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第三回 史進、夜半に華陰県を去り 魯提轄、拳三発で鎮関西を成敗す
(四)
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魯達は地位や財産に執着し、それを誇示する性質ではなかった。だが、恩人である上司の言うところの「身分に相応しい生き方」については、常々考えているつもりだった。
世を見渡せば提轄と言う地位にさほどの威光があるとは思わなかったが、それでもこの渭州を守る軍人の端くれであり、経略府ではそれなりの位である。
それに、魯達は己を好漢であると自負していた。好漢には、好漢に相応しい生き方がある――そして、相応しい酒店も。
「この潘料亭は、俺がひいきにしている店でな。いい酒が山ほどあるんだ」
先程史進と出会った茶屋とは比べ物にならないほど年季の入った店構えもさることながら、出される酒食、物分かりのいい給仕たちの気の利き様、杏の花で飾られた明媚な庭、室内のあつらえ、どれをとってもこの店は、好漢である提轄が豪傑仲間と膝を交えるのに相応しい。
「さすが魯提轄、洒落た店だなあ」
どこか居心地悪そうな李忠と、正反対に目を輝かせて辺りを見回す史進を従え、魯達は給仕に一番綺麗な部屋を用意させた。上座に座った魯達に、給仕が愛想よく頭を下げる。見慣れぬ顔だから、新入りであろう。
「魯提轄様、いらっしゃいませ。今日はどの酒をお持ちいたしましょう」
「もちろん、一番いい酒だ。まずは五合持ってこい」
つまみを並べる手つきのぎこちなさに内心苛立つ魯達に、新入り給仕はさらに尋ねる。
「では、お菜はどのようなものを……」
「つべこべうるさい奴だ、いつもの給仕頭はおらんのか! ありったけのものを何でも持ってくればいいんだ、いちいち言わせるな。金はまとめて払ってやるから」
「は、はい、承知しました」
冷や汗を流しながら去っていく給仕を困ったような顔で見つめる李忠が、「ほんとに短気なお人だ」と呟くのを聞き流し、魯達はにかりと笑う。
「俺は生まれも育ちもこの渭州だが、この地でお前たちのような好漢と出会い、盃を交わしたことは一度もない。今日はとことん、語り明かそう」
「兄貴、俺だって、あんたほど豪快な人と出会ったのは初めてだ。ここに朱武たちがいれば、もっと愉快なんだが」
「ん? 朱武だと? その名は聞いたことがあるぞ」
「兄貴、その前にまずは乾杯しよう」
下座に座る史進が、給仕の運んできた燗を魯達と李忠に手渡し、嬉しそうに掲げる。
「では、九紋龍史進と打虎将李忠に出会えたことを祝して」
三つの盃が軽やかにぶつかり合い、暫し、うまい酒を飲み干す喉音だけが響く。空になった盃を見せ合い、三人の豪傑は高らかに笑った。
「朱武に陳達、それに楊春という豪傑が、少華山に根城を築いているんだが、俺は彼ら三頭領と知り合いになってね」
「少華山の三頭領と言えば義賊として名が知れているが、史進、やつらと仲良くなって大丈夫なのか?」
「師匠、そこは話せば長いんだが……」
「史進、まずは王進殿と知り合ったところから聞かせろ。俺も幼いころ、親父について東京で半月ほど暮らしていたことがあってな、その時から王進殿の名は――」
菜や肉料理が次々と運ばれ卓が賑やかになるごとに、魯達と二人の豪傑たちの四方山話も盛り上がる。いったいこんなに酒が、箸が、話が進むひとときは、今まであっただろうか。
この身に刻んだ花の刺青を見て震え上がることも、この大声に目を背け耳をふさぐことも、この髭を濡らし滴る酒の匂いに眉をしかめることも、この肉付きのいい手がひとつも動いていないのに逃げ出すことも、彼らはしない。豪傑よと褒め、痛快だと笑う。こんな男たちに出会うことを、己は待ち望んでいたのではなかっただろうか。
「そのとき俺は言ってやったんだ、『俺と一緒に酒を飲もう』とな!」
箸を振り回して興奮気味に語る史進が、白い歯を見せて無邪気に笑った時。
「……ん?」
史進と李忠の笑い声に紛れ、何か別の声音が聞こえた気がした。
もう何杯目かも分からぬ燗酒を喉に流し込み、魯達はわずかの間耳を澄ませたが、聞こえてくるのは他の部屋の客たちが笑う声、皿がぶつかり合う音、そして給仕たちが行き交う足音――
「そう、そのときはまだ気が付かなかったんだ、俺としたことが……」
「まさか、その爺さんが?」
「ああ、そのまさかさ」
いや、確かにそれ以外の音が、魯達がこの世で最も苦手とする部類の声音が、史進の声の隙間から漏れ聞こえていた。
しかも、初めのうちは自分たちの話声にかき消されるほどだったその声音は、徐々に大きく、ひどくなってゆくのだ。間断なく、際限なく。
「……小二!」
「う、わあ! 熱ッ!」
ついに、もとより長さや強さなどあってないに等しい魯達の堪忍袋の緒が切れた。見事にひっくり返った卓から滑り落ちたうまそうな料理は、すべて李忠の着物に吸い込まれてゆく。
「て、提轄様、いったいどうされたので? あ、まだ何か足りないものが?」
もはや血の気の欠片もない蒼白な顔で駆け寄ってきた新入給仕の胸倉を掴み、魯達は唾を飛ばした。
「何かいるか、だと? この役立たずめ。お前にはあの声が聞こえんのか、このぼんくら! いつも俺がこの店をひいきにしているのを知っていながら、なんだって俺たちの隣の部屋で知らないやつをめそめそ泣かせているんだ。俺たち兄弟の酒の席を邪魔させるなんて、俺が一度でも酒代を払わなかったことがあったか?」
「あ、兄貴、落ち着いて」
丸太のような魯達の腕をわし掴み、史進がびっくりした顔で給仕と魯達の間に割り込む。
「放せ、史進! こやつ、まさか弱い者いじめをしているわけじゃあ」
「ち、違いますよ提轄様! 私のような小物が、どうして提轄様のような御立派な方の邪魔をするのです。ましてや弱いものいじめなどとても……」
「魯兄貴、とりあえず話を聞いてやってくれ。俺も着物が肉汁臭くて泣きそうだが、そいつはもっと泣きそうだぞ」
史進と李忠に両腕を掴まれれば、さしもの己も引き下がらざるをえない。ようやく解放された給仕は、けほけほと咳込みながら心底申し訳なさそうに魯達を見上げた。
「お隣で泣いていたのは、実は、歌唄いの父娘でして。まさか魯提轄様ほどの方がいらっしゃるとは思わずに、悲しみに暮れて泣いていたんでしょう」
「歌唄い? 歌唄いなら、なぜ酒の席に出てこない。しかも、悲しんで泣いているとはどういうことだ?」
「その、これにはいろいろと訳が……」
「ええい、まどろっこしいやつだ。今すぐその父娘をここへ呼んで来い!」
史進と李忠が慌ててひっくり返った卓を直している傍らで、魯達は腕を組み足を揺らして虚空を睨みつけた。
この世に怖いものなどない魯達だが、女の泣き声だけは、どうにも苦手だ。遠い昔よく聞かされたその声に、いい思い出が付いて回ったことなど一度もない。
「魯提轄様、こちらが、その歌唄いの父娘です」
興を削がれ、半ば酔いも醒めかけた魯達らの前に連れてこられた歌唄いの父娘は、どこから見ても酒の席を盛り上げられる風ではなかった。
やつれ、青ざめ、この世の不運をすべて背負いこんだような陰気な顔を伏せるその姿は、まるで道端の物乞いのようでもある。
「ああ、なんだ、その……お前たちか、泣いていたのは」
唸るような魯達の声に、父親らしき老人が痩せ細った肩をびくりと揺らして後ずさる。手に持った拍子板までぶるぶると震え、今にもふぬけた音を鳴らしそうだ。
「提轄様、どうかお許しください」
だが、娘の方は気丈にも、ほっそりとした体を前に進めてしとやかに一礼し、おそるおそる魯達の顔を見上げた。
まだ二十にも満たぬような、若い娘である。ささやかな青い玉の簪をさした黒髪がほつれ、涙の痕が光る憂い顔や細い首筋に一筋、二筋かかっている様は、見ているこちらまで不安になってくるほどに儚い。
紅色の質素な着物の上に白い上着をまとった身体は柳の枝のようで、裾から零れる淡い黄色の足衣に守られた小さな足は、くずおれそうになる身体を懸命に支えているようでもあった。
細い眉を寄せたかんばせも、袖から覗く手も、すべて雪のように青白いのがまた哀れなほどに娘を弱々しく見せている。長い睫毛に光る涙の粒だけが、珠のように光っていた。
魯達は女の美醜について関心もなければ、目の前の小娘が美しいかそうでないかを判断する目も持っていない。だからただ、男にとって守らなければいけない女というものがいるとすれば、この娘こそがそれだと、漠然とそう思った。そうでなくとも、女や子供というのは、男が守らなければならぬ存在なのだ。
「その、お前たちは、いったいどこの者だ? 何が悲しくてこんなところで泣いていた」
いよいよ娘が困ったように眉尻を下げたことで、ようやく自分が年若い娘をぶしつけに眺めていたことに気が付いた魯達は、一つ咳ばらいをして二人に席を勧めた。
「提轄様に、申し上げます」
遠慮がちに浅く腰掛けたまま、娘は線の細い声でぽつりぽつりと話し始めた。
世を見渡せば提轄と言う地位にさほどの威光があるとは思わなかったが、それでもこの渭州を守る軍人の端くれであり、経略府ではそれなりの位である。
それに、魯達は己を好漢であると自負していた。好漢には、好漢に相応しい生き方がある――そして、相応しい酒店も。
「この潘料亭は、俺がひいきにしている店でな。いい酒が山ほどあるんだ」
先程史進と出会った茶屋とは比べ物にならないほど年季の入った店構えもさることながら、出される酒食、物分かりのいい給仕たちの気の利き様、杏の花で飾られた明媚な庭、室内のあつらえ、どれをとってもこの店は、好漢である提轄が豪傑仲間と膝を交えるのに相応しい。
「さすが魯提轄、洒落た店だなあ」
どこか居心地悪そうな李忠と、正反対に目を輝かせて辺りを見回す史進を従え、魯達は給仕に一番綺麗な部屋を用意させた。上座に座った魯達に、給仕が愛想よく頭を下げる。見慣れぬ顔だから、新入りであろう。
「魯提轄様、いらっしゃいませ。今日はどの酒をお持ちいたしましょう」
「もちろん、一番いい酒だ。まずは五合持ってこい」
つまみを並べる手つきのぎこちなさに内心苛立つ魯達に、新入り給仕はさらに尋ねる。
「では、お菜はどのようなものを……」
「つべこべうるさい奴だ、いつもの給仕頭はおらんのか! ありったけのものを何でも持ってくればいいんだ、いちいち言わせるな。金はまとめて払ってやるから」
「は、はい、承知しました」
冷や汗を流しながら去っていく給仕を困ったような顔で見つめる李忠が、「ほんとに短気なお人だ」と呟くのを聞き流し、魯達はにかりと笑う。
「俺は生まれも育ちもこの渭州だが、この地でお前たちのような好漢と出会い、盃を交わしたことは一度もない。今日はとことん、語り明かそう」
「兄貴、俺だって、あんたほど豪快な人と出会ったのは初めてだ。ここに朱武たちがいれば、もっと愉快なんだが」
「ん? 朱武だと? その名は聞いたことがあるぞ」
「兄貴、その前にまずは乾杯しよう」
下座に座る史進が、給仕の運んできた燗を魯達と李忠に手渡し、嬉しそうに掲げる。
「では、九紋龍史進と打虎将李忠に出会えたことを祝して」
三つの盃が軽やかにぶつかり合い、暫し、うまい酒を飲み干す喉音だけが響く。空になった盃を見せ合い、三人の豪傑は高らかに笑った。
「朱武に陳達、それに楊春という豪傑が、少華山に根城を築いているんだが、俺は彼ら三頭領と知り合いになってね」
「少華山の三頭領と言えば義賊として名が知れているが、史進、やつらと仲良くなって大丈夫なのか?」
「師匠、そこは話せば長いんだが……」
「史進、まずは王進殿と知り合ったところから聞かせろ。俺も幼いころ、親父について東京で半月ほど暮らしていたことがあってな、その時から王進殿の名は――」
菜や肉料理が次々と運ばれ卓が賑やかになるごとに、魯達と二人の豪傑たちの四方山話も盛り上がる。いったいこんなに酒が、箸が、話が進むひとときは、今まであっただろうか。
この身に刻んだ花の刺青を見て震え上がることも、この大声に目を背け耳をふさぐことも、この髭を濡らし滴る酒の匂いに眉をしかめることも、この肉付きのいい手がひとつも動いていないのに逃げ出すことも、彼らはしない。豪傑よと褒め、痛快だと笑う。こんな男たちに出会うことを、己は待ち望んでいたのではなかっただろうか。
「そのとき俺は言ってやったんだ、『俺と一緒に酒を飲もう』とな!」
箸を振り回して興奮気味に語る史進が、白い歯を見せて無邪気に笑った時。
「……ん?」
史進と李忠の笑い声に紛れ、何か別の声音が聞こえた気がした。
もう何杯目かも分からぬ燗酒を喉に流し込み、魯達はわずかの間耳を澄ませたが、聞こえてくるのは他の部屋の客たちが笑う声、皿がぶつかり合う音、そして給仕たちが行き交う足音――
「そう、そのときはまだ気が付かなかったんだ、俺としたことが……」
「まさか、その爺さんが?」
「ああ、そのまさかさ」
いや、確かにそれ以外の音が、魯達がこの世で最も苦手とする部類の声音が、史進の声の隙間から漏れ聞こえていた。
しかも、初めのうちは自分たちの話声にかき消されるほどだったその声音は、徐々に大きく、ひどくなってゆくのだ。間断なく、際限なく。
「……小二!」
「う、わあ! 熱ッ!」
ついに、もとより長さや強さなどあってないに等しい魯達の堪忍袋の緒が切れた。見事にひっくり返った卓から滑り落ちたうまそうな料理は、すべて李忠の着物に吸い込まれてゆく。
「て、提轄様、いったいどうされたので? あ、まだ何か足りないものが?」
もはや血の気の欠片もない蒼白な顔で駆け寄ってきた新入給仕の胸倉を掴み、魯達は唾を飛ばした。
「何かいるか、だと? この役立たずめ。お前にはあの声が聞こえんのか、このぼんくら! いつも俺がこの店をひいきにしているのを知っていながら、なんだって俺たちの隣の部屋で知らないやつをめそめそ泣かせているんだ。俺たち兄弟の酒の席を邪魔させるなんて、俺が一度でも酒代を払わなかったことがあったか?」
「あ、兄貴、落ち着いて」
丸太のような魯達の腕をわし掴み、史進がびっくりした顔で給仕と魯達の間に割り込む。
「放せ、史進! こやつ、まさか弱い者いじめをしているわけじゃあ」
「ち、違いますよ提轄様! 私のような小物が、どうして提轄様のような御立派な方の邪魔をするのです。ましてや弱いものいじめなどとても……」
「魯兄貴、とりあえず話を聞いてやってくれ。俺も着物が肉汁臭くて泣きそうだが、そいつはもっと泣きそうだぞ」
史進と李忠に両腕を掴まれれば、さしもの己も引き下がらざるをえない。ようやく解放された給仕は、けほけほと咳込みながら心底申し訳なさそうに魯達を見上げた。
「お隣で泣いていたのは、実は、歌唄いの父娘でして。まさか魯提轄様ほどの方がいらっしゃるとは思わずに、悲しみに暮れて泣いていたんでしょう」
「歌唄い? 歌唄いなら、なぜ酒の席に出てこない。しかも、悲しんで泣いているとはどういうことだ?」
「その、これにはいろいろと訳が……」
「ええい、まどろっこしいやつだ。今すぐその父娘をここへ呼んで来い!」
史進と李忠が慌ててひっくり返った卓を直している傍らで、魯達は腕を組み足を揺らして虚空を睨みつけた。
この世に怖いものなどない魯達だが、女の泣き声だけは、どうにも苦手だ。遠い昔よく聞かされたその声に、いい思い出が付いて回ったことなど一度もない。
「魯提轄様、こちらが、その歌唄いの父娘です」
興を削がれ、半ば酔いも醒めかけた魯達らの前に連れてこられた歌唄いの父娘は、どこから見ても酒の席を盛り上げられる風ではなかった。
やつれ、青ざめ、この世の不運をすべて背負いこんだような陰気な顔を伏せるその姿は、まるで道端の物乞いのようでもある。
「ああ、なんだ、その……お前たちか、泣いていたのは」
唸るような魯達の声に、父親らしき老人が痩せ細った肩をびくりと揺らして後ずさる。手に持った拍子板までぶるぶると震え、今にもふぬけた音を鳴らしそうだ。
「提轄様、どうかお許しください」
だが、娘の方は気丈にも、ほっそりとした体を前に進めてしとやかに一礼し、おそるおそる魯達の顔を見上げた。
まだ二十にも満たぬような、若い娘である。ささやかな青い玉の簪をさした黒髪がほつれ、涙の痕が光る憂い顔や細い首筋に一筋、二筋かかっている様は、見ているこちらまで不安になってくるほどに儚い。
紅色の質素な着物の上に白い上着をまとった身体は柳の枝のようで、裾から零れる淡い黄色の足衣に守られた小さな足は、くずおれそうになる身体を懸命に支えているようでもあった。
細い眉を寄せたかんばせも、袖から覗く手も、すべて雪のように青白いのがまた哀れなほどに娘を弱々しく見せている。長い睫毛に光る涙の粒だけが、珠のように光っていた。
魯達は女の美醜について関心もなければ、目の前の小娘が美しいかそうでないかを判断する目も持っていない。だからただ、男にとって守らなければいけない女というものがいるとすれば、この娘こそがそれだと、漠然とそう思った。そうでなくとも、女や子供というのは、男が守らなければならぬ存在なのだ。
「その、お前たちは、いったいどこの者だ? 何が悲しくてこんなところで泣いていた」
いよいよ娘が困ったように眉尻を下げたことで、ようやく自分が年若い娘をぶしつけに眺めていたことに気が付いた魯達は、一つ咳ばらいをして二人に席を勧めた。
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