インディアン・サマー

月波結

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第2話 他人行儀、やはり他人

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 僕がまだぼんやり、未来という名の宇宙を遊泳飛行していた頃、ハルは易々と僕より先に志望校を決めてしまった。
 と言ってもハルとは近所と言うには微妙な距離に住んでいたし、同じ高校に通えなくもないけど、追いかけるのもまた微妙だ。成績も同じランクにいない。
 ランク別のクラスがある学校に行くという手もある。でもそういうところは大概、私立だ。
 僕の住んでいる地域では、公立高校の方が勝る。
 何事も上手くいかない。でも僕はそれに慣れていた。日々は惰性で過ぎていく。
 ハルは僕よりもちょっと成績が悪かった。
 僕ひとりのがんばりでどうにかなることではなかった。
 それは度々、家の集まりで話題にされたけど、ハルはむくれたフリをして「つまんないから」と僕をコンビニや公園に連れ出した。ハルは本心では悲しんでいた。
 まだ中学生同士でお金もなかったし、それくらいのことしか彼女を慰めることができなかった。
 僕たちはフラフラ歩いて、なんとなく話をした。

「アキ」
「え、なに?」
 ハルは真剣な目をしてむくれていた。さっき家で見せていた表情は作っただけのものではなかったとわかる。僕の見立てが悪かった。
 ハルはあの場で、思った以上にいたたまれない思いをしていたんだ。
「頭の悪い女はダメかな?」
「え!?」
 それを僕に聞いてどうするの、と心臓がバクバクする。
「だからどうなのかなって。アキは頭の悪い子はやっぱりパスしたい? 男の子ってそこんとこ、どう?」
 ああ、世間一般の話か。
 そもそも成績は、ハルが思ってる程僕より下というわけではない。ほんの少しだけのこと。気にしすぎだ。
 それとも自分より頭のいい女の方が嫌かな、なんてブツブツ言ってる。
 ハルはつっかけてきたサンダルを引きずるように、後ろに手を結んで歩いていた。

 想像してみる、高校生になったハルを。
 高校生になったら、髪を縛らなくてもよくなるんだ、とハルは以前言っていた。つまり伸ばしても良くなるということ。
 あの高校は制服がいわゆるセーラーで、襟元のふわっとしたリボンが学年で色が変わる。ハルがどの色を着けるのか僕は知らない。
「あの制服、今どきダサいよな」って言うヤツはあちこちにいたけど、僕はあの一見古風な制服は、ハルの純粋さを引き立てるだろうと思っていた。昔ながらの校風も好ましく思えた。

「頭がいいって、一義的なことじゃないと思うよ。多角的に見れば、いい高校に入ることだけが頭がいいことの証明ではないと思うんだけど⋯⋯」
 つまらない足元のコンクリートを見つめながら、転ばないようにハルの隣を歩く。緊張して足が今にももつれそうだ。
 ハルは少しの間、口をきかなかった。
 だから僕も来るかわからない返事を待って黙っていた。
 スニーカーでも意外と靴音がするもんなんだな、と焦りすぎないよう、気をつけて歩く。
 多分、僕の方が一歩が大きいだろうから。

「⋯⋯」
 いつまでもなにも語らないハルに痺れを切らして僕は口を開いた。
「僕はハルが頭が良いとか悪いとかなんて思ったことは一度もないし、それに、その⋯⋯。あの制服、似合いそうだ」
 ああ、言ってしまった。
 横を歩くハルが斜め上の僕を見つめる。
 きょとんとした瞳が失礼かもしれないけどかわいくて、ついその顔を見つめ返してしまう。
 汗をかく。目を逸らしそうになるのに耐える。
「アキ」
「はい、ごめん、生意気だった」
 くすり、とハルは笑うと「アキってほんと、天然ていうかさ」と言った。
「ごめん、せっかくいいこと言ってくれたのに笑っちゃって。あのね、あの制服、わたしが入る年から変わるんだよ」
 知らなかったんだね、とハルはまだ笑っていた。ま、いつもこんなものだよな。カッコよく決まるなんて思ってなかったよ、最初から。
 ふふふ、とハルはステップを踏んだ。
 履いていた薄い布のストンとしたスカートの裾がふわりと踊る。細いプリーツはまるでラインダンスのように。
「アキはそのままでいればいいと思うよ、うん」
 シュンと心の中の小さな火花は音もなく消えた。このつまらない僕のままでいたら、それじゃなにも変わらない。
 僕から変わらないと、君も変わらない。
 この世は作用と反作用だ。
「そういうわけには行かないよ」と言った声は口の中でもつれてくぐもった。

 ずっと前に続く道を走り続けても追いつけないものがある。それはだ。
 どんなにがんばっても、今の科学では時間を追い越すことはできない。質量がゼロを下回る物質は地球上でまだ見つからない。ただしアインシュタインの理論に穴がなければ、だけど。
 僕とハルの間に挟まった時間はどうやっても縮まらない。
 触れそうで触れないその手にドキドキしてるのは僕だけで、もしかしたらハルは暢気な顔をしてるけど、もう彼氏がいるのかもしれない。
 彼氏がその白い無垢な指を包むように繋いだのかもしれない。僕の知らない男。
 その影が、陽炎の中で揺らめくような錯覚をおぼえる。
 妄想はどんどん膨らんでいく。
 女の子って、どうして特別なんだろう? 同じ人間なのに。なんだか不公平だ。

 気がつくと足が止まって俯いていた僕の肩を、ハルの白い手が軽く叩いた。

「笑ったりしてごめんね。傷つくよね、小さいことでも。ほんと、ごめん」
 ハルは仰々しいお辞儀をした。そんなつもりはなかった僕はあたふたして「お辞儀なんてやめてよ」と言った。
 ハルは顔を上げて僕を見上げると「どうして?」と訊ねた。
「⋯⋯おかしいよ、僕とハルの間でそんな」
「タニンギョウギ?」
「そうだよ、それ」
「アキ、漢字で書ける? タニンギョウギ」
「書けるよ、『他人行儀』」
 どうやって書くの、と街中の舗道で彼女は立ち止まると小さな右手を裏返して、手のひらを出した。
 僕は少し躊躇して、それから小さく息を吸って、漢字を教えるだけなんだから、と自分に言い聞かせる。
 頭の中を清明にする。
 開かれたその手に自分の手を添えて、右手人差し指で一文字ずつ書く。

『他人行儀』

「わたしたちにはいらない言葉だね」
「あ、覚える気、ないんでしょう?」
「それはどうかなぁ? 受験までは覚えておこうかな?」
「嘘だ、大体最初から知ってたんじゃないの?」
 どうかなぁ、とまたスカートを翻らせて彼女はゆっくりと歩き始めた。
 蝉時雨は季節と共に消えていくようにはまだ思えず、僕たちの上からわんわんと降り注いだ。
 僕も歩き始める。
 ハルを追いかけるともなく、それでも彼女から目を離さずに。
「新しい制服も似合うと思う?」
 彼女はふふっと微笑んだ。
 どこかにふわりと飛んでいきそうな彼女を、繋ぎとめられたなら。僕にそんな力があったなら、夏の行き過ぎる速さにこんなに息苦しくならずに済んだかもしれない。

 他人行儀――従姉妹と言っても所詮僕たちは、他人だ。
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