インディアン・サマー -autumn-

月波結

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第39話 大人になりたい

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「スミレは英語が堪能で、わたしは国語しかできなかったのよ。だからスミレは難なく就職して克己さんと出会ったし、わたしは大学を出てもお手伝いみたいなことしかできない事務員になって、貴之さんと知り合ったの。わたしたちの進学先が違ったのにはちゃんと理由があるのよ」
 二人で台所に立って、話をした。
 僕は母さんが包丁でジャガイモの皮を剥いているのを、スライサーを用意して待っていた。今夜はポテトグラタンを作るらしい。
「でもね、ほら、わたしだって全然スミレに劣るわけじゃなくて、家庭的なことはわたしの方が得意だったの。一卵性双生児だけど小さい頃からね、スミレが何分かお姉ちゃんだった分、わたしは妹気質に育ったんだと思うの。なんでも一緒なんて、幻想よ」
「じゃあ母さんはスミレちゃんと離れても問題ないわけ?」
 食ってかかるような僕の勢いがおかしかったのか、母さんはくすくす笑った。ベシャメルソースを作りながら、なにもムキになることないじゃない、と言った。
「だからね、あなたたちが生まれる前、わたしたちはもう離れてたの。ハルが生まれて育児をするために実家にも近くて便利なこっちに戻ってきただけで、わたしたちはもう別々だから。大丈夫なの、心は繋がってるから。離れてるけどいつだって一番近くにいるのよ」

 母さんの話はまるで僕たちのことを語っているようで、その上僕たちは試されているような気がした。
 離れていても、気持ちが途切れることはないのか。ハルも言っていた。
 十四の僕には、未来はまだまだ先で、それでいてすぐにやってくるものだった。
 ハルを待つ。気持ちは変わらない。ノープロブレムだ。
 サラダ作ってくれる、と言われて冷蔵庫を開ける。生ハムとオリーブを見つける。今夜は父さんが早く帰ってくるのかもしれない。両方とも父さんの好物だ。
 オーブンをセットした母さんは簡単にドレッシングを作り、ようやくテーブルに着いた。

 コーヒー淹れてくれる、と頼まれて二人分のお湯を沸かす。ケトルががんばってる間、テーブルに出てたクッキーを少しつまむ。
「そう言えばとうとうバレたんだって?」
「え?」
「アキはココアを卒業してたってことよ」
 母さんは楽しそうに笑った。
 僕は笑えなかった。クッキーを齧って、その場を流そうとした。
「そういうことよ。ずっと同じものなんてないの。人は別々に成長していくものよ。でも変わっていくその人を追いかけられるなら、それはそれでいいんじゃない? アキ次第よ」
「なんだよ、それ」
「えー、ハルが『初恋』なんでしょう?」

 まったくもってその通りだ。
 カップ二つにそれぞれスティックコーヒーを入れる。
 心臓の鼓動が乱れる。苦しくなる。
 僕にとってたぶんこれが初恋で、だからこそ上手にこなすことができない。ままならないことが多すぎる。
 でもそれを母さんに指摘されるのは心外だった。
 僕は本当にハルのことを大切に思っていて、傷ひとつつけたくないと――。
 そんなのはおかしいだろうか?
 会いたいという気持ちは簡単にメッセージ交換できるし、夏休みみたいな長期休暇にはきっとこっちに帰ってくる。
 絶対、会えなくなるわけじゃないし、この間、電車で終点まで行ったことを思えば、乗り継いでハルの住む街に行くことは容易く思えた。
 僕たちの気持ちが離れてしまうなんて、きっとない。
 磁石のS極とN極のように、永遠に不思議な力で引かれ合うに違いない。

 だから――。
 もし本当に離れても、きっと大丈夫に違いない。
 僕もハルもきっと、なにも変わらない。

『初恋かー、なんかウケる』
『なんだよ、ウケるって』
 既読が付いてから、少し間が空く。
 僕はただ待つ。
 スタンプが、押される。
『ごめんね』
 ペンギンが申し訳なさそうな顔をして汗を飛ばす。
『なにが?』
『本当は元カレがいて』
 え?
 そう言えば、スミレちゃんが言葉を濁したことが。
『すきって言われて舞い上がっちゃって。でも二ヶ月だよ。中一だったしなんにも考えてなかったし、自然消滅みたいな』
 それはないんじゃないか?
 もっと早く教えてくれてもいいんじゃないか?
 この気持ちが初恋なのは、僕だけなの?
『でも、本当に誰かをすきになったのはアキだけだよ。昔っからアキがすきだったけど、いまは昔とちょっと気持ちが違うと思う。きっとこれは恋』
 直接すぎないか?
 スマホを落とす。角からキレイに落ちた。
 よかった、画面割れはしていない。
 恋かー。恋ってなんだろう?
 それはきっと甘いに違いないと思ってたんだけど、どちらかと言えば苦しい。
 手強い。
 手を伸ばしても、すぐに届かないこの距離がもどかしい。

『また呼ぶよ』
『また行くよ』

 いつだって、呼ばれたら行くから。
 だから僕を迷わず呼んで――。

「うらやましいなぁ、そういうのって小説の中だけかと思ってた」
 他人のことなのに、弥生さんは耳の先まで赤くなった。
 弥生さんは僕の異変に気付いてそっと声をかけてくれた。
「恋かー。お互いに『恋してる』って言えるのってすごいなぁ。夢みたいな話だね。わたしには縁のない⋯⋯」
 あ、と思っても遅い。僕は気が利かない。こんな話はするべきじゃなかった。
 僕とハルの問題なんだし⋯⋯。
 第一、恋がどうのって問題じゃなくて、要点は別にある。僕たちが離れてしまうかもしれないこと、それが問題なんだ。
 生まれた時からずっと一緒にいたハルが、僕の人生の一定時間、離れなければならないなんて、正気の沙汰じゃない。

 でも、スミレちゃんのことを考えると悲しくなる。
 スミレちゃんとオジサンにだってみんながうらやましがるような恋をしてた時期があったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう?
 結婚をすると、聞いた話では恋は愛に変わる。
 恋は素敵なものなのに、愛は簡単に壊れてしまうんだろうか――?
「わたしたちは友だちだけど⋯⋯陽晶くんと学校離れたら寂しいなぁ」
 弥生さんは僕の目を見ずにそう言った。
 僕の顔が困惑するのを見たくなかったのかもしれない。
 僕は、弥生さんについてどっちつかずだ。それは卑怯なことだと反省している。

 僕は思い切って口にした。
「弥生さん、僕は弥生さんのことを一番だと思えない。ごめん!」
「わかってるよ、大丈夫だよ」
 か細い返事が返ってきた。
 僕も緊張して言葉を選ぶのが難しくなる。
「でも、狡いかもしれないけど、僕も弥生さんと離れたら寂しくなると思うよ。本当に」
 そこで弥生さんは僕を振り返った。目を見て、口を開いた。
「ありがとう、そんな風に思ってくれて。わたし、もっとがんばって陽晶くんと同じ高校に進学する」
「僕の志望校、知ってるの?」
「どうしてかな? 知ってるの、これが」
 ふふ、と彼女は悪戯めいた笑顔を見せた。その笑顔は彼女が隠し持っていたもののようで、ひどく魅力的だった。
 どこで知ったの、と訊くと彼女は、内緒、と答えた。

 まったく女の子の持ってる魔法にはいつも驚かされる。僕の知らないことをなぜか知ってる。
 僕の気持ちを、僕よりよく知ってたり。
 弥生さんも、ハルも、スミレちゃんも、母さんも。
 みんな僕以上に僕のことを知ってるから、いつも一歩を踏み出すのが遅れてしまうんだ。でも――。
 僕ももっと大人になったら。
 女の子の気持ちをわかってあげられる立場になりたい。
 できればハルを。
 ああ、どうして先に生まれなかったんだろう。
 こればかりは何回考えてもどうにもならなかった。恋とか愛とかでは解決できそうになかった。

 大人になりたい。
 もっと強く。
 ハルに頼りにされるような。

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