無を確認する。マリモ様の口の端から、牡丹エビの尻尾がぽとんと落ちた。
スタジオのあちこちで「救急車」「撮影ストップ」「誰か電話!」と怒声が響く。
「マリモさん、僕の声が聞こえたら手を持ち上げてください」
スタッフが駆けまわり、パニックになるスタジオの中、橘先生の声は相変わらず淡々としている。マリモ様の手がフロアをパンパンと殴った。
「もういや、いやなのよぉおおおおっ!」
小さな子どもの駄々のように、布地の伸び切ったピンクのレギンスの脚も床を蹴る。
「鎮静剤を注射します。マリモさん、お腹に触りますよ」
看護師さんに準備を依頼してから、橘先生の白くて指の長い手がマリモ様の丸く膨らんだ腹に当てられる。その手が下から上に向かって一気にさすりあげられた。
「ぎゃあっ。苦しいっ、くるしいいいいっ、で、で、出るぅううう」
叫ぶマリモ様の顔を先生が横に傾けると、看護師さんが吐しゃ物を受けとめるトレーを差し出し、未消化のお寿司が転がり出る。
あっけに取られて見ている私の横で、注射器の充填を確認した先生が、マリモ様の肩に注射をした。鎮静剤の液を注入する間も、陸揚げされた鮮魚のようにばたつくマリモ様の太い腕を先生は固定して決して動かさない。腕っぷしが強いというよりも、プログラミングされた速やかさを感じる。
やっぱりロボット味……ある。
救急隊が到着して先生が簡単に自己紹介し、いくつかの数字を言う。救急隊員は無線機に向かって「医師立ち合い、バイタル確認、鎮静剤注射まで終了」と告げている。
担架に乗せられたマリモ様の重さに救急隊員が苦心している横で、先生が私に近づいた。
「今日はマリモさんを調べますが、僕はあなたのことが気がかりです」
ぎょっとする私の気持ちとはまったく別に、内臓が甘くざわめいていた。
***
もう一度、橘先生に会うことになったのは、それから五日後のことだった。
マリモ様は、大食いクイーンからの引退を表明したけれど、番組の撮れ高は私へのインタビューと医師からの説明で賄えるらしく、マリモ様号泣のリタイアは編集されると聞いた。お蔵入りにすればいいのにと言うと、そういうわけにもいかないのよと景子さんが溜息をついた。
テレビ局の私の楽屋の隣に「橘駿介先生」と張り紙がされている。
字ずらを目で追う、それだけで私の喉がきゅっと音を立てた。
「あぁ、あの先生。私ちょっと苦手。目が恐いじゃない? ご挨拶する?」
景子さんに言われて、私は無言でうなずいた。
あの目は怖いんじゃないけどな。
ノックをすると「どうぞ」と、抑揚のない返事があり、ドアを開けると橘先生が立ったままスマホの通話ボタンを切ったところだった。
白いボタンダウンシャツに、銀色のフレームの眼鏡、髭の剃り跡の見当たらないつるりとした頬。この五日間思い描いていた通りの人物を目の前にして、私は直視できずにいた。……かっこいい。
「おはようございます。先日は大活躍でしたね。今日もよろしくお願いします」
私の前で、元気よく景子さんが挨拶をした。怖いとか苦手なんて言っていたのが嘘みたい。都会で働く女性の強さを実感する。
橘先生が一瞬ことばを探していた。夜の七時におはようはおかしい。しかし、それが芸能界の慣例だと気がついてぼそっと「よろしくお願いします」とだけ返す。ロボットがフリーズしたみたい、と思うとおかしくて忍び笑いを隠して頭を下げた。
「こもれびさんにお会いする日程を都合つけようとしたら、収録に呼ばれました。ちょうどよかった」
(私に? 私に会いたかったの?)
気持ちがふわっと浮き上がって、みっともないぐらいに頬が赤く染まった。
先生に会うからと、今日は鶏肉を大量に食べてきた。タンパク質、ビタミン、コラーゲン、鶏肉にはホルモンや酵素も含まれる。それらすべてが髪、肌、目や爪の輝きを増すように内臓を叱咤激励して吸収させたのだ。景子さんがヘアメイクしてくれながら「やりすぎよ。CM撮影じゃないんだから」と笑われてしまったぐらいだ。
なんと返事をしていいかわからずに、また下を向いた。
「体調は良さそうですね。この前の肌も肌理が整っていたけれど、今日は一段と綺麗だ」
「……え?」
そんなお世辞が言える人なんだと、かすかにがっかりして顔をあげるとメガネの奥の薄茶色い瞳にじっと見つめられていた。白目が青くて茶色いカラコンをしているみたいに色素の薄い目だ。直感的にわかった。お世辞ではない、彼はなにか言おうとしている。
「マリモさんは、体内の吸収バランスが悪くなってリタイアしました。僕の言っている意味がわかりますか?」
「は……い。わかります」
ぞっとした。つまりマリモ様は肉体のコントロールが効かなくなってしまったのだ。
「番組の収録が終わったら、僕がアルバイトでお世話になっているクリニックで検診を受けてください。今、電話で事務所の社長さんに許可を取りました」
景子さんが困惑して眉を寄せる。
「そうなんですか? でも私、このあともうひとり掛け持ちのタレントの付き添いがあって同行できないんですが……」
所属タレントの方がマネージャーよりも多い小さな事務所だが、私は誰よりも内向的なために必ず景子さんについてきてもらっている。
「僕が車で送り迎えをするので、ご心配なく。保険証も現金もいりません」
説明の途中で、景子さんのスマホに検診に行かせるようにと社長からメールが来た。
「こもれびちゃん。それでいい?」
確認されて動揺しながらも私は「はい」と頷いた。
両手を合わせて、ぎゅっと目を閉じてから箸を取る。
うっとり。
寿司げたの上には中トロ、牡丹エビ、真鯛にバフンウニ、光り輝くイクラの軍艦巻きが五貫ずつ計二十五貫、こぼれんばかりに盛りつけられていた。
常識外れのてんこ盛りは、銀座有名店によるフードファイト特別仕様だ。
「こもれびちゃん急いで!」
いけない、見とれてた!
マネージャーの景子さんの声に、はっとして隣のテーブルを見る。
ハンディカメラが接写する右手席には、元祖大食いタレントの大木マリモさん――業界では尊敬を込めてマリモ様と呼ばれる――が、ダイソン並みの吸引力で高級寿司を胃に流し込みはじめている。体重108キロを越えたマリモ様は、もはや煩悩などないとインタビューで語っていた。
(煩悩を払う鐘つきの数と、マリモ様の体重を引っ掛けてるの? すごい! おもしろい~っ)
口下手で頭の回転が遅い私としては、打てば響く彼女の機転にただただ感心するばかりだ。
そして今、彼女はその言葉どおりに、実にストイックな食べっぷりを発揮している。
東京ローカルテレビのフードファイター女王決定戦。
番組収録のスタジオは最終決戦中。大食い番組に初出場の私、桜松#__さくらまつ__#こもれびとお茶の間でおなじみ、女王マリモ様との一騎打ち。
これまでの予選では二十人のファイターと戦い、肉まん、イチゴ、餃子、アイスクリーム、ステーキ、ケーキとしょっぱい甘いを繰り返す勝負を勝ち残ってきた。うれしいのは、勝ち進むごとに食材が高級品になることだ。
お肉も果物もお魚もおいしい、すごくおいしい。
味わうことによっていくらでも食べられるスタイルの私に対して、マリモ様は詰め込むスタイルだ。リングネームは食品収集車。圧倒的スピード感で、すべての食材を手元でぺちゃんこに潰し、口の中に押し込む。
「これぞプロフェッショナルって食べっぷりですねぇ」
最近司会業の方が顕著なお笑い芸人のオギちゃんさんが言う。
お腹からの発声は明瞭で、親しみやすい声のかけ方は優しい人柄がにじみ出る。本当に優しいのかはさておいて、この感じのよさはさすが売れっ子だと、またしても感心する。テレビ業界の人って、なんていうの? エンターティナー? 才能のカタマリ? お口から生まれてる?
「こもれびちゃんのリングネームは天使のティータイム。美味しそうに食べるねぇ。優雅な食べ方だけど、制限時間に間に合いそう?」
問いかけられて、口の中のマグロをごくんと呑み込み「がんばります」と返事をする。
気の利いた返しなんて私には難しすぎる。凡人の悲しさよ。
マリモ様が、ほお肉にうずまった目で私をギロリとにらんだ。
バラエティ番組ではマシュマロマンのような巨体と明るい性格で人気の彼女だが、ステーキ対決あたりからあきらかにいらいらしている。わかる。フードファイターとしての私の知名度はゼロ、マリモ様は人気タレントで、東京では敵なしの下馬評だった。それなのに現在の戦況は私の方が圧倒的に優勢だからだ。
「俺ねぇ、本当に信じられないの。こんな綺麗な顔をしててスッゲー細い子が大食いって、うそだろって! 二十二歳だっけ? 不思議だね、こもれびちゃんって?」
ザ・芸能人に大きな声で問いかけられて、力なく首を振った。やめて、緊張しちゃう。
私はぜんぜん不思議な子なんかじゃない。地味顔はお化粧で盛っているし、お腹も妊婦さんみたいに膨らんでいる。ただ、内臓とよく相談しているだけ。
味わったお寿司を飲み込むと、胃の中に落ちていくネタとシャリを意識する。
魚に含まれるドコサヘキサエン酸やエイコサペンタエン酸、鉄分やビタミンE、臓器には今日の私に必要なだけしか栄養吸収しないように指示を出し、固形物には胃酸をふりかけて体積を減らし、胃の中に順番に詰めていく。
子どものころからの阿吽の呼吸で内臓は動く。
寿司げたを一枚まっさらにし、リズムよく二枚、三枚と片付ける。おいしい、しあわせ。
それでも、さすがに百貫を越えてくるとキャパオーバーだ。
(そろそろ広げよっか?)
内臓に語りかけると、がってんだとばかりに胃袋がぷるんと揺れて周辺の臓器に指令を出す。空間を作るために心臓や肺がせり上がり、小腸に膀胱が押さえつけられるけれど、私の内臓はとても従順に場所を空けてくれる。
よし、これであと五十貫いける! 私の内臓、絶好調。
いい子、いい子と自らの内臓を褒めたたえていたそのとき。強烈な視線を感じて、私はスタジオの隅に顔を向けた。
マリモ様からの圧やスタジオの喧騒が消え、ウニの軍艦巻きを目指して短い軌道を描いていた箸が止まる。
視線の主は、番組収録の立ち合い医師。橘駿介先生だった。
彼の背後には、医薬品を満載したカートと、ジャージっぽいユニフォームを着た看護師さんが待機している。カタブツの消化器内科医を絵に描いたような風貌のお医者さんだ。
いままさにエコバックのごとく胃を広げ、無駄遣いのごちそうを収納しようとする私の内臓を透かして見ている彼の薄茶色い目。重しのされた子宮が、きゅんと収縮した。
強すぎるまなざしに動揺した私がもじもじとしても、先生の視点は真っ直ぐに私の腹部にロックオンされていて、いっそ潔いほどの集中力を見せている。見られている内臓がざわざわと騒ぎはじめた。
白いボタンダウンのシャツにスラックス、白衣は無し、歳はたぶん三十歳ぐらい? 特徴のない短髪と、細身中背、メガネをかけた顔が男性にしては白くて、洗い立てみたいにさっぱりとしている。子宮にぽっと熱がこもった。
橘先生は、逆に私が彼を観察しても、ただじっと私を……というか私のお腹を見ている。
番組ディレクターがファイター集団に大学病院の先生だと紹介してくれた時にも、彼はお医者さんらしい温かみがなかった。
ぼそぼそと「みなさんが醤油中毒になったり、腸がねじれたりしたらいけないので待機しています」なんて怖いことを言って、場を凍らせたのだった。
平坦な喋り方が淡泊な印象、でも清潔感では高得点、よく見ると鼻筋がすっと通った、いい顔立ちをしている。ほとんど動かない眼球のせいで、ちょっとロボットみたいだ。
「残り、あと五分です」
おっと、急がないと。止まっていた箸でウニの軍艦巻きをつまみ、濃厚な甘みと粘りに舌鼓を打つと、調子よく次々とお寿司を口に運ぶ。
大食い食材対象外のガリとお味噌汁をおともにして、ついに私は百五十貫を完食した。
「ごちそうさまでした」
満腹の幸せに両手を合わせて感謝する。いいものが食べられてラッキーだった。
はい、時間終了です。オギちゃんさんが片手をあげた。
「うあああっ、うぉおおおおっ、もういやぁああっ」
突然、マリモ様が獣の咆哮をあげ、号泣に肩を震わせると金切り声を発した。
椅子から浮き上がるほどにびっくりしてマリモ様を見ると、力士みたいに頭の上でひっ詰めたまとめ髪を振り乱し、細い瞳から涙の筋を作って泣きじゃくっている。
未食のお寿司が載ったテーブルが小刻みに揺れて、マリモ様は108キロの巨体から脂汗の臭いを放ちながらフロアに倒れ込んだ。レギンスの上に着ていたレースのチュニックが、強風で舞い上がるカーテンのように風をはらみ、捲れあがる姿がスローモーションで目に映る。
重い音とともに、スタジオが上下に揺れた。
「マリモ様、どうしたの? おーい、ドクター」
真っ青になったオギちゃんさんが、橘先生を呼ぶ。まさか本当に彼が出動することになるなんて……。緊急事態を間近に見た私は、動揺しすぎて固まってしまう。
クレーンカメラが録画を続ける中、橘先生がマリモ様に駆け寄り、頭の怪我と呼吸の有無を確認する。マリモ様の口の端から、牡丹エビの尻尾がぽとんと落ちた。
スタジオのあちこちで「救急車」「撮影ストップ」「誰か電話!」と怒声が響く。
「マリモさん、僕の声が聞こえたら手を持ち上げてください」
スタッフが駆けまわり、パニックになるスタジオの中、橘先生の声は相変わらず淡々としている。マリモ様の手がフロアをパンパンと殴った。
「もういや、いやなのよぉおおおおっ!」
小さな子どもの駄々のように、布地の伸び切ったピンクのレギンスの脚も床を蹴る。
「鎮静剤を注射します。マリモさん、お腹に触りますよ」
看護師さんに準備を依頼してから、橘先生の白くて指の長い手がマリモ様の丸く膨らんだ腹に当てられる。その手が下から上に向かって一気にさすりあげられた。
「ぎゃあっ。苦しいっ、くるしいいいいっ、で、で、出るぅううう」
叫ぶマリモ様の顔を先生が横に傾けると、看護師さんが吐しゃ物を受けとめるトレーを差し出し、未消化のお寿司が転がり出る。
あっけに取られて見ている私の横で、注射器の充填を確認した先生が、マリモ様の肩に注射をした。鎮静剤の液を注入する間も、陸揚げされた鮮魚のようにばたつくマリモ様の太い腕を先生は固定して決して動かさない。腕っぷしが強いというよりも、プログラミングされた速やかさを感じる。
やっぱりロボット味……ある。
救急隊が到着して先生が簡単に自己紹介し、いくつかの数字を言う。救急隊員は無線機に向かって「医師立ち合い、バイタル確認、鎮静剤注射まで終了」と告げている。
担架に乗せられたマリモ様の重さに救急隊員が苦心している横で、先生が私に近づいた。
「今日はマリモさんを調べますが、僕はあなたのことが気がかりです」
ぎょっとする私の気持ちとはまったく別に、内臓が甘くざわめいていた。
***
もう一度、橘先生に会うことになったのは、それから五日後のことだった。
マリモ様は、大食いクイーンからの引退を表明したけれど、番組の撮れ高は私へのインタビューと医師からの説明で賄えるらしく、マリモ様号泣のリタイアは編集されると聞いた。お蔵入りにすればいいのにと言うと、そういうわけにもいかないのよと景子さんが溜息をついた。
テレビ局の私の楽屋の隣に「橘駿介先生」と張り紙がされている。
字ずらを目で追う、それだけで私の喉がきゅっと音を立てた。
「あぁ、あの先生。私ちょっと苦手。目が恐いじゃない? ご挨拶する?」
景子さんに言われて、私は無言でうなずいた。
あの目は怖いんじゃないけどな。
ノックをすると「どうぞ」と、抑揚のない返事があり、ドアを開けると橘先生が立ったままスマホの通話ボタンを切ったところだった。
白いボタンダウンシャツに、銀色のフレームの眼鏡、髭の剃り跡の見当たらないつるりとした頬。この五日間思い描いていた通りの人物を目の前にして、私は直視できずにいた。……かっこいい。
「おはようございます。先日は大活躍でしたね。今日もよろしくお願いします」
私の前で、元気よく景子さんが挨拶をした。怖いとか苦手なんて言っていたのが嘘みたい。都会で働く女性の強さを実感する。
橘先生が一瞬ことばを探していた。夜の七時におはようはおかしい。しかし、それが芸能界の慣例だと気がついてぼそっと「よろしくお願いします」とだけ返す。ロボットがフリーズしたみたい、と思うとおかしくて忍び笑いを隠して頭を下げた。
「こもれびさんにお会いする日程を都合つけようとしたら、収録に呼ばれました。ちょうどよかった」
(私に? 私に会いたかったの?)
気持ちがふわっと浮き上がって、みっともないぐらいに頬が赤く染まった。
先生に会うからと、今日は鶏肉を大量に食べてきた。タンパク質、ビタミン、コラーゲン、鶏肉にはホルモンや酵素も含まれる。それらすべてが髪、肌、目や爪の輝きを増すように内臓を叱咤激励して吸収させたのだ。景子さんがヘアメイクしてくれながら「やりすぎよ。CM撮影じゃないんだから」と笑われてしまったぐらいだ。
なんと返事をしていいかわからずに、また下を向いた。
「体調は良さそうですね。この前の肌も肌理が整っていたけれど、今日は一段と綺麗だ」
「……え?」
そんなお世辞が言える人なんだと、かすかにがっかりして顔をあげるとメガネの奥の薄茶色い瞳にじっと見つめられていた。白目が青くて茶色いカラコンをしているみたいに色素の薄い目だ。直感的にわかった。お世辞ではない、彼はなにか言おうとしている。
「マリモさんは、体内の吸収バランスが悪くなってリタイアしました。僕の言っている意味がわかりますか?」
「は……い。わかります」
ぞっとした。つまりマリモ様は肉体のコントロールが効かなくなってしまったのだ。
「番組の収録が終わったら、僕がアルバイトでお世話になっているクリニックで検診を受けてください。今、電話で事務所の社長さんに許可を取りました」
景子さんが困惑して眉を寄せる。
「そうなんですか? でも私、このあともうひとり掛け持ちのタレントの付き添いがあって同行できないんですが……」
所属タレントの方がマネージャーよりも多い小さな事務所だが、私は誰よりも内向的なために必ず景子さんについてきてもらっている。
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