17日後

月波結

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第2章 要の17日

10日前 要

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 習慣通り由芽より早く目が覚めたけど、隣にいるはずの由芽がいなかった。腕の中にいないことに瞬間、焦る。……見回すと由芽はこたつで寝ていた。

 背中合わせで寝た夜をなかったかのように、
「要、今日はお弁当いる?」
とこれまでと変わらず、由芽は明るく聞いてきた。
「お弁当はいいや。朝ご飯、作ってくれてありがとう。いただきます」
 今朝の朝食は洋食で、スクランブルエッグにベーコン、グリーンサラダとトースト、ホットコーヒーだった。
 こんなに由芽の作ってくれるご飯が美味しくて、ありがたいと思ったことはなかった。
 いや、つき合いはじめの頃は毎日が感動だったけれど、いつの間にかそれが普通になって、そうやって当たり前だと思うようになっていたことに気がつく。
 お弁当もお願いすればきっと、オレの好きな甘い玉子焼きがちゃんと入ったものがお昼には出てくるんだろう。
 そういうことにちゃんと、感謝したい。それができるのもあと十日なんだ。

「いってきます」をして学校に向かう。
 何故だろう? 昨日はあんなに溺れていた玲香に会うのがひどく怖い。彼女がオレをがんじがらめにして、自分から望んだのに離れられなくなるのが怖い。彼女に会うと、オレは普通ではいられない。
「要、学校サボるなよ」
 朝から原田に絡まれる。とは言え原田は気のいいヤツでつき合いやすい。なんだかんだ言っても玲香とつき合っているオレに声をかけてくれる。
 由芽に告白した時も、背中を押してくれたのは原田だった。
「要さぁ、前にも聞いたけど大島さんとつき合うってことは、由芽ちゃんはフリーになるって思っていい?」
「あー、あのさ」
「うん、『十七日』のことは聞いた。気づいてると思うけど、オレは由芽ちゃんが本気で好きだよ。彼女が悲しむの、見てらんない」
 ちくり、と胸が痛む。一言では言い表せない。
 頭の中がごちゃごちゃしてくる。
 由芽はオレの前では泣かないし、玲香と会ってても、外泊しても何も言わない。それが本当は嘘で、原田にはオレの知らないところで本当の由芽を見せているってことなのか?
「……由芽、泣いてる?」
「あのさぁ」
 原田は大きくため息をついた。
「僕の前ではまだ泣いてはないけど。日曜日の朝から女に会いに行って外泊するとか、泣くだろ、フツーに。かわいそうだよ、いつも泣きそうな顔して歩いてる。別れてやればいいのに、で、お前はあの『イヤな女』とつき合えばいいだろう? 由芽ちゃんが泣かなくて済むなら、お前が大島玲香とつき合っても何も言わないよ」
「なんだよ、それ。それとこれとは関係ないだろ? 玲香を悪く言うなよ」
「……黙ってたけど、オレも前に誘われたことあるよ、あの女に。笑っちゃうよな、背の高さがちょうどよくてお似合いだと思わない、だってさ。誰でも声かけてるじゃん、知らないの? 大体、あの取り巻きの中の男とだって寝てるんじゃない? あの女のことは、はっきり言って軽蔑してるよ」
 疑ったことがないわけじゃなかったし、噂だって知らないわけじゃなかった。でも、……でも?
「玲香にもいいところはあるんだよ」
 そんなことしか言えない自分をバカなやつだと思った。

 オレは玲香とつき合う、原田が由芽とつき合う。
 数的には合っている。
 でも心の中で割り切れない思いはなんなんだろう? これが、二年間つき合った重みってやつなのかなぁ、と思う。
 原田に誘われたら、由芽だって悪い気はしないだろう。原田は見た目もいいけど性格はもっといい。人見知りの由芽も原田となら話ができるし申し分ない。……原田になら、由芽を任せられるような……そんな気持ちに《ならない》のが不思議だった。
 オレにはもう玲香がいるのに。



 由芽に、今日は夜うちにいるかと聞かれていたので寄り道せずに帰った。由芽より先に部屋に着く。
 同棲するようになってすっかり馴染んだこの部屋は、もう「由芽の部屋」ではなくて「ふたりの部屋」だった。この部屋の空気は自分が慣れ親しんだもので、いちばんリラックスできる場所になっていた。
 ごろん、として考える。「十七日」なんてやめればよかったなぁ、とか。すっぱり別れていれば気持ちが迷走することもなかっただろう、とか。由芽は泣いているのかな、と思うとともに、玲香にはセフレがいるのかな、と思う。それともオレがセフレなのかもしれない。バカバカしい。考えて答えの出ることじゃない。……それでも、頭から離れない。

 しばらくすると、
「ただいま」
と由芽が帰ってくる声がして、玄関に行って買い物袋を持ってやる。
 今日は何を作るのかな、と思いながら食材を決まった場所に収納する。由芽はきちんと細かく物をしまう場所を決めているので、オレでも仕分けて片づけができる。そんなところが女の子だなぁと思っていた。
「バイトある?」
「ないよ」
 朝、出かけないと言ってたのだから、無いものは無いのに、玲香に会うための口実で「バイト」と言って先日、玲香のところに泊まったことが不安だったんだろう。……今日も玲香は学校に来ていなくて、会うことは無かった。
 由芽の作るご飯の匂いがする。
 それは、好きとか嫌い以前に「しあわせな匂い」だ。誰かが自分のためにご飯を作ってくれるしあわせ。今の自分にはもったいない。
「要、お待たせ、ご飯できたよ」
 今日の献立は、タラのホイル焼きときんぴらごぼう、小松菜と油揚げの味噌汁。
 由芽がタラの焼き加減を聞いてくる。心配に思わなくてもいつだって美味しいのに。
 何を話していいのかわからなくて黙々とご飯を食べる。どうして、「美味しいよ」の一言が言えないのか自分でもわからない。由芽も会話のきっかけを探しているようで困り顔だった。
「あ、この間、偶然ね、駅ビルのカフェで原田くんと一緒になってね……」
「うん」
「デザートごちそうになっちゃったの。今度、要からもお礼、言っておいてくれる?」
「……」
 原田のやつ、あんなこと言ってたのにフライングだろう? ……本気なのか。由芽を捨てようとしているオレには何かを言う権利はない。

「何か飲む?」
 由芽がどう見ても無理に笑顔を作る。そんな風にしてしまったのはすべて自分のせいだ。
 つき合った頃の無邪気な笑顔を……最近、真正面から見られなかった由芽の顔をまじまじと見ると、明らかにやつれて目の下には隈ができていた。
 どうしてそれに気がつかなかったのか……それは、玲香のことしか見ていなかったからだ。
「なんでお前、『普通』なの? 何も言わないで外泊して、翌日も夜中まで帰ってこないなんて頭に来ないの?」
「ごめんなさい」
 謝るのはオレの方だ。
「オレは自分が作った計画を全然守らないし、まだ約束の日にならないのに、ちっとも由芽のそばにいてあげないじゃん? そういうことにムカつかないの?」
 由芽はしばらく口をつぐんでいた。何かを考えているようだった。
「要、怖い」
 とうとう由芽は泣いた。目の端に見える涙を見逃さなかった。彼女はティッシュで目の端を押さえていた。
「……大きい声出してごめん、悪かったよ」
 オレは大きなため息をひとついた。自分が悪いのに、大きな声で怒鳴るなんて最低だ。
「もし……もしまだあの計画表が有効なら、わたしはまだ要の彼女なんだよね?」
「……うん、そうだよ」
「じゃあさ……」
 何を言うのかな、と思った。玲香と会うな、とかそういうこと?
「じゃあ、抱きしめてくれる? いつもみたいに……」
 ……。
 それが由芽の『お願い』? こんなことになって、こんなに最低なオレにまだ抱きしめられたい?
 考えてみたら、由芽に触れるのは久しぶりだった。今までは毎日、指先だけだっていつでも触れていたかったのに。
 小さな、あったかい由芽の背中にできるだけそっと手を回す。乱暴にしたら壊れそうな彼女の背中。ぎゅっと思いきり抱きしめる。

 ――あの、告白した日に気持ちが巻き戻る。
 白い柔らかな半袖のシャツを着た由芽の、ほっそりした白い腕。紺色の涼し気なスカート。「哲学一」のテキストを持って、少し早足で歩いて行く。
 今日を逃したら、もう彼女に会えないかもしれない。来週、レポートを提出したらこの講義は終わってしまう。
 急がなくちゃいけない。
 あの子をずっと見つめていたい、この気持ちが恋なんだ……。

 そんなことを考えながら由芽の懐かしい匂いに包まれていると、由芽が頬をそっと寄せてきた。



「ごちそうさま」をして風呂から上がろうとすると、ガシャンという派手な音がキッチンから聞こえた。音からして食器は割れてしまったんだろう。途端に心配になる。
「由芽、割れたの? 手、切らなかった?」
 急いで体を拭く。慌ててキッチンに行くと食器は割れていて、由芽はぼーっとしていた。由芽の指を見ると鮮血が流れていて、とりあえずよく様子を見てから水道で血を流した。
「ああ、やっぱり切ってるじゃん。カットバン、持ってくるよ」
 救急箱にカットバンを取りに行く。そんなに深くは切れていないようだった。安心した。
「ありがとう」
「痛かった?」
「もう大丈夫だよ、手当ても早かったから」
 こんなことを言うなんて本当にバカだよな、と思いつつ言葉にした。
「由芽さ……まだオレのこと、好きなの? オレ、最低じゃない?」
「最低になっても要は要だよ」
 まだ体以外はよく知らない玲香に溺れて、由芽を蔑《ないがし》ろにして、泣かせていたオレをまだ肯定するなんて、本当に由芽は明らかにバカだ。もっと大切にしてくれる人のところに行った方がいいに決まってる。
 由芽は、もっとしあわせになる権利がある。だけど、もっとバカなのはオレの方で……。
「信じられなくて当然だと思うけど。オレ、由芽のこと、まだ好きだよ。自分でも狡いと思うよ」
 なんてバカなんだろうと思いながら、その言葉は無理なくするすると素直に口からこぼれ落ちた。
「ううん、うれしいよ。……十七日目まで、よろしくお願いします」
 それ以上は望まない、という顔を彼女はした。
 久しぶりに由芽をベッドで抱きしめると、小さく丸くなった。彼女の髪が鼻先に触れる。柔らかい髪を、撫でたいと思う気持ちを我慢する。由芽を苦しめたらいけない……。
 だから抱かない。しあわせな気持ちで眠らせてあげたい。今日は泣かなくていいように、ただ腕の中に彼女をしまってしまう。その温かさで安心したオレは、由芽の確かな温もりに包まれて深く眠った……。
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