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純白の蝶
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地吹雪の止まぬ中、一人の男がコンビニエンスストアから姿を現した。男は歩道を塞ぐ雪山の上に腰掛けると、買ったばかりの煙草を咥え、覚束ない手つきで火を点けた。時刻は午前二時八分。男は二時間余り前に二十歳を迎えたのである。
初めて吸った煙草を、男は直ぐに吐き捨てた。苦いったらありゃしない。男の職場には当然のように喫煙を愉しむ人間が巣の蟻ほど居たが、男にとってそれの良さは理解に苦しむものに違いなかった。そしてそれを職場の人間に尋ねることも、今となっては不可能なのである。
男はこれまでに心ない言葉を浴び続け生きてきた。疫病神だ疫病神だと恐れられ、忌み嫌われてきた。男の周りに人が集まることなど、一度として無かった。それでも男は、自分が嫌われていることに気付かないふりをし、自分は疫病神などではないと信じ込み、人と接してきたのであった。
だが、現実は違ったのである。
男は高等学校を卒業した後、小さな飲料メーカーに就職した。十年後の自分に夢を抱き、新人ながら誰よりも真摯に働いた。
それなのに、男が入社してすぐに収支が大きくマイナスに傾いた。自社製品に変化があったわけではない。競合他社の製品が爆発的にヒットしたわけでもない。ただ少しの理由も前触れもなく、売り上げが落ちたのである。
結局、それから収支が右肩上がりになることは唯一度もなく、一年が経過した頃にはその飲料メーカーは大赤字を記録した。
男は、漠然と将来に不安を感じ、退職届を上司に渡した。冷静な判断ができる余裕は、男には無かった。上司に引き留められることはなく、人件費が抑えられ寧ろ有難いという雰囲気ですらあった。男は、退職した。思いを馳せていた十年後の自分への道は、一〇パーセントで途絶えたのである。
男は新たな就職先を求め彷徨う中、一つの情報を小耳に挟んだ。男の勤めていた飲料メーカーの業績が、ややプラスに傾いたという。この時に男は自覚したのだ、自分が疫病神であると。疫病神でしかないのだと。
男は、職に就くことを諦めた。疫病神である俺が就職してしまうと、きっとまたその企業は業績の悪化に見舞われる。俺という人間は企業に勤めるべきではないのだ。人と関わりを持つべきではないのだ。
それからの男は、実家の子供部屋に引き篭もり、空虚な日々を繰り返していた。それだから疫病神と呼ばれるのだと、男は気付かないふりをしている。今日は男の父に唆され、久しく出ていなかった外の世界へと踏み出したのである。
理由もなく、男は視線を空へ向けた。星がきれいに見えているが、生憎興味はない。ただ、漠然と男を引き付けるものがそこにはあった。汚れた白と澄んだ黒のオセロの世界に一人、男は自身の存在価値さえも疑い始めていた。
虚ろな目で空を見ていた男の視線がふと、一点に定まった。そこにいたのは、一匹の蝶だった。切り絵のように空を彩る、純白の蝶であった。瞬間、男の世界は淡い白に包まれる。始まったのである、未明の白昼夢が。
初めこそ一匹だった蝶はみるみるうちに数が集まってきた。純白の蝶の群れは各々が自由に飛び回り、純白の草原を演出していた。それは何処までも平和で、何処までも美しかった。蝶の作り出す幻想の世界に、男は全てを忘れ見惚れていた。
するとそこに、一羽の蝶がやって来た。今度は純白の蝶ではない。墨をかけられたのだと錯覚するほどに黒い蝶であった。
黒い蝶が近付くと、純白の蝶の群れは何処かへと消えていった。視界の外に出ていったものもいれば、粉になって消えたものもいた。男の視界に残った黒い蝶は、唯一羽寂しげに優雅に舞い続ける。
黒い蝶が自由に舞っている中、それに近付く一人の少年がいた。僅かに白い光を放っていた。
少年は黒い蝶を虫捕り網で捕らえ、そのまま丁重に蝶の息の根を止めた。そして、何処か手慣れたような不慣れな手つきで羽を丁寧に広げ、去っていった。黒い蝶は、空中で堂々と静止した。男は、ぽかんと口を開いてそれを眺めていた。一羽の黒い蝶は、標本にされたのである。
するとそこに、別の少年がやって来た。暗い雰囲気を纏った少年だった。少年は迷いなく標本へと歩を進め、それに手を伸ばした。
瞬間の出来事であった。捥がれたのである、標本の翅が。綺麗に延ばされた、漆黒の翅が。
黒い蝶は粉々に消滅し、辺りに再び純白の蝶が飛び回る。その幻想的な風景に男が安堵したのも束の間、純白の蝶の群れもまた塵になって消えた。そして少年も、何処か遠くに消えていった。
そうして男は、純白と漆黒の世界から引き剥がされる。不思議と、男からは負の感情が消えていた。今ならば俺は何でもできる。
久しく感じていなかったものに背中を押され、男は道を進む。
右手に迫る軽トラックに、男は最期まで気付かなかった。
初めて吸った煙草を、男は直ぐに吐き捨てた。苦いったらありゃしない。男の職場には当然のように喫煙を愉しむ人間が巣の蟻ほど居たが、男にとってそれの良さは理解に苦しむものに違いなかった。そしてそれを職場の人間に尋ねることも、今となっては不可能なのである。
男はこれまでに心ない言葉を浴び続け生きてきた。疫病神だ疫病神だと恐れられ、忌み嫌われてきた。男の周りに人が集まることなど、一度として無かった。それでも男は、自分が嫌われていることに気付かないふりをし、自分は疫病神などではないと信じ込み、人と接してきたのであった。
だが、現実は違ったのである。
男は高等学校を卒業した後、小さな飲料メーカーに就職した。十年後の自分に夢を抱き、新人ながら誰よりも真摯に働いた。
それなのに、男が入社してすぐに収支が大きくマイナスに傾いた。自社製品に変化があったわけではない。競合他社の製品が爆発的にヒットしたわけでもない。ただ少しの理由も前触れもなく、売り上げが落ちたのである。
結局、それから収支が右肩上がりになることは唯一度もなく、一年が経過した頃にはその飲料メーカーは大赤字を記録した。
男は、漠然と将来に不安を感じ、退職届を上司に渡した。冷静な判断ができる余裕は、男には無かった。上司に引き留められることはなく、人件費が抑えられ寧ろ有難いという雰囲気ですらあった。男は、退職した。思いを馳せていた十年後の自分への道は、一〇パーセントで途絶えたのである。
男は新たな就職先を求め彷徨う中、一つの情報を小耳に挟んだ。男の勤めていた飲料メーカーの業績が、ややプラスに傾いたという。この時に男は自覚したのだ、自分が疫病神であると。疫病神でしかないのだと。
男は、職に就くことを諦めた。疫病神である俺が就職してしまうと、きっとまたその企業は業績の悪化に見舞われる。俺という人間は企業に勤めるべきではないのだ。人と関わりを持つべきではないのだ。
それからの男は、実家の子供部屋に引き篭もり、空虚な日々を繰り返していた。それだから疫病神と呼ばれるのだと、男は気付かないふりをしている。今日は男の父に唆され、久しく出ていなかった外の世界へと踏み出したのである。
理由もなく、男は視線を空へ向けた。星がきれいに見えているが、生憎興味はない。ただ、漠然と男を引き付けるものがそこにはあった。汚れた白と澄んだ黒のオセロの世界に一人、男は自身の存在価値さえも疑い始めていた。
虚ろな目で空を見ていた男の視線がふと、一点に定まった。そこにいたのは、一匹の蝶だった。切り絵のように空を彩る、純白の蝶であった。瞬間、男の世界は淡い白に包まれる。始まったのである、未明の白昼夢が。
初めこそ一匹だった蝶はみるみるうちに数が集まってきた。純白の蝶の群れは各々が自由に飛び回り、純白の草原を演出していた。それは何処までも平和で、何処までも美しかった。蝶の作り出す幻想の世界に、男は全てを忘れ見惚れていた。
するとそこに、一羽の蝶がやって来た。今度は純白の蝶ではない。墨をかけられたのだと錯覚するほどに黒い蝶であった。
黒い蝶が近付くと、純白の蝶の群れは何処かへと消えていった。視界の外に出ていったものもいれば、粉になって消えたものもいた。男の視界に残った黒い蝶は、唯一羽寂しげに優雅に舞い続ける。
黒い蝶が自由に舞っている中、それに近付く一人の少年がいた。僅かに白い光を放っていた。
少年は黒い蝶を虫捕り網で捕らえ、そのまま丁重に蝶の息の根を止めた。そして、何処か手慣れたような不慣れな手つきで羽を丁寧に広げ、去っていった。黒い蝶は、空中で堂々と静止した。男は、ぽかんと口を開いてそれを眺めていた。一羽の黒い蝶は、標本にされたのである。
するとそこに、別の少年がやって来た。暗い雰囲気を纏った少年だった。少年は迷いなく標本へと歩を進め、それに手を伸ばした。
瞬間の出来事であった。捥がれたのである、標本の翅が。綺麗に延ばされた、漆黒の翅が。
黒い蝶は粉々に消滅し、辺りに再び純白の蝶が飛び回る。その幻想的な風景に男が安堵したのも束の間、純白の蝶の群れもまた塵になって消えた。そして少年も、何処か遠くに消えていった。
そうして男は、純白と漆黒の世界から引き剥がされる。不思議と、男からは負の感情が消えていた。今ならば俺は何でもできる。
久しく感じていなかったものに背中を押され、男は道を進む。
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