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39 ヒロインの誤算
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この場を下がろうとした、その瞬間だった。
背後から、かすれた声が聞こえてきた。
「ど……どうして……?!」
振り返ると、マリアンナが立ち尽くしていた。
逃げ場を失った獣のように、両手をわずかに震わせたまま。
王妃のサロンは、ヴェルサイユでも特に窓が多く、午後の光がふんだんに差し込む場所だ。
磨き抜かれた壁面装飾と金泥の縁取りが、反射した光をやわらかく跳ね返し、室内は常に“明るさ”を保っている。
――けれど今、その明るさが、彼女には残酷だった。
燭台の炎がゆらめき、涙に濡れたマリアンナの瞳に、金色の揺らぎが映り込む。
それは希望ではなく、追い詰められた者の錯乱を照らす光だ。
「どうして……どうしてセシル・ド・ヴァロワは“悪役”として断罪されないの?!」
その声は、宮廷の静寂に不釣り合いなほど大きく響いた。
意図せず、感情が制御を失っている証だった。
一瞬だけ、侍女たちの視線がこちらへ向く。
だが次の瞬間には、誰もが素早く視線を伏せ、手元の仕事に意識を戻した。
――賢明な判断だ。
ヴェルサイユでは、見たこと・聞いたことそのものが罪になることがある。
とくに、王妃の私的空間で起きる感情の爆発は、関わった者すべてを沈めかねない。
私はマリアンナのそばに歩み寄り、あくまで礼儀作法の枠を外さない距離で立ち止まった。
背筋を伸ばし、口角だけをわずかに上げる。
それは挑発ではない。
余裕を装うための、宮廷的な微笑だ。
「だって私、悪役じゃないもの」
マリアンナの唇が小刻みに震えた。
白粉の下の素肌に、血の気が失われていくのがはっきりとわかる。
寄木細工の床が、異様に暗く見えた。
高級木材を組み合わせ、意図的に模様を描いた床は、王妃の私室群のなかでも格別の品質を誇る場所だ。
けれど今は――
その床が、彼女の涙を静かに吸い込んでしまいそうな、底なしの闇に見えた。
「物語の筋書きは変わるのよ」
私は淡々と告げる。
「ヒロインのあなたが転んだ夜から、すでに変化は始まっている」
マリアンナは目を大きく見開いた。
瞳の奥で、理解と否定がせめぎ合っている。
「そ……そんな……これは、乙女ゲームの世界で……
わたしはヒロインで……!」
その言葉には、縋りつくような必死さがあった。
自分の立場を、現実ではなく“設定”に委ねている者の声だ。
「だったら、もっと上手くやりなさい」
私は、周囲に音が漏れないよう、そっと彼女の耳元へ顔を寄せた。
ふわりと、香りが立ち上る。
ベルガモットと白百合。
若い令嬢が好む、少し強めのパフューム(※香水)。
――乙女ゲームでも、ヒロインがつけていた香り。
だが、この世界では、香りは“印象”であって、“特権”ではない。
「あなたが“ヒロインの座”にしがみついている限り、物語はあなたを中心に回らない」
声を落とし、言葉を選ぶ。
「だって、物語は――“動いたほう”に引き寄せられるものだから」
それだけ告げて、私は背中を向けた。
もはや、彼女に向き合う必要はない。
サロンを出ようと扉を閉めかけた、そのとき。
王妃の椅子の横で控えていたシャルルが、こちらを見ていた。
宮廷人特有の、何も語らない笑み。
評価も警戒も、すべてを内側に隠した表情。
「……あなたは、本当に興味深い人物ですね」
私は肩をすくめるだけで応じた。
ええ、そうでしょうとも。
私は“断罪イベント”という安っぽい茶番より、
もっと――ヴェルサイユ的な未来を選ぶのだから。
王妃のサロンを辞して廊下へ出ると、アランが静かに歩幅を合わせてきた。
近衛士官の軍靴が、磨き上げられた床に軽やかな音を刻む。
近衛は、歩き方ですら訓練されている。
一定の歩幅、無駄のない体重移動。
音を立てすぎず、しかし存在を消しすぎない――王妃を守るための歩行だ。
「――よくやった」
短い言葉。
それが今日いちばん、鮮やかに胸へ響いた。
アランは感情を表に出さない。
けれどその歩調には、常に王妃の安全を最優先に考える兵科特有の緊張が宿っている。
これで、逆ハールートの断罪イベントは回避できた――
私は歩きながら、静かに息を整える。
けれど、次に来るのは。
王太子ルート。
悪役令嬢を断罪する、あの筋書きだ。
ゲームでは、悪役令嬢がヒロインを侮辱し、王太子がヒロインをかばい、評価は地に落ち、断罪へ――。
でも、ヴェルサイユの人間は、誰ひとり脚本どおりには動かない。
王太子殿下が、誰に、どこで、どんな視線を向けるか。
それこそが、次の分岐点だ。
背後から、かすれた声が聞こえてきた。
「ど……どうして……?!」
振り返ると、マリアンナが立ち尽くしていた。
逃げ場を失った獣のように、両手をわずかに震わせたまま。
王妃のサロンは、ヴェルサイユでも特に窓が多く、午後の光がふんだんに差し込む場所だ。
磨き抜かれた壁面装飾と金泥の縁取りが、反射した光をやわらかく跳ね返し、室内は常に“明るさ”を保っている。
――けれど今、その明るさが、彼女には残酷だった。
燭台の炎がゆらめき、涙に濡れたマリアンナの瞳に、金色の揺らぎが映り込む。
それは希望ではなく、追い詰められた者の錯乱を照らす光だ。
「どうして……どうしてセシル・ド・ヴァロワは“悪役”として断罪されないの?!」
その声は、宮廷の静寂に不釣り合いなほど大きく響いた。
意図せず、感情が制御を失っている証だった。
一瞬だけ、侍女たちの視線がこちらへ向く。
だが次の瞬間には、誰もが素早く視線を伏せ、手元の仕事に意識を戻した。
――賢明な判断だ。
ヴェルサイユでは、見たこと・聞いたことそのものが罪になることがある。
とくに、王妃の私的空間で起きる感情の爆発は、関わった者すべてを沈めかねない。
私はマリアンナのそばに歩み寄り、あくまで礼儀作法の枠を外さない距離で立ち止まった。
背筋を伸ばし、口角だけをわずかに上げる。
それは挑発ではない。
余裕を装うための、宮廷的な微笑だ。
「だって私、悪役じゃないもの」
マリアンナの唇が小刻みに震えた。
白粉の下の素肌に、血の気が失われていくのがはっきりとわかる。
寄木細工の床が、異様に暗く見えた。
高級木材を組み合わせ、意図的に模様を描いた床は、王妃の私室群のなかでも格別の品質を誇る場所だ。
けれど今は――
その床が、彼女の涙を静かに吸い込んでしまいそうな、底なしの闇に見えた。
「物語の筋書きは変わるのよ」
私は淡々と告げる。
「ヒロインのあなたが転んだ夜から、すでに変化は始まっている」
マリアンナは目を大きく見開いた。
瞳の奥で、理解と否定がせめぎ合っている。
「そ……そんな……これは、乙女ゲームの世界で……
わたしはヒロインで……!」
その言葉には、縋りつくような必死さがあった。
自分の立場を、現実ではなく“設定”に委ねている者の声だ。
「だったら、もっと上手くやりなさい」
私は、周囲に音が漏れないよう、そっと彼女の耳元へ顔を寄せた。
ふわりと、香りが立ち上る。
ベルガモットと白百合。
若い令嬢が好む、少し強めのパフューム(※香水)。
――乙女ゲームでも、ヒロインがつけていた香り。
だが、この世界では、香りは“印象”であって、“特権”ではない。
「あなたが“ヒロインの座”にしがみついている限り、物語はあなたを中心に回らない」
声を落とし、言葉を選ぶ。
「だって、物語は――“動いたほう”に引き寄せられるものだから」
それだけ告げて、私は背中を向けた。
もはや、彼女に向き合う必要はない。
サロンを出ようと扉を閉めかけた、そのとき。
王妃の椅子の横で控えていたシャルルが、こちらを見ていた。
宮廷人特有の、何も語らない笑み。
評価も警戒も、すべてを内側に隠した表情。
「……あなたは、本当に興味深い人物ですね」
私は肩をすくめるだけで応じた。
ええ、そうでしょうとも。
私は“断罪イベント”という安っぽい茶番より、
もっと――ヴェルサイユ的な未来を選ぶのだから。
王妃のサロンを辞して廊下へ出ると、アランが静かに歩幅を合わせてきた。
近衛士官の軍靴が、磨き上げられた床に軽やかな音を刻む。
近衛は、歩き方ですら訓練されている。
一定の歩幅、無駄のない体重移動。
音を立てすぎず、しかし存在を消しすぎない――王妃を守るための歩行だ。
「――よくやった」
短い言葉。
それが今日いちばん、鮮やかに胸へ響いた。
アランは感情を表に出さない。
けれどその歩調には、常に王妃の安全を最優先に考える兵科特有の緊張が宿っている。
これで、逆ハールートの断罪イベントは回避できた――
私は歩きながら、静かに息を整える。
けれど、次に来るのは。
王太子ルート。
悪役令嬢を断罪する、あの筋書きだ。
ゲームでは、悪役令嬢がヒロインを侮辱し、王太子がヒロインをかばい、評価は地に落ち、断罪へ――。
でも、ヴェルサイユの人間は、誰ひとり脚本どおりには動かない。
王太子殿下が、誰に、どこで、どんな視線を向けるか。
それこそが、次の分岐点だ。
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