放課後のタルトタタン~穢れた処女と虚ろの神様~

戸松秋茄子

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第三部 不浄

45 闇の奥《ハート・オブ・ダークネス》

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 すぐ耳元でスマートフォンの通知音が聞こえた。

 どのくらい眠っていたのだろう。部屋の照明が点いている。壁掛け時計は六時過ぎの時間を示している。午前か午後か、それすらもわからない。

「知佳ちゃん? まだ寝てるの?」

 おばさんの声が聞こえる。そうだ、わたしは市川知佳。ここは彩都市の市川家だ。東京で暮らす次女つぐみの部屋――

「ご飯できたわよ」おばさんがドアを開いた。人の好い人相に不安の影がよぎる。「どうしたの? ひどい顔」
「……アヤちゃんは?」知佳は体を起こし、部屋を見渡した。ローテーブルの上はすでに片付いている。アヤの荷物も見当たらない。
「帰ったわよ。そのときから寝てたの?」
「あー、ううん。思い出した」知佳は答えた。「すぐ行く」

 おばさんがドアを閉めると、知佳は立ち上がった。眩暈。頭がずきずきと痛む。枕元に転がっていたスマートフォンを手に取った。メッセージを確認する。

   明日の放課後また特訓に付き合ってくれる?

 蒼衣だ。

 バレンタインまでもう数日だ。練習しておきたいのだろう。

 知佳は返信しかけて、指を止めた。

 アヤの――夢路の話を思い出したのだ。

   *** ***

 そう。あの子たちから聞いたことはないかしら。六花の最後のあがき、《D文書》のことを。

 あの子は歴代のOG――それも記録に残っていないUFO事件以前の巫女を探し、訪ね歩いた。一種のフィールドワークね。そうしてりんご様という信仰の歴史を集成した。

 いいえ、何も。

 何もわからないということが書いてある。ただ、あの子はそこに希望を見出そうともしていた。

 そう。神隠しに会った人間を元に戻す方法、その仮説を。

 もちろん、そんなものないわよ。あの子にもそう言ったんだけどね。でも、あの子にはもうそれしかなかった。自分が消えたとき、カナたちが自分を戻してくれる可能性に賭けるしか。

 六花は歴代の巫女に何か方法がないか尋ねた。もちろん、そんなものを知っている巫女はいない。だけど、その可能性を模索したのは六花が最初でもなかった。
 六花はその子とも会った。
 その子は現役時代に、いろんなものを祠に捧げたわ。本物のりんご、それも贈答用の高級なものだったり、和りんごを持ってくることもあった。もちろんだからって何かが変わるわけでもない。夢路としてはりんごが偽物だろうが本物だろうがどっちでもよかったし。大切なのは気持ちだもの。

 その子はやがてある発想に至った。
 りんごはそもそも心臓の代替だった。ならば、真に捧げるべきは人間の心臓ではないかと。
 もちろん、だからって人間の心臓なんて一介の女子高生が手に入れられる代物じゃない。精肉店で食肉として売られている心臓を持ってくるのが関の山だった。

 六花はそれを聞いて、尋ねた。人間の心臓を供えたらどうなってたと思いますかって。
 もちろん、その子には答えようがない。その他の巫女も、当然そう。
 だからこそ、それがあの子の希望になった。誰も試した者がいないということは、そこに可能性がある。手つかずの希望があるってね。人間の心臓を捧げることで、神隠しに遭った人間を返してくれるのではないかという希望が。
 まったく、悪趣味よね。誰も彼も夢路をそういう目で見る。血に飢えた怨霊みたいに。人間の心臓なんて捧げられたところで、嬉しくもなんともないのに。

 だけど――、六花はそれにすがるしかなかった。
 何もね、あの子も本気で誰かの心臓を手に入れようとか考えてたわけじゃないわよ。ただ可能性を追求している間は恐怖に屈さずにすんだというだけ。

 そして、六花はある古い世代の依代にたどり着いた。わざわざ山梨の老人ホームまで会いに行ってね。その子と話した。
 その子は六花に話した。
 りんご様の歴史で唯一、人間の心臓を供物の捧げようとした例について。
 もうずっとむかしのことよ。その子の代よりもさらに前。

 その娘には婚約者がいた。両家の親が決めたことだった。いわゆる政略結婚だけれど――その娘は相手の男を幼い頃から慕っていた。結婚は本望だった。
 だけど、その相手には別に想い人がいた。娘もあるとき、そのことに気づいてね。その日は、泣き暮れたそうよ。
 男の想い人は、娘の親友でもあった。同級生だったの。その親友も男のことを愛していた。叶わぬ恋と知りながら。
 娘は思い悩んだ。このまま大人になれば自分は彼と結婚する。だけどそれは、彼も親友も不幸にする結婚だって。
 そしてある日、親友は忽然と姿を消した。突然、天狗にでも拐われたように。
 りんご様に消された。
 娘は――憔悴する想い人を見ていられなかった。だから、彼に告げた。自分の心臓を使ってほしいと。
 彼はもちろん拒んだ。不確かな話だしね。だけど、娘の決心は固かった。
 だから――

 後は言わなくてもわかるでしょ。娘は自ら毒を呷ることにしたの。そしてそれを彼にだけ告げ、死後に自分の心臓を取り出し捧げる――そういう計画を立てた。

 迷惑極まりないでしょう。それにとんだ大馬鹿者よ。だってそんなことしたって何の意味もないんだから。

 その話を、六花は聞いた。
 聞いてDに記した。そのはずなんだけどね。

 けっきょく六花はその方法に代わる希望を見つけることはできなかった。Dもそう結論付けられてる。
 だけど、あの子は、「それは語り手が直接見聞きしたことではない」とも書き残していた。つまり、夢路が嘘をついた可能性もあると。
 文書は瑞月たちの手に渡ったはずよ。カナもそれを認めてるわ。

 やっぱり、あなたは知らないみたいね?
 ねえ、なぜだと思う?
 なぜ、あの子たちは話さなかったんだと思う?
 Dのことを。
 供物にまつわる実験、神隠しに遭った人間を戻す方法のことを。

 知られたら、何か困ることでもあるのかしら。
 たとえば、そうね――

   *** ***

   明日の放課後また特訓に付き合ってくれる?

 知佳の指は止まったままだ。メッセージにはもう「既読」がついた。蒼衣にも、知佳がこのメッセージを読了済みであることが伝わる。

 返事をしなければならない。

 しかし、――

 ――あの子たちがどれほど六花を慕っていたかはもう知ってるでしょう? だったら、あの子を取り戻すためなら何をしたっておかしくはない。そうは思わない? それがたとえ絶望的な賭けでも、試そうとするとは思わない?

 人目につかないよう招かれたことに別の意図が――

 ――カナの家は大家族で、瑞月の家はタワーマンションでしょう? だから、としたら蒼衣の家でしょうね。家主が留守にしがちな、庭付きの一軒家。それに大型犬だっている。にはうってつけでしょう。

 冷蔵庫が空だったことに別の意図が――

 ――都合がいいことにあなたは小柄だしね。一度にはできなくても隠すのは比較的容易だし、最終的な処理だってその分早く済む。蒼衣は不器用だけど、なにせミステリ作家の娘だもの。という知識くらいはあるし、父親の書斎で調べることだって可能なはず。実際の作業はカナたちも手伝うでしょうし。

 知佳が眠ってしまったことに別の――

 ――目的があくまで心臓だけなら、睡眠薬でも使って眠らせて拘束したうえで浴槽にでも沈めるのが容易でしょうね。精々、気をつけなさい。出されたものに何が入ってるかわかったものじゃないわよ。

 何を馬鹿なことを。

 現に自分はこうして生きているというのに。

 ――あなたが転校してきた日のこと? 何言ってるの、あの子たちは担任の楓とつながってたのだから、転校生が来ることくらい知っててもおかしくないでしょ。《魔女》がどうだっていうのだって、狂言かもしれないじゃない。あなたの住所や通学路、背格好だって教えられていたかもしれない。あの日の朝、あなたがあの場所を通ることも最初からわかってて、待ち伏せしたのかも。ぶつかったのは偶然かもしれないけどね、あなたの近くですっ転びでもすれば、似たような展開になってたんじゃない? 事故を装ってあなたと接触し、瑞月が偽の夢路を演じる。いわば伏線を張ったわけね。いきなり巫女だの依代だのと言われても、あなたも実感が沸かないでしょ。だけど、あらかじめ夢路という人格を認知していたならば、しかもその機会が純然たる偶然であったならば、無視はできない。普通に考えたら、説明がつかない状況だもの。そこに筋の通る説明を――つまり瑞月が夢路を宿しているという説を設けてやれば、信じるとまではいかなくとも、関心くらいは引けたでしょう。そして実際にそうなった。違う? あなたはまんまと罠にかかったというわけ。

 しかし、どうだろう、知佳ソフィというものがある。
 彼女たちは血に飢えた殺人鬼ではない。法と良心の支配を受けている。思いつきひとつで一線を越えられるものでもないだろう。一度や二度からといって何の不思議がある? これから三度目、四度目の機会がないとどうして言える?

   ごめん

 知佳はメッセージを送信した。すぐに既読がつく。
 続く言葉を送信しようとするが、手が震えてうまくできない。深呼吸を繰り返しながら入力する。

   明日は予定があるの

 間髪入れず返信があった。軍隊風に敬礼するウサギのスタンプだ。「ラジャー」という台詞が入っている。

   ごめん
   もう一回くらい付き合えるといいんだけど

 なぜだろう、そんなメッセージを送ってしまった。

 社交辞令だ、と知佳は自分に言い聞かせる。ただの定型的な断り文句。それ以上でもそれ以下でもないし、何を約束したことにもならない。

 知佳はスマートフォンをベッドの上に投げ出した。自分も再度、横になる。
 仰向けになり、天井を見上げた。回り続けるシーリングファンと、ウォールステッカーの小鳥たちを眺めながら考える。

 いまはまだ何もわからない。
 判断なんてしようがない。

 だから――
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