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第一部 供物
2 北北西に進路を取れ
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* * * * *
吸血鬼事件。
去年の梅雨入りするかしないかって時期にそういう事件があったよな。
大阪の竹林で、女子中学生のバラバラ死体が発見された事件。
警察がいくら探しても、身体の一部が見つからなかった事件。
心臓だけが見つからなかった事件。
犯人が心臓から血をすすって、「絞りかす」は食べたと供述している事件。
いわゆる快楽殺人ってやつだ。
殺したいから殺す。
そうするのが気持ちいいから殺す。
そういう衝動を持った奴の犯行だ。
そういう奴は、いつの時代でもいる。どこにでもいる。
たとえば、八〇年前のこの街にも。
* * * * *
空を見上げなさい、と父はよく言ったものだ。古代ギリシャの哲学者のように、星々の瞬きや雲の流れに驚きを見出しなさい。この世界に満ちる謎と神秘に心躍らせ、絶えず疑問を投げかける人でありなさい、と。
それで足元が不注意になるんじゃ世話ないわ、と母はよく反論したものだ。その哲学者みたいに、溝に落ちたらどうするの。空ばっかり見上げてたら、首だって痛めるわ、と。
両親が離婚してから、空を見上げることがあっただろうか。思い出せない。母の言う通り、足元の溝ばかり気を付けて生きてきたのかもしれない。少なくとも、彩都市に引っ越してきてからはそうだ。空を見上げる余裕なんてなかった。
――都会じゃ星なんて見えないよ。
はじめて見上げる、この街の空。あいにくの曇り空だ。太陽がまだ低いのだろう。雲の隙間から、淡い橙色が覗く。
――見えるさ。月だって星だし、冬の大三角だって。
雪になりそこねたような冷たい雨がぱらぱらと頬を打つ。
――だとしても今日は曇り。何も見えないよ。
かあかあ、と澄んだ声のカラスが上空を横切っていく。
――でも、そこにある。なら、感じる。プロキオンやシリウスの白い光、それに――
「あなた、マゾなの?」
不機嫌そうな声とともに、知佳の視界が影に覆われた。
「どいてって言ったわよね?」
影に焦点が合うと、それは少女の形になった。長い黒髪の少女だ。ナイフで裂いたような切れ長の目が知佳を見下ろしている。逆光だからかほとんど真っ黒に見える、暗い色の瞳だ。
「それに距離もあった」少女は知佳に覆い被さる格好で続ける。「十分避けられたはずじゃなくて? どうして正面からぶつかることになるのかしら?」
――どいてってええええ!
ぶつかる直前、知佳は少女を受け止めるべく腰を落として踏ん張った。
しかし、予想外のことが起こった。
雨に濡れた坂道をあんな勢いで駆け降りたらどうなるか予想すべきだったのだ。
――ぎゃん!
少女は知佳のすぐ手前で足を滑らせた。
何が起こったか把握する間もない。タイミングを外された知佳は、重力と慣性に引っ張られて突っ込んでくる少女になす術なく押し倒された。
――あっぐ!
リュックがクッションになったものの、背中に強い衝撃が走る。知佳が思わず苦痛の声を漏らすと、それに被せるようにして少女が短い悲鳴を上げた。
――ぐふぅ!
「なんとか言ったらどうなの」少女は問う。知佳に覆い被さり、上半身だけを起こした状態で。傍から見れば、少女が知佳を組み敷いているように見えるかもしれない。「避けない理由がないじゃない。ねえ」少女はそう言って知佳の頬を片手で挟んだ。「いわゆるひとつのわけわかめだわ。気持ち悪い。誰も得しないじゃない。見知らぬ他人を押し倒してしまったこっちの気にもなりなさいよ。気まずいじゃない」
頬を押さえつけられては、何も答えられない。
背中に雨を受けているだろうに、少女は知佳の上からどこうとしない。だんだん興が乗ってきたらしく、おもしろがるように頬をこねている。
「それにしても――あなた、彩高でしょう? 本当に高校生? こんな赤ちゃんみたいなほっぺして高校の門を潜っていいと思ってるわけ?」
そこでようやく、少女の首元に目が行った。ブラウスの襟を飾る、臙脂色のリボン。知佳と同じく彩高の一年生らしい。
「ああ、腹立たしい。いったい、どんなケアしてたらこんな――」
少女が言いかけたところで、上から声がかかった。
「ずいぶんと楽しそうね」
耳に心地よい、澄んだソプラノだった。
なのに、どうしてだろう。少女は体をぴくりと震わせ、知佳から手を離した。
心なしか青ざめたようにも見える。慌てたように体を起こした。
開けた視界に声の主が飛び込んでくる。
不審者だった。
白いケーブル編みのスヌードに、不敷布のマスク、サングラス、イヤーマフ。顔のほとんどが何かしらに覆われており、明るいグレージュのロングヘアーがかろうじて女性性を主張している。
首から下は紺のダッフルコートに制服のプリーツスカート、タイツにローファーという一般的な登校スタイルだ。リュックの肩紐も見える。右手に傘を、左手にビニールバッグを持っていた。
「立てる?」不審者はビニールバッグを傘の柄に引っかけ、自由になった手を知佳に差しのべた。「アーユーオーケー? エスクサヴァ? ニホンゴツウジマスカ?」
「えっと……はい。日本語でお願いします」
知佳は手をつかんだ。トナカイ柄のミトンに覆われた手を。
立ち上がると、すぐ間近に不審者の顔があった。不審者の背丈は高くもなければ低くもないが、小柄な知佳は少し見上げなければならない。
マスクや前髪の隙間からわずかに覗く肌色は、いっそ病的なほど青白い。髪は暗い空の下でも光って見えるほど明るい色で、重力を無視したように軽やかに波打っている。
知佳が手を離すと、不審者はビニールバッグを持ち直した。
何かのショッパーを改造したものらしい。黒地に白いアルファベットが並んでいる。英語ではない。きっとフランス語だかイタリア語だかのお洒落な店名なのだろう。何の店かはわからないし、どうでもいい。それより気になることがあった。
りんごだ。
おそらくさっき拾ったのと同じ偽物のりんごがいくつかバッグに詰まっている。
「ずいぶんと早かったわね」少女は皮肉とわかる口調で言った。「こういうのをおっとり刀と言うのかしら」
「そういう夢路さんはご機嫌みたいね」不審者はおっとりと言った。「お姉さん、びっくりしたわよ」
「冗談はよし子さんよ」夢路は近くに落ちていた自分の傘を拾いながら続ける。「いまの夢路がご機嫌なら、お不動様だってご機嫌だわ」
不審者はそれを流して、知佳に顔を向けた。
「ごめんなさいね。うちの子が迷惑をかけて」不審者は軽く頭を下げた。「りんごを見なかった? わたしが落しちゃったの。それをこの子がおむすびころりんよろしく追いかけて――」
「ちょっと、何謝ってるのよ」夢路は不満そうに言った。「避けない方が悪いのよ。こっちは避けろって言ったし、それだけの余裕はあったんだから」
「わざと避けなかったんでしょう?」不審者は知佳の方を向いたまま続けた。「避けなかったらこの子が車道に飛び出してたかもしれないから」
「はあ? 何を言って――」夢路は言いながら、坂道の下を見やった。すると、それまでの威勢はどこへやら、絶え間なく横切る自動車に思わず息を呑んだように押し黙る。
「ありがとう」不審者は言った。「この子に代わってお礼を言うわ」
「お待ちったら」夢路はふたたび食ってかかった。「それは夢路の台詞でしょ。夢路は何も間違えないから謝らないけど、世話になったら礼くらい言うわ」それから、知佳に向き直って言う。「ふん、いちおう言っておくわね。ありがとう」
「別に」知佳は目をそらして言った。「わたしはただボーッと突っ立ってただけ。たまたま、進路上に立ってただけだよ。逆に、自分から止めに入らなければならない状況でも同じようにボーッと突っ立ったままだったと思う」
そして、夢路はそのま坂を駆け下りていたことだろう。信号が何色だろうが関係なく、車道を横切っていたに違いない。その想像にいまさらぞっとする。青信号なら胸をなでおろすだけだが、赤信号ならどうなっていたか。想像もしたくない。
「あなたね」夢路は呆れたように言った。「人の謝意は素直に受け取りなさい。感謝したこっちが馬鹿みたいじゃな――痛っ」
足を動かした瞬間、夢路は短い悲鳴を漏らした。体勢を崩し、近くの電柱にもたれかかる。
「あら大変」不審者は夢路に歩み寄った。「大丈夫?」
「転んだときひねったみたい」
「なんで早く言わないの」不審者は心配そうに言った。「歩ける?」
「肩を貸してくれれば」
「それはいいけど――」
「わかってるわよ。二人とも手が塞がる」
不審者は左手にビニールバッグを提げていた。もう片手には傘。夢路も右手で傘をさしている。肩を組んで支えるなら、手が足りない。
「相合い傘する?」
「ささなくても、傘は持たないといけないでしょ」
「それもそうね」不審者は困ったように言った。「そういえば、りんごは?」
「そこのボブちゃんが拾ったわよ。ぶつかったとき手放しちゃったみたいだけど」
そういえば、気づいたらりんごを手放していた。反射的に辺りを見回すが、どこにも見当たらない。
「じゃあ、いまごろ坂の下ね」不審者は深刻な声音で言った。「せめて無事だといいけど。せっかく丹精込めて作ったのに車に踏み砕かれたんじゃ救われないわ」
「いいわよ、別に。ひとつくらい」夢路は言った。「それに、りんごだってむしろ名誉なはずよ。夢路の身代わりにその身を捧げたんだから」
「そう? だといいんだけど」
「落としたりんごの話はもういいでしょう。それより、いま持ってるりんごよ」夢路は不審者のバッグを示した。「このバッグ、どうするの?」
「そうねえ、コートだから肩にかけてもずり落ちてきちゃうし」
「まったく、元はと言えばそれが元凶なのよ。あのとき、りんごを落とさなければ――」
「落としたりんごより、いま持ってるりんごなんでしょう?」
「……それはそうだけど、どうするの?」
「そうね、どこかに余分な腕があるといいんだけど――」
「あの――」知佳が声をかけると、二つの顔が振り向いた。
知佳、知佳と、脳内でアラートが鳴る。
また厄介ごとに首を突っ込む気じゃないだろうね。それどころではないはずだ。そうだろう?
夢路とぶつかったのも、りんごを落としたのも、君の過失ではない。恩も負い目も感じる必要はないんだ。
なのに、知佳、いったい何を気にしている?
「何、あなた、まだいたの?」夢路があきれたように言う。「ホントにボーっとしてるのね。傘もささずに突っ立って馬鹿みたいよ」
「もしかして」不審者は少し小首を傾げ、「空いてる腕に心当たりがあるのかしら?」
「え、うん」
「まあ、それはどこにあるの?」
知佳は自らの左腕を示した。
「ここに」
吸血鬼事件。
去年の梅雨入りするかしないかって時期にそういう事件があったよな。
大阪の竹林で、女子中学生のバラバラ死体が発見された事件。
警察がいくら探しても、身体の一部が見つからなかった事件。
心臓だけが見つからなかった事件。
犯人が心臓から血をすすって、「絞りかす」は食べたと供述している事件。
いわゆる快楽殺人ってやつだ。
殺したいから殺す。
そうするのが気持ちいいから殺す。
そういう衝動を持った奴の犯行だ。
そういう奴は、いつの時代でもいる。どこにでもいる。
たとえば、八〇年前のこの街にも。
* * * * *
空を見上げなさい、と父はよく言ったものだ。古代ギリシャの哲学者のように、星々の瞬きや雲の流れに驚きを見出しなさい。この世界に満ちる謎と神秘に心躍らせ、絶えず疑問を投げかける人でありなさい、と。
それで足元が不注意になるんじゃ世話ないわ、と母はよく反論したものだ。その哲学者みたいに、溝に落ちたらどうするの。空ばっかり見上げてたら、首だって痛めるわ、と。
両親が離婚してから、空を見上げることがあっただろうか。思い出せない。母の言う通り、足元の溝ばかり気を付けて生きてきたのかもしれない。少なくとも、彩都市に引っ越してきてからはそうだ。空を見上げる余裕なんてなかった。
――都会じゃ星なんて見えないよ。
はじめて見上げる、この街の空。あいにくの曇り空だ。太陽がまだ低いのだろう。雲の隙間から、淡い橙色が覗く。
――見えるさ。月だって星だし、冬の大三角だって。
雪になりそこねたような冷たい雨がぱらぱらと頬を打つ。
――だとしても今日は曇り。何も見えないよ。
かあかあ、と澄んだ声のカラスが上空を横切っていく。
――でも、そこにある。なら、感じる。プロキオンやシリウスの白い光、それに――
「あなた、マゾなの?」
不機嫌そうな声とともに、知佳の視界が影に覆われた。
「どいてって言ったわよね?」
影に焦点が合うと、それは少女の形になった。長い黒髪の少女だ。ナイフで裂いたような切れ長の目が知佳を見下ろしている。逆光だからかほとんど真っ黒に見える、暗い色の瞳だ。
「それに距離もあった」少女は知佳に覆い被さる格好で続ける。「十分避けられたはずじゃなくて? どうして正面からぶつかることになるのかしら?」
――どいてってええええ!
ぶつかる直前、知佳は少女を受け止めるべく腰を落として踏ん張った。
しかし、予想外のことが起こった。
雨に濡れた坂道をあんな勢いで駆け降りたらどうなるか予想すべきだったのだ。
――ぎゃん!
少女は知佳のすぐ手前で足を滑らせた。
何が起こったか把握する間もない。タイミングを外された知佳は、重力と慣性に引っ張られて突っ込んでくる少女になす術なく押し倒された。
――あっぐ!
リュックがクッションになったものの、背中に強い衝撃が走る。知佳が思わず苦痛の声を漏らすと、それに被せるようにして少女が短い悲鳴を上げた。
――ぐふぅ!
「なんとか言ったらどうなの」少女は問う。知佳に覆い被さり、上半身だけを起こした状態で。傍から見れば、少女が知佳を組み敷いているように見えるかもしれない。「避けない理由がないじゃない。ねえ」少女はそう言って知佳の頬を片手で挟んだ。「いわゆるひとつのわけわかめだわ。気持ち悪い。誰も得しないじゃない。見知らぬ他人を押し倒してしまったこっちの気にもなりなさいよ。気まずいじゃない」
頬を押さえつけられては、何も答えられない。
背中に雨を受けているだろうに、少女は知佳の上からどこうとしない。だんだん興が乗ってきたらしく、おもしろがるように頬をこねている。
「それにしても――あなた、彩高でしょう? 本当に高校生? こんな赤ちゃんみたいなほっぺして高校の門を潜っていいと思ってるわけ?」
そこでようやく、少女の首元に目が行った。ブラウスの襟を飾る、臙脂色のリボン。知佳と同じく彩高の一年生らしい。
「ああ、腹立たしい。いったい、どんなケアしてたらこんな――」
少女が言いかけたところで、上から声がかかった。
「ずいぶんと楽しそうね」
耳に心地よい、澄んだソプラノだった。
なのに、どうしてだろう。少女は体をぴくりと震わせ、知佳から手を離した。
心なしか青ざめたようにも見える。慌てたように体を起こした。
開けた視界に声の主が飛び込んでくる。
不審者だった。
白いケーブル編みのスヌードに、不敷布のマスク、サングラス、イヤーマフ。顔のほとんどが何かしらに覆われており、明るいグレージュのロングヘアーがかろうじて女性性を主張している。
首から下は紺のダッフルコートに制服のプリーツスカート、タイツにローファーという一般的な登校スタイルだ。リュックの肩紐も見える。右手に傘を、左手にビニールバッグを持っていた。
「立てる?」不審者はビニールバッグを傘の柄に引っかけ、自由になった手を知佳に差しのべた。「アーユーオーケー? エスクサヴァ? ニホンゴツウジマスカ?」
「えっと……はい。日本語でお願いします」
知佳は手をつかんだ。トナカイ柄のミトンに覆われた手を。
立ち上がると、すぐ間近に不審者の顔があった。不審者の背丈は高くもなければ低くもないが、小柄な知佳は少し見上げなければならない。
マスクや前髪の隙間からわずかに覗く肌色は、いっそ病的なほど青白い。髪は暗い空の下でも光って見えるほど明るい色で、重力を無視したように軽やかに波打っている。
知佳が手を離すと、不審者はビニールバッグを持ち直した。
何かのショッパーを改造したものらしい。黒地に白いアルファベットが並んでいる。英語ではない。きっとフランス語だかイタリア語だかのお洒落な店名なのだろう。何の店かはわからないし、どうでもいい。それより気になることがあった。
りんごだ。
おそらくさっき拾ったのと同じ偽物のりんごがいくつかバッグに詰まっている。
「ずいぶんと早かったわね」少女は皮肉とわかる口調で言った。「こういうのをおっとり刀と言うのかしら」
「そういう夢路さんはご機嫌みたいね」不審者はおっとりと言った。「お姉さん、びっくりしたわよ」
「冗談はよし子さんよ」夢路は近くに落ちていた自分の傘を拾いながら続ける。「いまの夢路がご機嫌なら、お不動様だってご機嫌だわ」
不審者はそれを流して、知佳に顔を向けた。
「ごめんなさいね。うちの子が迷惑をかけて」不審者は軽く頭を下げた。「りんごを見なかった? わたしが落しちゃったの。それをこの子がおむすびころりんよろしく追いかけて――」
「ちょっと、何謝ってるのよ」夢路は不満そうに言った。「避けない方が悪いのよ。こっちは避けろって言ったし、それだけの余裕はあったんだから」
「わざと避けなかったんでしょう?」不審者は知佳の方を向いたまま続けた。「避けなかったらこの子が車道に飛び出してたかもしれないから」
「はあ? 何を言って――」夢路は言いながら、坂道の下を見やった。すると、それまでの威勢はどこへやら、絶え間なく横切る自動車に思わず息を呑んだように押し黙る。
「ありがとう」不審者は言った。「この子に代わってお礼を言うわ」
「お待ちったら」夢路はふたたび食ってかかった。「それは夢路の台詞でしょ。夢路は何も間違えないから謝らないけど、世話になったら礼くらい言うわ」それから、知佳に向き直って言う。「ふん、いちおう言っておくわね。ありがとう」
「別に」知佳は目をそらして言った。「わたしはただボーッと突っ立ってただけ。たまたま、進路上に立ってただけだよ。逆に、自分から止めに入らなければならない状況でも同じようにボーッと突っ立ったままだったと思う」
そして、夢路はそのま坂を駆け下りていたことだろう。信号が何色だろうが関係なく、車道を横切っていたに違いない。その想像にいまさらぞっとする。青信号なら胸をなでおろすだけだが、赤信号ならどうなっていたか。想像もしたくない。
「あなたね」夢路は呆れたように言った。「人の謝意は素直に受け取りなさい。感謝したこっちが馬鹿みたいじゃな――痛っ」
足を動かした瞬間、夢路は短い悲鳴を漏らした。体勢を崩し、近くの電柱にもたれかかる。
「あら大変」不審者は夢路に歩み寄った。「大丈夫?」
「転んだときひねったみたい」
「なんで早く言わないの」不審者は心配そうに言った。「歩ける?」
「肩を貸してくれれば」
「それはいいけど――」
「わかってるわよ。二人とも手が塞がる」
不審者は左手にビニールバッグを提げていた。もう片手には傘。夢路も右手で傘をさしている。肩を組んで支えるなら、手が足りない。
「相合い傘する?」
「ささなくても、傘は持たないといけないでしょ」
「それもそうね」不審者は困ったように言った。「そういえば、りんごは?」
「そこのボブちゃんが拾ったわよ。ぶつかったとき手放しちゃったみたいだけど」
そういえば、気づいたらりんごを手放していた。反射的に辺りを見回すが、どこにも見当たらない。
「じゃあ、いまごろ坂の下ね」不審者は深刻な声音で言った。「せめて無事だといいけど。せっかく丹精込めて作ったのに車に踏み砕かれたんじゃ救われないわ」
「いいわよ、別に。ひとつくらい」夢路は言った。「それに、りんごだってむしろ名誉なはずよ。夢路の身代わりにその身を捧げたんだから」
「そう? だといいんだけど」
「落としたりんごの話はもういいでしょう。それより、いま持ってるりんごよ」夢路は不審者のバッグを示した。「このバッグ、どうするの?」
「そうねえ、コートだから肩にかけてもずり落ちてきちゃうし」
「まったく、元はと言えばそれが元凶なのよ。あのとき、りんごを落とさなければ――」
「落としたりんごより、いま持ってるりんごなんでしょう?」
「……それはそうだけど、どうするの?」
「そうね、どこかに余分な腕があるといいんだけど――」
「あの――」知佳が声をかけると、二つの顔が振り向いた。
知佳、知佳と、脳内でアラートが鳴る。
また厄介ごとに首を突っ込む気じゃないだろうね。それどころではないはずだ。そうだろう?
夢路とぶつかったのも、りんごを落としたのも、君の過失ではない。恩も負い目も感じる必要はないんだ。
なのに、知佳、いったい何を気にしている?
「何、あなた、まだいたの?」夢路があきれたように言う。「ホントにボーっとしてるのね。傘もささずに突っ立って馬鹿みたいよ」
「もしかして」不審者は少し小首を傾げ、「空いてる腕に心当たりがあるのかしら?」
「え、うん」
「まあ、それはどこにあるの?」
知佳は自らの左腕を示した。
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