インディアン・サマー

月波結

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第21話 Because I love you

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 窓の外を見る。
 ピーッとホイッスルの音が校庭に鳴り響く。今日の授業はサッカーだ。
 なんのスポーツでもそうだけど、クラブチームに入ってるヤツ、小さい頃から部活でやってるヤツはどうしたって上手い。
 僕みたいな文化系は、たまたま前に来てしまったボールを闇雲に蹴ってパスワークを乱してみたり、あまり出番のないGKに回される。
 GKは楽だと言えなくもないけど、芝生が茶色いこの季節に体がちっとも温まらない。指先まで、乾燥した風に吹かれてキンキンに冷えていく。
 ゴールポストの脇で棒倒しでもしたい気分になる。
 でも今は暖房の効いた教室の中だ。棒倒しは必要ない。小山を作る土もないし。
 数学の時間は苦手だ。母さんに、数学だけ通信教育を受けさせられている。有名大入学を目指してる系のやつだ。
 問題量が半端ないのでできる限りどんどん解く。そうすると授業よりどんどん進んでしまう。
 教科書の内容に目新しさがない。
 先生には申し訳ないけど退屈だ。

 気まぐれな母さんは、僕が中学に入るとその水色の箱に入った通信教育のセットを持ってきた。笑顔だった。
「どう? アキは数学好き?」
 僕は少し嫌な気分になった。正直に言うとげんなりした。
 数学が好きだと胸を張って答えられる中学一年生はどれくらいいるだろう?
 なにしろ小学校の算数から、いきなり転身した数学。xとyばかりが並ぶ教科書。嫌う前にとりあえず戸惑う。
 そして問う。これから新しいコイツと上手くやっていけるのかと。
 +の数に-の数。数直線。
 あまり好ましく思えない。原点から行ったり来たりだ。
「あまり好きとは言えないかな。見栄を張っても『好き』とは言わないと思う」
「そう! そうよね! 嫌いになるのよ、皆。そして気が付くと全然わからなくなってるの! 受験生なのによ? 母さん、すっごく嫌いだったの。だからアキにはそんな思いをさせないように、まずできるようになってもらおうと思って。簡単なうちにね」
 一理ある、と父さんは言った。父さんの通う会社はアプリ開発をしていて、父さんは数字や記号がいつも隣りにいる環境にあった。

 xとyと親しくなるには、見慣れるくらい親しくなればいいと父さんは言った。
「アキ、数学は自然と会話するための言語だよ」
 意味深なセリフに思えた。
 その魔法の言葉の本当の意味を知るまでは修行が必要らしい。魔法を解き明かしたい僕は、結局、そのテキストに手を付けるしかなかった。

 そんなわけでぼんやり、サッカーを見ている。
 上手いヤツらは最初は手を抜いて、未経験者に遊ばせるようだ。ボールはぼてぼて、回っていく。
 時には思いもよらない方向へ飛んでいって、蹴ってしまったヤツが責任を取るようにボールへと慌てて走っていく。
 まるで僕だ。
 僕のクラスの授業をこの席から見たら、ボールを拾いに走る情けない僕を見ることになるだろう。
 あーあ。
 欠伸を噛み殺す。
 なんだかよく眠れなかった。悪い意味でふわふわした夢の中にずっといたようで、足元が固まっていない。
 その世界をずっと無意味に回り続けて、今日の僕は生まれてきた。
 机に突っ伏したくなる。
 先生はほとんど僕を指さない。
 逆贔屓だ。
 すぐに答えられると授業が面白く進まないらしい。
 だからいつも暇なんだ。

 何度目かの欠伸を噛み殺す。
 女子がクスクス笑ってる。
 いちいち気にしていても仕方ないし、笑いたければ笑っていればいい。教師に怒られても僕の責任じゃない。

「小石川」

 突然、指される。そんなのアリかよと思う。いつも指さないくせに、今日に限って。
 気分が悪くなる。
 教師は白墨《チョーク》を片手に持って立っている。
 できればそれでいいし、できなければ⋯⋯なんなんだ? 生意気そうな僕の鼻をへし折りたいとかそういうの?
 幸いその問題によく似たものを解いたことがあったので、式を連ねていく。
 この瞬間は気持ちいい。
 ドミノ倒しカスケード式に、式は規律を守りつつ形を変える。どんどん整頓されていく。ぶち撒けたレゴの箱にバラバラになったブロックたちがコンパクトに組み立てられ戻っていくように。
「正解」
 戻っていいぞ、と教師は抑揚のない声で言った。
 僕の書いた式に、教師が解説を付けていく。
 なんでもいいや。
 窓の外では経験者たちの激しいボールを巡る攻防が繰り広げられていた。
 さっきボールを拾いに行ったヤツは、芝生のへりで誰かと喋っていた。
 まぁ、そんなもんだ。

「小石川くん!」
 喋った覚えのない女子が気が付くとすぐ傍に来ていて、一瞬、面食らう。
 その子はたぶん、菊池さんと同じグループにいて、いつも「へぇ、そうなんだ」と聞いているのかいないのかわからない相槌を打つ子だ。顎辺りで切り揃えた髪の片側だけ、黒いエナメルのピンで留めていた。たぶん、校則違反。
 彼女は僕がなにか言うのを期待して、ずっと同じ笑顔で僕を見ていた。期待するような笑顔には、その分の報酬を求める下心が見えた。
 なにが目的なのか、いや、もう僕はあまり女の子と袖触れ合いたくないんだけど。
「ねぇ、さっきの問題、スラスラ解いてすごいね。あれ、応用問題の中でも難しかったじゃん?」
「まぁ」
「どうやって解いたの?」
 ⋯⋯計算機を使った訳でもないのに、どうやってと言われても頭と手を使ってとしか答えようがない。
 でもそれは一見すると相手を怒らせる可能性を秘めていた。
「ええと、似たような問題を解いたことがあったんだよ」
「すごいね。ね、どこで?」
「家で」
「塾とかじゃないの?」
「通信だよ」
「あー、やっぱりできる人はなにかやってるんだね。でもそれだけでできるようになる? 難しくない?」
 矢継ぎ早に質問される。
 なんとかそれについて行く。
 僕ってそんなにドン臭かったっけ? ハルといる時には感じないけど。
 直球を投げ合う感じの言葉の掛け合いに疲れてしまって、この辺で終止符を打つことにする。
「父さんがプログラマーで、数学得意なんだ」
 ええ、やっぱりそういうのなんだぁ、遺伝子恵まれてるね、とその子は言った。早くこの沼から出たかった。なんでも良かった。
 なので、僕が思う一番人がよく見える笑顔を作ってこう答えた。
「子供だからって親と同じじゃないのにね。親の期待ってちょっと重いよね」

 彼女はなぜか「きゃー」と小さく歓声を上げてグループに戻って行った。
 早く休み時間が終わればいいのに、と思いつつ、彼女たちの話に耳を傾ける。
 ――菊池ちゃんが言ってた通りだったぁ。
 ――そうでしょう? 頭いい人って話してみると全然違うでしょう?
 ――なんかすごく大人みたいな感じ。ちょっとクール。マジ理系って感じ
 ――えー!? ちえみって小石川のこと『地味』とか言ってなかったぁ?
 チャイムが鳴る。
 なぜか彼女たちは「やだぁー」と言いながら散開していった。
 嫌なら話しかけるなよ、と疲れてしまって頬杖をつく。
 あんなに激しく泣いてた菊池さんが僕の話をして笑っていた。しかもなぜか自慢気に。

 女の子っていうのは本当にわからない。ハルの背中に隠れた小さな子供の頃を思い出す。
 あの背中の後ろじゃもう、隠れることはできないなぁ。僕の方が、時間をかけずに大きくなってしまった。ハルの加護を受けなくなった。
 そうでもないか。
 気持ちの上ではハルに救われることも多い。
 たとえば母さんがパニック気味の時にも、スミレちゃんを思い出すより先にハルを思い出す。
 スミレちゃんは単純に母さんそっくりだから、思い出しても心が落ち着かないところがあるけど、ハルを思い出すと、踏んだ若草の青臭い匂いが、土の匂いと共に鼻腔をくすぐる。
 その思い出が形を持って僕を支えてくれる。
 草原の上で転がり合った思い出が、不安定になることもある僕の心を支える根っこになることが多い。まだ、ハルの方がずっと大きかった頃の思い出。
 ――好きな子に守られるってのはどうなんだろう? お姫様じゃあるまいし。
 やっぱり僕は、ハルを助けられる唯一の人間になりたい。
 もし僕らが、スミレちゃんと母さんのように一対であるなら、僕がハルを守る。
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