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【第五部:聖なる村】第十二章

目覚めと再会

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 次の日の朝も、すがすがしい春の日差しで始まった。

「おはよう姉さん。暑くない? 今窓を開けるわね」

 まずディオネの表情を観察し、昨夜と変わりがないことを確かめると、ナイシェは昨日のように一日を始めた。汗をかいていないか確認し、続いてジュノレにもらった花の水を入れ替える。そのあと、フェランからの小瓶を手に取った。

「姉さん、お肌の調子がいいみたい。このクリームがいいんだわ、きっと」

 指先までしっかりとクリームを塗りこむ。

「今ね、ゼムズとラミも向かってるのよ。あと二、三日で着くんじゃないかしら。それまでによくならないと、ラミがびっくりしちゃうわ」

 いいながら、前腕をマッサージするようにクリームを広げていく。
 ふと手のひらに違和感を感じ、ナイシェは手を止めた。姉の腕をよく見てみるが、変化はない。もう一度、包み込むように腕に触れ、再び何かを感じた。手のひらの中で、何かが動いている。
 はっとして、ナイシェはディオネの顔を見た。目を閉じたままだ。しかしよく見ると、両のまぶたがわずかに痙攣している。

「姉さん……ディオネ姉さん!?」

 身を乗り出して叫んだ。まぶたがぴくりと動き、それからゆっくりと持ち上がった。震えるまつ毛の奥から、茶色の瞳が覗く。

「姉さん……! 私よ、ナイシェよ! わかる!?」

 ディオネのまぶたが、意志を持って一度、静かに閉じて開いた。ナイシェはまだ動かないディオネの左手を自分の両手で握りしめた。

「姉さん……! よかった、本当によかったわ! 姉さんが目を開けるのを、ずっと待ってたのよ。もう、どこにも行かないで……!」

 祈るように引き寄せたディオネの左手に、大粒の涙がぱたぱたと零れ落ちる。わずかにディオネの口元が開き、呻き声が漏れた。

「……ありが……とう……」

 三日ぶりに聞いた姉の声は小さく掠れ、ひどく聞き取りにくかったが、ナイシェにはそう聞こえた。ナイシェは片手をそっとディオネの頬へ添えた。

「お礼をいいたいのは私のほうよ、姉さん。戻ってきてくれて、ありがとう……」

 ナイシェは横たわるディオネの体をそっと抱きしめた。姉の体は動かなかったが、昨日までとは違う確かな息遣いを、耳元で感じた。





 その日から、ディオネはみるみる回復していった。翌日には起き上がれるようになり、その次の日には会話だけでなく食事もこなすようになった。まだ指先に力が入らないので実際にはナイシェが口元まで運んでいたが、医務方の人間が、指の運動や歩行の練習を毎日行い、ディオネも懸命に取り組んだ。ゼムズとラミがアルマニア宮殿に到着したとき、ディオネは移動こそ車椅子だったがいつもどおりの笑顔と闊達な物言いで二人を出迎えた。

「心配かけて悪かったね! 見てのとおり、ちょっと弱ってるけど元気だよ」

 一番安堵の表情を浮かべていたのはゼムズだった。

「俺はよぉ、この一週間、気が気でなかったぜ。宮殿に着いたとき、あんたがもう手遅れだったら……とか想像しちまってよぉ。俺の役目はこの小さいお嬢に不安な思いをさせずにここまで辿り着くことだって、ずっといい聞かせてきたんだ。本当に……思ったより元気で、よかったよ」

 そして、近くにいたエルシャに耳打ちした。

「ラミには、ディオネが急病でここに運ばれた、としか伝えていないからな。ルイのことも……結局旅を続ける気持ちがなくなったから離れていったとしか、いっていないぞ。毒とか裏切ったとか、そういうのはラミは知らないからな」

 エルシャはうなずいた。

「ああ、助かるよ。ラミにはそれでいい」

 当のラミは、ディオネの心配よりフェランやナイシェと再会できた喜びのほうが勝っているようだった。にこにこと笑いながら次々と抱きついている。そんな様子に安心したのはエルシャだった。
 アルマニア宮殿は、ラミの母親が息を引き取った場所だ。その光景が焼き付いていれば、あるいはラミにとってこの宮殿は最も近づき難い忌むべき場所かもしれない――そんな不安があったが、ラミは特に気にする様子もなく振舞っていた。

「ねえ、ディオネはいつ歩けるようになるの? 体の力が入らなくなる病気なんでしょ?」

 何の屈託もなくラミが尋ねる。ディオネは困ったような笑顔を浮かべた。

「うーん、あと少しかな? 今、練習中」
「じゃあ、それまでは宮殿で休憩ね? よかった、ラミ、歩き疲れちゃったよ」

 他意のない言葉に、エルシャはまた胸が痛んだ。

 母親が死んで、面倒を見てくれる大人がいなくなり、ラミはともに旅をする道を選んだ。あのとき、ラミは幼いながらも確かに自らの意志で選んだし、自分たちも、どのような形であれラミにとっての最善を尽くすつもりだった。実際、ともに行くのが最善だとあのときは信じていた。しかし――あのとき、最善などではなく、ラミにはこれしか選択肢がなかったのではないだろうか。行き場所がないラミをこんな危険な旅に巻き込んで、それが正しかったなんて、本当にいえるのだろうか。

「エルシャ」

 間近で聞こえたディオネの声に、エルシャは我に返った。ディオネが意味ありげに目をやった。

「また、悪い顔をしてる」
「悪い……?」
「そう。どうしようもないことを、うじうじ考えてる顔」
「……ひどいいわれようだな」

 自嘲する。ディオネは、フェランやナイシェと楽しそうに戯れるラミを遠目に見ながら、エルシャにいった。

「……ありがとう。あんたは、あたしの命の恩人だわ」
「え……?」

 唐突にいわれ、エルシャが振り向いた。ディオネは一瞬エルシャと目を合わすと、すぐにうつむいた。

「ほら、まだしっかりお礼をいってなかったから。あたしさ、ただ体が動かせなかっただけで、結構覚えてるんだよね。だんだん、息をするのも辛くなってきて、きっともう死ぬんだな、って……意外と冷静に、諦めかけたんだよね。でも、エルシャは……あんたは、諦めなかった。全力で、あたしを助けてくれて……妹のことも、励ましてくれて。自分の体だってしんどいのに、そんなこと構わずに、何の迷いもなく、あたしを救うためにあらゆることをしてくれた。だから……感謝してもしきれないよ。本当にありがとう。あたしだけじゃなく、妹の分も……」

 エルシャは何もいわずにディオネの横顔を見つめていた。しばらくすると、ディオネがうっすらと頬を赤らめてそっぽを向いた。

「あのさ、あんまり見ないでくれる? 面と向かってお礼とかいうの、苦手なんだからさ……」
「ああ……すまない」

 エルシャはすぐ前を向いた。

「本当は……お礼なんて、いわれる立場じゃないと思ってる。でも……そういうことも全部わかっていて、おまえは礼をいってくれるんだな。素直に、うれしいよ」

 それからもう一度、ディオネのほうへ向き直った。

「俺にも、いわせてくれ。おまえは、俺が迷ったときに、いつも背中を押してくれる。悩んだり、弱音を吐きそうになったときに、俺を、あるべき姿に戻してくれる。俺こそ、例をいわなくてはならない。おまえには感謝している、ディオネ」

 ディオネは一瞬エルシャのほうを見たが、そのまっすぐな視線を受け止めきれずにまた横を向いてしまった。

「……あのさ、面と向かってお礼をいわれるのも、苦手だから!」

 怒ったような口調でいうディオネを見て、エルシャは頬が緩むのを感じた。
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