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#23 What are you doing now ?
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#23 What are you doing now ?
湊はほとんど表情を変えず、アルコールで真っ赤に充血した目をまっすぐ香夏子に向けていた。瞬きの回数が通常よりも多いのは答えを迷っているせいだろうか。
「香夏子には関係ない」
しばらくしてから湊は呟くように言った。
「そんなことないよ。親友の好きな人を知らないなんて……」
香夏子は必死に食い下がったが、途中で言葉に詰まった。親友の好きな人を知らなくても親友には違いない。むしろ親友だから彼女のすべてを知っていなければならないという考え方は香夏子の好みではない。失言だったと後悔していると湊が口を開いた。
「香夏子の知らない人だよ。それに今じゃ好きなのかどうかもよくわかんない。くされ縁っていうか、同情っていうか……。それにヤツには女いるしね」
つまらなさそうな声で湊は言った。それから勢いよくグラスをあおる。一気に飲み干すとまたブザーを押した。
香夏子はその様子をただじっと見つめていることしかできなかった。
「やだな、そんな顔しないでよ。だから言いたくなかったんだって。香夏子と違って、私の幼馴染は最低最悪のオトコなの。彼女いるうちはいいんだ、連絡してこないから。でも……」
そこで湊は胸の内の辛いものを全て吐き出すように深くため息をついた。
「ひとりになると寂しいからって電話してきて、ホント、もう私のことなんか嫌いになって忘れてくれればいいのにって思う。……でも、もし本当にこの先連絡が来なくなったらって思うと……」
ポロリと湊の目から涙がこぼれる。
「だからひとりになりたくないの。怖いんだもん。もうヤツとは未来も何もないのに、それでも私、それでもいいからやっぱり会いたいってどこかでずっと思ってるの。嫌なのよ、もう、こんなの……」
抑えきれない激しい想いが涙になって、音も立てずに湊の頬を滑り落ちた。
香夏子はバッグからハンカチを出す。
「ごめん、何も知らなくて……」
首を横に振りながら湊は香夏子の手からハンカチを受け取り涙を拭いた。
「香夏子に言ったらちょっとすっきりした。ごめん、変な話聞かせて。ホント、バカだよね、私」
「そんなことないよ」
「ああ、だから私ね、香夏子が聖夜くんと上手くいけばいいなってずっと思ってたんだ。初恋の人との恋が成就するっていうのが私の憧れだったから」
内心かなりの衝撃を受けていたが、香夏子は静かに視線を落とすことくらいしかできなかった。
高校時代から自分よりもはるかに大人っぽくて、明朗な性格で、いつでも周囲への気配りを欠かさない湊を、少しだけ羨ましく、だが親友として誇りに思っていた香夏子にとっては、湊にそんな相手がいたことだけでも驚愕の事実だった。
(今の話だけで相手の人を想像するのは難しいけど……)
理由はわからないが、湊の言い方から察するに彼女の幼馴染とはハッピーエンドの可能性が絶たれているようだ。それでも想いを断ち切れないという湊の気持ちは香夏子にもわかる。
「でも最近思うの。やっぱり聖夜くんはやめておいたほうがいいんじゃないかって」
湊の言葉で香夏子は我に返った。
「どうして?」
聞き返す声が少し震えた。理由が聞きたいわけではないのに、それでも問わずにはいられない。
「だって香夏子のことが大事だったら、いなくなったりしないでしょ、普通。しかも秀司が香夏子のそばにいるのに、聖夜くんって何考えてるの?」
突然、心の底から激しい憤りがマグマのように煮え立ってくる。当然それを一番知りたいのは香夏子なのだ。だが、他人に聖夜を悪く言われるのはそれ以上に嫌だった。
「聖夜くんが香夏子を幸せにしてくれるとは思えない」
「そんなこと、もうどうでもいいの!」
「香夏子……」
途端に湊は気まずい表情をした。
「誰かに幸せにしてもらおうっていう他力本願な考えが間違っていたと、やっとわかったの。それに私、わかるもん」
向かい側からじっと見つめてくる湊の視線を受け止めながら、香夏子は大丈夫だと自分自身に言い聞かせた。
「全部じゃないけど、聖夜の気持ちも少しはわかるから」
湊は頬杖をついて真横を向いた。しばらく何かを考えているようだったが、また香夏子に視線を戻すと諦めたような笑みをこぼした。
「やっぱり他人の恋に口出しは無用だよね。私ってホント、バカだなぁ」
そんなことはないと懸命に首を横に振って見せると、湊はずるずるとテーブルの上に崩れ落ちた。
「心配してくれてありがとう」
「こっちこそ余計なこと言ってごめん」
気持ちよさそうに目を閉じた湊を見て、香夏子は慌てて声を掛ける。
「湊、こんなところで寝たらダメだよ。置いて帰っちゃうよ」
反応がない。
湊の顔を覗き込むと口元に微笑を浮かべて幸せそうにまどろんでいる。まずいと思い、肩を揺すった。
「ちょっと、寝ないでよ」
「寝て……な……」
(あ! 完全に寝た!)
あっという間に眠りの世界へ旅立った湊を数分観察していたが、このままではどうしようもない。湊よりも身体の小さい香夏子には彼女を背負って店を出るのは至難の業だ。仕方なくバッグからケータイを取り出してメールを打つ。
送信する前に一度顔を上げて、湊を見た。
(王子様が必要なのは、きっと私じゃなくて……)
ボタンを押すと香夏子はひとりで笑いを噛み殺した。
(ま、あれが王子様かどうかはちょっと微妙なところだけど)
すぐに返信が来た。それを確認するとバッグにケータイをしまう。
ふと、居酒屋に来る前の研究室でのやり取りを思い出し、香夏子は大きくため息をついた。もし湊から電話が来なかったら、秀司になんと答えていたのだろうか。
(どうしようかな……)
ぼんやりと自分のことを考えていると、上から不機嫌な声が降ってきた。
「おい、俺は忙しいと言ったはずだ」
香夏子が見上げると秀司は一瞬睨め付けてきたが、すぐに湊に視線を移し、呆れ顔で湊の肩を叩く。
奇跡的に湊がうっすらと目をあけた。
「あっれー? どうして秀司がここにいるの?」
「こんなところで熟睡するな」
「寝てないわよぉ。さぁて、それじゃあ飲み直すかぁ。ほら、秀司も座って座って」
明るい声でそう言うと、湊は少しだけ上体を起こした。だがすぐに目蓋が閉じ、また崩れ落ちるようにだらしなくテーブルの上に寝そべってしまう。
「どれだけ飲んだんだ?」
秀司は分厚くなった伝票の束をめくりながら短く嘆息を漏らすと、今度は湊の背中を叩いた。
「湊、帰るぞ」
「秀司は香夏子と二人で帰りなさいよ。私はもう少し飲んでから……」
語尾は完全に寝言になってしまい、聞き取ることができない。
香夏子と秀司は顔を見合わせた。
「何があった?」
何と言っていいかわからず、香夏子は「うん」と言ったきり黙るよりほかなかった。
「どうせまだつまらん男に関わってるんだろう。いい加減、目を覚ませ」
完全に眠っている湊に向かって秀司は冷たく言い放った。
(あ……)
香夏子はその光景を見て、慌てて目をそらす。見てはいけないものを見てしまったような気分だった。
(「どうせまだ……」って、秀司は知ってるんだ)
二人の間には香夏子の知らない何かがある。直感的にそう思った。
秀司は湊の肩を揺すったが、また熟睡してしまったようで湊はぐったりしている。
「仕方ない。担いで帰るか」
「うん」
香夏子は秀司が湊を背負うのを手伝うと支払いを済ませ、居酒屋の外へ出た。近くにタクシーが数台停車していたので先頭のタクシーに乗る。秀司は当然のように自宅の住所を運転手に告げた。
(まぁ……湊の家に連れて行っても鍵の問題があるし、ウチはワンルームだから狭くて微妙だし……)
考えてみれば当然の選択か、と思いながら香夏子は車窓の外を見た。夜道を連れ立って歩く仕事帰りらしい会社員たちの姿に違和感を抱き、香夏子は身を乗り出して運転席の時計を確認する。まだ22時前だ。週末なので道行く人の顔は、心なしか晴れやかに見えた。
タクシーが交差点を右折すると肩に重いものがのしかかってきた。湊は後部座席の真ん中に座らされ、車が曲がるたび、両脇の二人に交互に頭を預けて幸せそうに眠っている。今だけでも辛い現実のことなど忘れて、楽しい夢だけ見ていてほしいと香夏子は心の中でただそう願った。
秀司の家に到着し、湊を無事ベッドに横たえると、香夏子は「じゃあ」と言ってそそくさと玄関へ向かった。
「帰るのか」
振り返ると無表情の秀司が見下ろしていた。小さく頭を縦に振る。終電までには余裕過ぎるほどの時間があるし、ここからならタクシーでもそれほど遠くはない。
「聖夜から連絡は?」
「別に……」
「今日の、あの発言はなんだ? あれが俺に対するカナの答えか?」
香夏子は眉をひそめて何気なく靴箱の上に鎮座する犬の置物を見た。口に「WELCOME」と書かれたボードの鎖をくわえている。これも秀司の母親の趣味だろうかと思う。
「そういうわけじゃないんだけど、なんていうか……私、自分のことがこのワンコみたいだなって思ったの」
「ワンコ……?」
香夏子が指差した靴箱の上を見て、秀司は苦々しい顔をした。少し埃をかぶった犬の置物は急に注目を浴びて困っているようにも見えた。
「ごめん、もうちょっとよく考えてみる。じゃ、湊のこと、よろしくね」
ドアノブに手を掛けた。ひとりになって頭の中を整理する必要がある。
「思いつきで妙なことを言うな」
背中に聞こえてきた秀司の言葉に香夏子はただ肩をすくめて見せて、ドアの外へ出た。
今日の出来事をとりとめもなく考えながら家路に着いた香夏子は、マンションの郵便受けの前で一通の封書を手にして首を傾げた。
差出人は母親の名前になっているが、いつも手紙をくれる細長い封筒ではなくグリーティングカードが入る洋種サイズの封筒で、中身もカードが一枚入っているだけのようだ。母親からの手紙と言えば、決まって小言がびっしりと連ねられたものだったので、いつもとはあきらかに趣が違う封筒を目の前にして否が応でも胸が高鳴るのを感じつつ、自分の部屋へと急いだ。
玄関のドアを開けると乱暴にサンダルを脱ぎ捨て、バッグもベッドの上に放り投げる。そして鉛筆立てからカッターを手に取ると慎重に開封した。
(なに……これ?)
中には予想通り一枚のカードが入っていた。正確にはポストカードだ。
香夏子はまず目に飛び込んできた鮮やかな青に釘付けになる。
(空……と飛行機?)
機上から撮影した空の写真のようだ。青空の真ん中に飛行機の翼が写っている。
ドキドキしながらポストカードを裏返した。
実家の住所と香夏子の名前がローマ字で書かれていて、見たことのない切手が貼られている。そして、差出人欄にはただ一言――
――今、何してる?
香夏子はその文字を読んだ瞬間、プッと吹き出し、すぐに心の中でツッコミを入れた。
(このポストカードを見てるに決まってるでしょ!)
それほど丁寧でもないが綺麗に並んだ読みやすい文字は間違いなく聖夜のものだ。香夏子は食い入るように宛名欄に見入った。
それからカードを鼻にくっつけて思い切り空気を吸い込む。
(やっぱ、匂いはしないか)
実家を経由しているから、むしろ実家の匂いがしそうだと気がつき、慌ててカードを鼻から遠ざけた。
実家の匂いですぐに思い出すのは洗濯物が乾いた後のふかふかとした柔らかい香りだ。クリーニング工場の裏手から熱風とともにその匂いが漂ってきて、よく聖夜と二人で裏口に張り付いていたことを思い出す。聖夜はいつも工場の中を見たがっていた。危ないし作業の邪魔だから、と子どもは入れてもらえなかったが、それでも二人で裏口の階段に座り、擦り寄ってきた近所のネコを撫で回したり、少し離れた大きな公園で拾ったどんぐりをポケット一杯に詰め込んできて意味もなく階段の上に並べたり、今思えば何が楽しかったのかよくわからない遊びを毎日飽きずに続けていたものだ。
(あれは小学生のときだったかな)
そして夕方になり、辺りが薄暗くなってくると秀司がひょっこり現れて「もう帰る時間だぞ」と腰に手を当てて偉そうに宣言した。塾や習い事で忙しい秀司が夕飯までの一瞬、ただの子どもに戻る時間だった。何も約束したわけではないが、聖夜も香夏子も秀司が来るのを待って家に戻るのが暗黙のルールのようになっていた。
それもいつの間にか過ぎ去りし日のこととなり、今は一人きりでこんなにも遠くまで来てしまった――。
香夏子はポストカードをテーブルの上にそっと置いた。
時計を見ると午前零時を回っていたので、急いでバスルームへ向かう。服を脱ごうとするとケータイがけたたましく鳴り出した。
(こんな時間に誰? それにしても今日はずいぶん電話が鳴る日だな)
と思いながら香夏子はケータイを取り出した。
「香夏子、大変なの!」
母親の切羽詰った声が耳についた。なにごとかと香夏子も身構える。普段取り乱した様子をほとんど見せない母の尋常ではない口調に、何か重大事件の予感がした。
「お母さん、落ち着いて。どうしたの?」
「茜さんが緊急入院したの」
「え?」
「急にお腹が痛くなって病院に行ったら、切迫早産だって」
「いつ?」
「今、さっき。どうしよう」
「どうって……確かまだ八ヶ月だったよね?」
妊娠の経験がない香夏子には事の重大さがよくわからない。切迫早産とはどういう状態だろうと呑気に考えていた。
「そうよ。生まれちゃったらどうしよう!」
「ええ!?」
まさか、と思うがこの件に関しては経験者の母のほうが断然詳しい。その人がここまで動揺するのは一大事だと香夏子もようやく焦り始める。
「お兄ちゃんは?」
「病院に行ってる。香夏子、明日の朝一番で来てくれない?」
「うん。朝一番は無理かもしれないけど、とにかく行くわ」
「頼んだわよ」
母は少し安堵した様子で電話を切った。
受話器を戻すと香夏子はしばらく放心する。テーブルの上のポストカードに目がいった。
(聖夜は今、何してるの?)
せめてケータイを持っていてくれればこんなとき声だけでも聞けるかもしれないのに、と恨めしく思いながら再度バスルームに向かった。
湊はほとんど表情を変えず、アルコールで真っ赤に充血した目をまっすぐ香夏子に向けていた。瞬きの回数が通常よりも多いのは答えを迷っているせいだろうか。
「香夏子には関係ない」
しばらくしてから湊は呟くように言った。
「そんなことないよ。親友の好きな人を知らないなんて……」
香夏子は必死に食い下がったが、途中で言葉に詰まった。親友の好きな人を知らなくても親友には違いない。むしろ親友だから彼女のすべてを知っていなければならないという考え方は香夏子の好みではない。失言だったと後悔していると湊が口を開いた。
「香夏子の知らない人だよ。それに今じゃ好きなのかどうかもよくわかんない。くされ縁っていうか、同情っていうか……。それにヤツには女いるしね」
つまらなさそうな声で湊は言った。それから勢いよくグラスをあおる。一気に飲み干すとまたブザーを押した。
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「やだな、そんな顔しないでよ。だから言いたくなかったんだって。香夏子と違って、私の幼馴染は最低最悪のオトコなの。彼女いるうちはいいんだ、連絡してこないから。でも……」
そこで湊は胸の内の辛いものを全て吐き出すように深くため息をついた。
「ひとりになると寂しいからって電話してきて、ホント、もう私のことなんか嫌いになって忘れてくれればいいのにって思う。……でも、もし本当にこの先連絡が来なくなったらって思うと……」
ポロリと湊の目から涙がこぼれる。
「だからひとりになりたくないの。怖いんだもん。もうヤツとは未来も何もないのに、それでも私、それでもいいからやっぱり会いたいってどこかでずっと思ってるの。嫌なのよ、もう、こんなの……」
抑えきれない激しい想いが涙になって、音も立てずに湊の頬を滑り落ちた。
香夏子はバッグからハンカチを出す。
「ごめん、何も知らなくて……」
首を横に振りながら湊は香夏子の手からハンカチを受け取り涙を拭いた。
「香夏子に言ったらちょっとすっきりした。ごめん、変な話聞かせて。ホント、バカだよね、私」
「そんなことないよ」
「ああ、だから私ね、香夏子が聖夜くんと上手くいけばいいなってずっと思ってたんだ。初恋の人との恋が成就するっていうのが私の憧れだったから」
内心かなりの衝撃を受けていたが、香夏子は静かに視線を落とすことくらいしかできなかった。
高校時代から自分よりもはるかに大人っぽくて、明朗な性格で、いつでも周囲への気配りを欠かさない湊を、少しだけ羨ましく、だが親友として誇りに思っていた香夏子にとっては、湊にそんな相手がいたことだけでも驚愕の事実だった。
(今の話だけで相手の人を想像するのは難しいけど……)
理由はわからないが、湊の言い方から察するに彼女の幼馴染とはハッピーエンドの可能性が絶たれているようだ。それでも想いを断ち切れないという湊の気持ちは香夏子にもわかる。
「でも最近思うの。やっぱり聖夜くんはやめておいたほうがいいんじゃないかって」
湊の言葉で香夏子は我に返った。
「どうして?」
聞き返す声が少し震えた。理由が聞きたいわけではないのに、それでも問わずにはいられない。
「だって香夏子のことが大事だったら、いなくなったりしないでしょ、普通。しかも秀司が香夏子のそばにいるのに、聖夜くんって何考えてるの?」
突然、心の底から激しい憤りがマグマのように煮え立ってくる。当然それを一番知りたいのは香夏子なのだ。だが、他人に聖夜を悪く言われるのはそれ以上に嫌だった。
「聖夜くんが香夏子を幸せにしてくれるとは思えない」
「そんなこと、もうどうでもいいの!」
「香夏子……」
途端に湊は気まずい表情をした。
「誰かに幸せにしてもらおうっていう他力本願な考えが間違っていたと、やっとわかったの。それに私、わかるもん」
向かい側からじっと見つめてくる湊の視線を受け止めながら、香夏子は大丈夫だと自分自身に言い聞かせた。
「全部じゃないけど、聖夜の気持ちも少しはわかるから」
湊は頬杖をついて真横を向いた。しばらく何かを考えているようだったが、また香夏子に視線を戻すと諦めたような笑みをこぼした。
「やっぱり他人の恋に口出しは無用だよね。私ってホント、バカだなぁ」
そんなことはないと懸命に首を横に振って見せると、湊はずるずるとテーブルの上に崩れ落ちた。
「心配してくれてありがとう」
「こっちこそ余計なこと言ってごめん」
気持ちよさそうに目を閉じた湊を見て、香夏子は慌てて声を掛ける。
「湊、こんなところで寝たらダメだよ。置いて帰っちゃうよ」
反応がない。
湊の顔を覗き込むと口元に微笑を浮かべて幸せそうにまどろんでいる。まずいと思い、肩を揺すった。
「ちょっと、寝ないでよ」
「寝て……な……」
(あ! 完全に寝た!)
あっという間に眠りの世界へ旅立った湊を数分観察していたが、このままではどうしようもない。湊よりも身体の小さい香夏子には彼女を背負って店を出るのは至難の業だ。仕方なくバッグからケータイを取り出してメールを打つ。
送信する前に一度顔を上げて、湊を見た。
(王子様が必要なのは、きっと私じゃなくて……)
ボタンを押すと香夏子はひとりで笑いを噛み殺した。
(ま、あれが王子様かどうかはちょっと微妙なところだけど)
すぐに返信が来た。それを確認するとバッグにケータイをしまう。
ふと、居酒屋に来る前の研究室でのやり取りを思い出し、香夏子は大きくため息をついた。もし湊から電話が来なかったら、秀司になんと答えていたのだろうか。
(どうしようかな……)
ぼんやりと自分のことを考えていると、上から不機嫌な声が降ってきた。
「おい、俺は忙しいと言ったはずだ」
香夏子が見上げると秀司は一瞬睨め付けてきたが、すぐに湊に視線を移し、呆れ顔で湊の肩を叩く。
奇跡的に湊がうっすらと目をあけた。
「あっれー? どうして秀司がここにいるの?」
「こんなところで熟睡するな」
「寝てないわよぉ。さぁて、それじゃあ飲み直すかぁ。ほら、秀司も座って座って」
明るい声でそう言うと、湊は少しだけ上体を起こした。だがすぐに目蓋が閉じ、また崩れ落ちるようにだらしなくテーブルの上に寝そべってしまう。
「どれだけ飲んだんだ?」
秀司は分厚くなった伝票の束をめくりながら短く嘆息を漏らすと、今度は湊の背中を叩いた。
「湊、帰るぞ」
「秀司は香夏子と二人で帰りなさいよ。私はもう少し飲んでから……」
語尾は完全に寝言になってしまい、聞き取ることができない。
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「何があった?」
何と言っていいかわからず、香夏子は「うん」と言ったきり黙るよりほかなかった。
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完全に眠っている湊に向かって秀司は冷たく言い放った。
(あ……)
香夏子はその光景を見て、慌てて目をそらす。見てはいけないものを見てしまったような気分だった。
(「どうせまだ……」って、秀司は知ってるんだ)
二人の間には香夏子の知らない何かがある。直感的にそう思った。
秀司は湊の肩を揺すったが、また熟睡してしまったようで湊はぐったりしている。
「仕方ない。担いで帰るか」
「うん」
香夏子は秀司が湊を背負うのを手伝うと支払いを済ませ、居酒屋の外へ出た。近くにタクシーが数台停車していたので先頭のタクシーに乗る。秀司は当然のように自宅の住所を運転手に告げた。
(まぁ……湊の家に連れて行っても鍵の問題があるし、ウチはワンルームだから狭くて微妙だし……)
考えてみれば当然の選択か、と思いながら香夏子は車窓の外を見た。夜道を連れ立って歩く仕事帰りらしい会社員たちの姿に違和感を抱き、香夏子は身を乗り出して運転席の時計を確認する。まだ22時前だ。週末なので道行く人の顔は、心なしか晴れやかに見えた。
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秀司の家に到着し、湊を無事ベッドに横たえると、香夏子は「じゃあ」と言ってそそくさと玄関へ向かった。
「帰るのか」
振り返ると無表情の秀司が見下ろしていた。小さく頭を縦に振る。終電までには余裕過ぎるほどの時間があるし、ここからならタクシーでもそれほど遠くはない。
「聖夜から連絡は?」
「別に……」
「今日の、あの発言はなんだ? あれが俺に対するカナの答えか?」
香夏子は眉をひそめて何気なく靴箱の上に鎮座する犬の置物を見た。口に「WELCOME」と書かれたボードの鎖をくわえている。これも秀司の母親の趣味だろうかと思う。
「そういうわけじゃないんだけど、なんていうか……私、自分のことがこのワンコみたいだなって思ったの」
「ワンコ……?」
香夏子が指差した靴箱の上を見て、秀司は苦々しい顔をした。少し埃をかぶった犬の置物は急に注目を浴びて困っているようにも見えた。
「ごめん、もうちょっとよく考えてみる。じゃ、湊のこと、よろしくね」
ドアノブに手を掛けた。ひとりになって頭の中を整理する必要がある。
「思いつきで妙なことを言うな」
背中に聞こえてきた秀司の言葉に香夏子はただ肩をすくめて見せて、ドアの外へ出た。
今日の出来事をとりとめもなく考えながら家路に着いた香夏子は、マンションの郵便受けの前で一通の封書を手にして首を傾げた。
差出人は母親の名前になっているが、いつも手紙をくれる細長い封筒ではなくグリーティングカードが入る洋種サイズの封筒で、中身もカードが一枚入っているだけのようだ。母親からの手紙と言えば、決まって小言がびっしりと連ねられたものだったので、いつもとはあきらかに趣が違う封筒を目の前にして否が応でも胸が高鳴るのを感じつつ、自分の部屋へと急いだ。
玄関のドアを開けると乱暴にサンダルを脱ぎ捨て、バッグもベッドの上に放り投げる。そして鉛筆立てからカッターを手に取ると慎重に開封した。
(なに……これ?)
中には予想通り一枚のカードが入っていた。正確にはポストカードだ。
香夏子はまず目に飛び込んできた鮮やかな青に釘付けになる。
(空……と飛行機?)
機上から撮影した空の写真のようだ。青空の真ん中に飛行機の翼が写っている。
ドキドキしながらポストカードを裏返した。
実家の住所と香夏子の名前がローマ字で書かれていて、見たことのない切手が貼られている。そして、差出人欄にはただ一言――
――今、何してる?
香夏子はその文字を読んだ瞬間、プッと吹き出し、すぐに心の中でツッコミを入れた。
(このポストカードを見てるに決まってるでしょ!)
それほど丁寧でもないが綺麗に並んだ読みやすい文字は間違いなく聖夜のものだ。香夏子は食い入るように宛名欄に見入った。
それからカードを鼻にくっつけて思い切り空気を吸い込む。
(やっぱ、匂いはしないか)
実家を経由しているから、むしろ実家の匂いがしそうだと気がつき、慌ててカードを鼻から遠ざけた。
実家の匂いですぐに思い出すのは洗濯物が乾いた後のふかふかとした柔らかい香りだ。クリーニング工場の裏手から熱風とともにその匂いが漂ってきて、よく聖夜と二人で裏口に張り付いていたことを思い出す。聖夜はいつも工場の中を見たがっていた。危ないし作業の邪魔だから、と子どもは入れてもらえなかったが、それでも二人で裏口の階段に座り、擦り寄ってきた近所のネコを撫で回したり、少し離れた大きな公園で拾ったどんぐりをポケット一杯に詰め込んできて意味もなく階段の上に並べたり、今思えば何が楽しかったのかよくわからない遊びを毎日飽きずに続けていたものだ。
(あれは小学生のときだったかな)
そして夕方になり、辺りが薄暗くなってくると秀司がひょっこり現れて「もう帰る時間だぞ」と腰に手を当てて偉そうに宣言した。塾や習い事で忙しい秀司が夕飯までの一瞬、ただの子どもに戻る時間だった。何も約束したわけではないが、聖夜も香夏子も秀司が来るのを待って家に戻るのが暗黙のルールのようになっていた。
それもいつの間にか過ぎ去りし日のこととなり、今は一人きりでこんなにも遠くまで来てしまった――。
香夏子はポストカードをテーブルの上にそっと置いた。
時計を見ると午前零時を回っていたので、急いでバスルームへ向かう。服を脱ごうとするとケータイがけたたましく鳴り出した。
(こんな時間に誰? それにしても今日はずいぶん電話が鳴る日だな)
と思いながら香夏子はケータイを取り出した。
「香夏子、大変なの!」
母親の切羽詰った声が耳についた。なにごとかと香夏子も身構える。普段取り乱した様子をほとんど見せない母の尋常ではない口調に、何か重大事件の予感がした。
「お母さん、落ち着いて。どうしたの?」
「茜さんが緊急入院したの」
「え?」
「急にお腹が痛くなって病院に行ったら、切迫早産だって」
「いつ?」
「今、さっき。どうしよう」
「どうって……確かまだ八ヶ月だったよね?」
妊娠の経験がない香夏子には事の重大さがよくわからない。切迫早産とはどういう状態だろうと呑気に考えていた。
「そうよ。生まれちゃったらどうしよう!」
「ええ!?」
まさか、と思うがこの件に関しては経験者の母のほうが断然詳しい。その人がここまで動揺するのは一大事だと香夏子もようやく焦り始める。
「お兄ちゃんは?」
「病院に行ってる。香夏子、明日の朝一番で来てくれない?」
「うん。朝一番は無理かもしれないけど、とにかく行くわ」
「頼んだわよ」
母は少し安堵した様子で電話を切った。
受話器を戻すと香夏子はしばらく放心する。テーブルの上のポストカードに目がいった。
(聖夜は今、何してるの?)
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