18 / 31
三章 ランの誇り
第十八話
しおりを挟む
3
日付は八月の十四日になっていた。コリネロスの言った満月の日は、もう四日後まで迫っていた…。
あれから――あれから私はほとんど塔から一歩も外に出る事は無かった。食事とわずかな雑事以外の時は部屋でベッドの上に横たわりながら外を見たりしていた。ふと考えに沈んでしまうと、必ずひたひたと押し寄せる、先行きの見えない不安に恐れを抱き、自分が虚ろになる。
こないだリィディが私の部屋に来た時、魔女の定めについての話をした。
魔女の道を捨てる者、は他の魔女と一緒にいつまでも暮らしていてはいけないのだという。魔女を捨てるという事は、魔女という存在ではなくなるという事。魔女だけが住まう魔女の聖域に、魔女を捨てた者はいる事はできない。
それが魔女の、魔女を捨てる者の定め。その決断を次の満月までにしなければならない。
人間だって色々なものに縛られ、とらわれている。私達魔女はそれよりももっともっと多くの定め、禁忌と呼ばれるものに縛られて生きなければならないんだ。
魔女は人間が及びもつかないような精霊力、魔力をその身に宿している。それを維持するのも定めや禁忌が条件となる儀式を済ませているからで、それを破れば儀式の効果は無くなるらしい。
「よく一人で考えてみて。答えをすぐに出してしまうような事はしないで」
それがリィディが私に言った言葉だ。その後リィディは特に私に何かを言う事はなかった。コリネロスもそうだった。二人はまったくいつも通りの生活をしながら時折私に寂しげな眼を送るだけで、私の迷いには手を出そうとはしなかった。塔の中には重苦しい雰囲気が漂った。
*
八月の十五日。
その日は朝から曇り空で、夜には雨が降るかと思われた。そんな釈然としない天気を察してか、窓の外で鳴くセミの声もやや元気がないような気がする。
答えの見えない迷いに、段々と気持ちがくさくさし始めてきた私の心を表したような嫌な雲だった。
「今日はコリネロスはいないわよ」
料理の盛られた食器を並べながら、リィディは言った。
「仕事?」
「ええ、そうらしいわよ。近々魔女の会合があるらしいの。私もあさっては仕事にでなきゃ…もちろんランの決断の日までには帰って来るわよ。ランがどんな答えを出すのか、私にとってはすごく大事な事だから」
「そっか…」
私はスープをすすりながらつぶやいた。忽然と行き場の無い事の苛立ちと焦りが、私の中に黒い炎をあげさせた。それは嫉妬という感情に最も近かったかもしれなかった。
「リィディはいいわね。私なんかと違って何でもうまくやれるもの。仕事をしたって辛い事なんてないんでしょう」
「ラン」
リィディは食事の手を止め、はっとしたような表情で私を見た。
「私、リィディみたいになれたらなあって、ずっと思ってた。魔法だって、料理だって!…でも、私は結局私でしかないもの。リィディとは違う。リィディみたいにいい魔女にはなれない」
「……」
リィディは黙って席を立つと、私の席の後に廻って私の肩に手を置いた。
「そんな事…」
「や、やめてよ!」
私ははね飛ぶようにその手を振り放した。
「なんで…なんでリィディはそんなに大人なのよ!それが私にとっては辛い時だってあるの!リィディに私が助けてもらう時は、いつもいつも私がリィディみたいにはなれないって感じる時なんだもの!」
「ラン!」
「そんな事をいつも感じなければならないのだったら、私はやっぱりいっその事誰もいない所に行くべきなんだわ!誰も私を必要となんてしてくれない!
私はこ、こんなに困った、嫌な女なのだもの!リィディだってそのうち私を嫌いになるわよっ!」
バシッ!
頬に鋭い痛みが走った。
「ランが私と同じになる必要なんてないでしょうに――」
リィディが私の頬を張った。
「ぶ、ぶったわね…」
「……」
「ウ…ウ…」
私は席を立ち上がるとリィディを押しのけて自分の部屋に戻った。ぶたれた頬はじんじんとして熱かった。机に突っ伏してまた、泣いた――。
*
八月の十六日。満月まで三日。
その日やはり、昼を過ぎた頃から雨が降り始めた。初めぽつぽつと降っていた雨はやがて強風を伴い、雨脚を強くした。
「嵐――?」
私は窓を閉めると、ガラス越しに外を覗いた。強風で木々が煽られる。昼過ぎだというのに薄暗い、分厚く黒い雲の狭間から、ごろごろと音が響く。雷も鳴っている。がたがたと音を鳴らして震える窓ガラスの音がやけに寂しく、恐ろしくて私は部屋を出た。
「リィディ」
部屋を出ると階段を上ってくるリィディとあった。
「ああラン、どうやら嵐みたいね。空の精霊が狂ったように外を飛び廻っている。窓を全部閉めて、しっかりと鎧戸も閉めなくてはならない。ランも手伝って」
「わかった――」
昨日の事が未だに謝れない自分が、何て子供で嫌だろうと思える。リィディはもう気にしないで普通に接してくれているというのに――。
ようやく全ての窓を閉めきり、私達は窓から吹き込んだ雨にその服を濡らしながら食堂へ行った。
タオルで濡れた部分を拭いていると、リィディがコーヒーを入れてくれた。
「随分降っているわねぇ」
「…昨日はごめん。リィディ」
熱いコーヒーカップを両手で囲みながら、私はつぶやいた。
「いいのよ」リィディは笑って私の前の席に座った。
二人で静かにコーヒーを飲んでいた。
ゴーゴーと吹きすさぶ嵐の音が、鎧戸を通して聞こえる。オレンジ色のランプの光が、いつもよりも心持ち頼りなげにちろちろと揺れていた。
「満月まで後三日ね…」
「…」
「本当に魔女を――やめるの?」
「…私は――」
言いかけて私は止まってしまった。まだはっきりと私の中で答えが出たわけではない。
逃げたままでいいのだろうか。とも考える事はある。アバンテは自分の家族の抱えた問題に押し潰されないで、明るかった。私に悩みを打ち明けても、それに向かっていこうとした。
だけど…私はそのアバンテからも恐怖される魔女で…。
その時塔の外で大音響がした。
「キャッ」
「すごい音ね…どこかに雷が落ちたのかしら…」
(ゴン、ゴン、ゴン…)
(あれ…)
一向に収まる気配のない嵐の音の中、私にはかすかな音が聞こえたような気がした。
(ゴン…ゴン…)
「…リィディ」
「――何?どうかした?」
「…何か、音がしない?」
「音――」
(ゴン、ゴン…)
「あら…本当ね。下…」
それは降りしきる雨の中、注意を怠っていては聞こえぬほどの音だった。食堂の下、階段の底から今は小さくだがはっきりと音が聞こえる。入り口の木製のドアを叩く音だ。
「コリネロス?」
私はふと雨に濡れながら締め切られたドアを叩くコリネロスの姿を想像した――。
「それはないと思うけれど…今日は帰ってこないってはっきりと言っていたもの…とにかく下に行ってみよう」
「うん」私とリィディは急ぎ階段を降り一階のホールに出た。
ゴンゴン…ゴン…。
やっぱり誰か外でドアを叩く人がいる。突然の謎の来訪者に、私達の胸は得体の知れぬ恐怖で弾けそうだった。
「だ、誰――?」
ゴン…ゴン…ゴッ…ズ、ズズズ…。
しかしその問いには言葉が返ってくる事はなく、今までに増して強い音――何かがドアにぶつかり、ずり落ちるような音がしただけで、後にはドアを叩く音もなくなってしまった。
「…開けるわ」
リィディがこっちに目配せをしながら用心深い手つきでドアのかんぬきを外した。中側に開く形になっているドアを開けると、一斉に雨と風とが舞い込む。
「キャッッッ!」
と、同時にごろりと倒れ込んだ、黒い影!
*
「…男の…人…」
ドアを空けて倒れ込んだその影は、男の人だった。長く背あたりまで伸ばした黒髪が雨に濡れそぼって、海藻の様に顔を覆い隠している。男の人にしては白い肌に、上品そうな服装をしていた。
突然の出来事にもようやく我に返ると、私は反射的にその人を引きずって中に入れた。気を失っている――。
雨が入り込むのでドアの外を見回して確認をした後、閉めてかんぬきを再び掛けた。
奇妙な事にこういった不測の事態に頭の回転の早いはずのリィディは動かなかった。それどころかその男の人を見るなり、顔面は蒼白になり肩は震え始めたようだったのだ。
「リィディ、この人を知っているの…?」
「……」
苦痛そうな、しかもそれだけでは済まされない複雑な感情を秘めた表情をしたリィディは、やっとの事で首をかすかに横に振った。
「――と、とにかく、このままでは肺炎になってしまうわね、私の部屋に運びましょう」
「うん」
私達は男の人を担ぐと、三階のリィディの部屋まで運んだ。
とりあえず上半身のびしょぬれの服を脱がせて、頭と身体を拭いた。その後大き目のセーターを着せて、部屋のベッドに布団を目一杯かけて寝かせる。リィディはそれらの動作をてきぱきとこなしていたけど、心ここにあらずといった体で、どこか遠くを見るような虚ろな眼でいた。
暖炉に薪を沢山入れた。私達もドアを開けた時に少し濡れていたので、そうしてようやくひとごこちが着いた。
「……」
「ああ、ラン、私達も着替えよう。私は部屋の服に着替えるから、あなたも一旦自分の部屋で着替えなさい」
「わかった」
私は自室に向かうべく部屋のドアを開けた。ドアを閉める時に見たリィディは、しかしまるきり着替えようともせず、ただただ男の人を虚ろな表情で見ていたのだった。
部屋に戻り薄手のクリーム色の服に着替えると、私は再びリィディの部屋に戻った。
私が部屋に入ると、リィディはようやく新しい服に袖を通した所だった。
男の人は依然気を失ったまま、だけどドアの前で倒れた時よりかはいくぶんか顔に赤みが戻っている。濡れた髪を拭きあげて後頭部にかきあげたので、男の人の顔ははっきりと見えた。
年の頃は二十五歳くらいだろうか、鼻筋が通っていて、その下で何か悪い夢でも見ているのか、引き締まった唇がわずかに歪められていた。端整な男の人だ。
私達はベッドの脇に椅子を持ち寄り、男の人を見つめた。
日付は八月の十四日になっていた。コリネロスの言った満月の日は、もう四日後まで迫っていた…。
あれから――あれから私はほとんど塔から一歩も外に出る事は無かった。食事とわずかな雑事以外の時は部屋でベッドの上に横たわりながら外を見たりしていた。ふと考えに沈んでしまうと、必ずひたひたと押し寄せる、先行きの見えない不安に恐れを抱き、自分が虚ろになる。
こないだリィディが私の部屋に来た時、魔女の定めについての話をした。
魔女の道を捨てる者、は他の魔女と一緒にいつまでも暮らしていてはいけないのだという。魔女を捨てるという事は、魔女という存在ではなくなるという事。魔女だけが住まう魔女の聖域に、魔女を捨てた者はいる事はできない。
それが魔女の、魔女を捨てる者の定め。その決断を次の満月までにしなければならない。
人間だって色々なものに縛られ、とらわれている。私達魔女はそれよりももっともっと多くの定め、禁忌と呼ばれるものに縛られて生きなければならないんだ。
魔女は人間が及びもつかないような精霊力、魔力をその身に宿している。それを維持するのも定めや禁忌が条件となる儀式を済ませているからで、それを破れば儀式の効果は無くなるらしい。
「よく一人で考えてみて。答えをすぐに出してしまうような事はしないで」
それがリィディが私に言った言葉だ。その後リィディは特に私に何かを言う事はなかった。コリネロスもそうだった。二人はまったくいつも通りの生活をしながら時折私に寂しげな眼を送るだけで、私の迷いには手を出そうとはしなかった。塔の中には重苦しい雰囲気が漂った。
*
八月の十五日。
その日は朝から曇り空で、夜には雨が降るかと思われた。そんな釈然としない天気を察してか、窓の外で鳴くセミの声もやや元気がないような気がする。
答えの見えない迷いに、段々と気持ちがくさくさし始めてきた私の心を表したような嫌な雲だった。
「今日はコリネロスはいないわよ」
料理の盛られた食器を並べながら、リィディは言った。
「仕事?」
「ええ、そうらしいわよ。近々魔女の会合があるらしいの。私もあさっては仕事にでなきゃ…もちろんランの決断の日までには帰って来るわよ。ランがどんな答えを出すのか、私にとってはすごく大事な事だから」
「そっか…」
私はスープをすすりながらつぶやいた。忽然と行き場の無い事の苛立ちと焦りが、私の中に黒い炎をあげさせた。それは嫉妬という感情に最も近かったかもしれなかった。
「リィディはいいわね。私なんかと違って何でもうまくやれるもの。仕事をしたって辛い事なんてないんでしょう」
「ラン」
リィディは食事の手を止め、はっとしたような表情で私を見た。
「私、リィディみたいになれたらなあって、ずっと思ってた。魔法だって、料理だって!…でも、私は結局私でしかないもの。リィディとは違う。リィディみたいにいい魔女にはなれない」
「……」
リィディは黙って席を立つと、私の席の後に廻って私の肩に手を置いた。
「そんな事…」
「や、やめてよ!」
私ははね飛ぶようにその手を振り放した。
「なんで…なんでリィディはそんなに大人なのよ!それが私にとっては辛い時だってあるの!リィディに私が助けてもらう時は、いつもいつも私がリィディみたいにはなれないって感じる時なんだもの!」
「ラン!」
「そんな事をいつも感じなければならないのだったら、私はやっぱりいっその事誰もいない所に行くべきなんだわ!誰も私を必要となんてしてくれない!
私はこ、こんなに困った、嫌な女なのだもの!リィディだってそのうち私を嫌いになるわよっ!」
バシッ!
頬に鋭い痛みが走った。
「ランが私と同じになる必要なんてないでしょうに――」
リィディが私の頬を張った。
「ぶ、ぶったわね…」
「……」
「ウ…ウ…」
私は席を立ち上がるとリィディを押しのけて自分の部屋に戻った。ぶたれた頬はじんじんとして熱かった。机に突っ伏してまた、泣いた――。
*
八月の十六日。満月まで三日。
その日やはり、昼を過ぎた頃から雨が降り始めた。初めぽつぽつと降っていた雨はやがて強風を伴い、雨脚を強くした。
「嵐――?」
私は窓を閉めると、ガラス越しに外を覗いた。強風で木々が煽られる。昼過ぎだというのに薄暗い、分厚く黒い雲の狭間から、ごろごろと音が響く。雷も鳴っている。がたがたと音を鳴らして震える窓ガラスの音がやけに寂しく、恐ろしくて私は部屋を出た。
「リィディ」
部屋を出ると階段を上ってくるリィディとあった。
「ああラン、どうやら嵐みたいね。空の精霊が狂ったように外を飛び廻っている。窓を全部閉めて、しっかりと鎧戸も閉めなくてはならない。ランも手伝って」
「わかった――」
昨日の事が未だに謝れない自分が、何て子供で嫌だろうと思える。リィディはもう気にしないで普通に接してくれているというのに――。
ようやく全ての窓を閉めきり、私達は窓から吹き込んだ雨にその服を濡らしながら食堂へ行った。
タオルで濡れた部分を拭いていると、リィディがコーヒーを入れてくれた。
「随分降っているわねぇ」
「…昨日はごめん。リィディ」
熱いコーヒーカップを両手で囲みながら、私はつぶやいた。
「いいのよ」リィディは笑って私の前の席に座った。
二人で静かにコーヒーを飲んでいた。
ゴーゴーと吹きすさぶ嵐の音が、鎧戸を通して聞こえる。オレンジ色のランプの光が、いつもよりも心持ち頼りなげにちろちろと揺れていた。
「満月まで後三日ね…」
「…」
「本当に魔女を――やめるの?」
「…私は――」
言いかけて私は止まってしまった。まだはっきりと私の中で答えが出たわけではない。
逃げたままでいいのだろうか。とも考える事はある。アバンテは自分の家族の抱えた問題に押し潰されないで、明るかった。私に悩みを打ち明けても、それに向かっていこうとした。
だけど…私はそのアバンテからも恐怖される魔女で…。
その時塔の外で大音響がした。
「キャッ」
「すごい音ね…どこかに雷が落ちたのかしら…」
(ゴン、ゴン、ゴン…)
(あれ…)
一向に収まる気配のない嵐の音の中、私にはかすかな音が聞こえたような気がした。
(ゴン…ゴン…)
「…リィディ」
「――何?どうかした?」
「…何か、音がしない?」
「音――」
(ゴン、ゴン…)
「あら…本当ね。下…」
それは降りしきる雨の中、注意を怠っていては聞こえぬほどの音だった。食堂の下、階段の底から今は小さくだがはっきりと音が聞こえる。入り口の木製のドアを叩く音だ。
「コリネロス?」
私はふと雨に濡れながら締め切られたドアを叩くコリネロスの姿を想像した――。
「それはないと思うけれど…今日は帰ってこないってはっきりと言っていたもの…とにかく下に行ってみよう」
「うん」私とリィディは急ぎ階段を降り一階のホールに出た。
ゴンゴン…ゴン…。
やっぱり誰か外でドアを叩く人がいる。突然の謎の来訪者に、私達の胸は得体の知れぬ恐怖で弾けそうだった。
「だ、誰――?」
ゴン…ゴン…ゴッ…ズ、ズズズ…。
しかしその問いには言葉が返ってくる事はなく、今までに増して強い音――何かがドアにぶつかり、ずり落ちるような音がしただけで、後にはドアを叩く音もなくなってしまった。
「…開けるわ」
リィディがこっちに目配せをしながら用心深い手つきでドアのかんぬきを外した。中側に開く形になっているドアを開けると、一斉に雨と風とが舞い込む。
「キャッッッ!」
と、同時にごろりと倒れ込んだ、黒い影!
*
「…男の…人…」
ドアを空けて倒れ込んだその影は、男の人だった。長く背あたりまで伸ばした黒髪が雨に濡れそぼって、海藻の様に顔を覆い隠している。男の人にしては白い肌に、上品そうな服装をしていた。
突然の出来事にもようやく我に返ると、私は反射的にその人を引きずって中に入れた。気を失っている――。
雨が入り込むのでドアの外を見回して確認をした後、閉めてかんぬきを再び掛けた。
奇妙な事にこういった不測の事態に頭の回転の早いはずのリィディは動かなかった。それどころかその男の人を見るなり、顔面は蒼白になり肩は震え始めたようだったのだ。
「リィディ、この人を知っているの…?」
「……」
苦痛そうな、しかもそれだけでは済まされない複雑な感情を秘めた表情をしたリィディは、やっとの事で首をかすかに横に振った。
「――と、とにかく、このままでは肺炎になってしまうわね、私の部屋に運びましょう」
「うん」
私達は男の人を担ぐと、三階のリィディの部屋まで運んだ。
とりあえず上半身のびしょぬれの服を脱がせて、頭と身体を拭いた。その後大き目のセーターを着せて、部屋のベッドに布団を目一杯かけて寝かせる。リィディはそれらの動作をてきぱきとこなしていたけど、心ここにあらずといった体で、どこか遠くを見るような虚ろな眼でいた。
暖炉に薪を沢山入れた。私達もドアを開けた時に少し濡れていたので、そうしてようやくひとごこちが着いた。
「……」
「ああ、ラン、私達も着替えよう。私は部屋の服に着替えるから、あなたも一旦自分の部屋で着替えなさい」
「わかった」
私は自室に向かうべく部屋のドアを開けた。ドアを閉める時に見たリィディは、しかしまるきり着替えようともせず、ただただ男の人を虚ろな表情で見ていたのだった。
部屋に戻り薄手のクリーム色の服に着替えると、私は再びリィディの部屋に戻った。
私が部屋に入ると、リィディはようやく新しい服に袖を通した所だった。
男の人は依然気を失ったまま、だけどドアの前で倒れた時よりかはいくぶんか顔に赤みが戻っている。濡れた髪を拭きあげて後頭部にかきあげたので、男の人の顔ははっきりと見えた。
年の頃は二十五歳くらいだろうか、鼻筋が通っていて、その下で何か悪い夢でも見ているのか、引き締まった唇がわずかに歪められていた。端整な男の人だ。
私達はベッドの脇に椅子を持ち寄り、男の人を見つめた。
0
あなたにおすすめの小説
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる