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【第六部:終わりと始まり】第一章

懐かしの再会

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 太陽が高く昇り、朝市場の露店が店じまいを始めたころ。ツールにいくつかある酒場のうち、錆びかけた小さな看板のぶら下がる見慣れた木の扉を、ナイシェは何度か叩いた。そっと押すと、開いた扉の向こうから女性の声がした。

「まだ開いてないんだ、悪いけど夜に出直して――」

 声の主は、入ってきた人物を認めるなり言葉を飲み込んだ。

「……ナイシェ! ナイシェじゃない! ディオネも!」

 カウンターの奥で開店準備をしていた少女は、すぐさま手を止めて飛び出してきた。ナイシェはまだ幼さの残る少女の体を抱きしめた。

「サリ! 久しぶり! 元気そうでよかったわ」

 サリと呼ばれた少女は、昔と変わらない笑顔で答えた。

「あれからまあ、いろいろとあったんだけどね。今は見てのとおり、何とかやってるよ。ナイシェたちこそ、どうなの? 旅は順調? ――ああ、とりあえず中に入ってよ。客が来たらゆっくり話せないからさ」

 サリは二人をカウンターではなくテーブル席へ案内した。手早く三人分の飲み物を入れ、自分も同じ席へつく。

「実はさ、今、この酒場をあたしひとりで切り盛りしててさ、結構忙しいんだよね」

 サリが笑いながらいった。

「ひとりで? お母さんはどうしたの?」

 以前、ナイシェがツールを訪れたときには、この酒場ではサリとその母親が働いていた。父親もいたがいつも外で酒ばかり飲んでおり、たまに家へ帰ったかと思うと酒代ばかりせびるため、家族仲は最悪で、人手も足りない状態だったのだ。強盗に遭い一文無しになったナイシェを住み込みで雇ってくれるといったのが、そのとき出会ったサリだった。サリの母親が厨房を、サリがカウンターでの接客を担当し、ナイシェはそれを補う形で働いていた。あのときの忙しさでは、サリひとりでは到底まかないきれないはずだ。

「実は……」

 サリが決まり悪そうに話し出した。

「父さんとは、縁を切ったの。あのあとあいつ、開店中までお金をせびりに来てさ、あたし、お客の前で大ゲンカしちゃって。そしたらさ……常連のお客さんたちがみんな、あたしの味方してくれちゃって。勢いで、父さん追い出して。……そしたら、それっきり。笑っちゃうでしょ。あいつ、母さんとあたししかいないと態度が大きいくせに、本当は小心者だったのね。お客に、二度とサリに近づくんじゃねえ! なんて怒鳴られたら、逃げるようにして出ていったよ。それでやっと生活も少し楽になって、これでひとまず安心だと思ったら……。今度は母さんが、新しい男を作ってあっさりいなくなった。置手紙一枚で、何の前触れもなく。もうびっくりだよ」

 けらけらと笑いながら話すサリに、ナイシェはただ驚くばかりだった。

「でも……いくらなんでも、ひとりで酒場をやるのは無理だわ」
「うん。だから今は、料理は諦めて、カウンターで飲み物とちょっとしたつまみだけ出してる。常連さんはそれでもいいっていってくれてるし、あたしひとりなら、稼ぎが減っても何とかやっていけるから。それよりさ、ナイシェのほうはどうなの? サラマ・アンギュース、見つかった? あ、ひょっとして、兄さんのかけらが必要になってここに来たの? エルシャたちはどうしてる?」

 屈託のない笑顔で迫るサリに気圧されて、ナイシェは思わず視線をそらした。

「実は、私も……いろいろあって……エルシャたちとは、別れたの」

 サリはすぐには理解できないようだった。

「別れたって……つまり、サラマ・アンギュース探し探しも、やめちゃったってこと? うそでしょ」

 言葉に詰まるナイシェに代わり、ディオネがいきさつを説明した。
 サラマ・アンギュースを探す旅が、復活をもくろむ悪魔の手先に妨害されていること。そのため旅の途中で何人かの仲間を失い、エルシャも命を落としかけたこと。そして、ディオネ自身も毒の影響で生死をさまよい、今も後遺症が残ること。

「それで……私がね、音を上げちゃったの。これ以上旅を続けるのは無理、って」

 いいにくそうに話すナイシェにディオネが付け加える。

「あたしがさ、ろくに物も持てないわ走れもしないわで、みんなの足手まといになるから。だから、あたしたちのかけらを二つともエルシャに託して、あたしたちは旅を離れたの。今となっては、かけらもない普通の姉妹」

 おどけるディオネと、無理に笑顔を作るナイシェの様子を見て、サリは小さなため息をついた。

「あたしの前ではさ、無理しなくていいよ……。あたしもさ、少しはわかるつもりだよ。唯一の家族を亡くす気持ち。ナイシェはさ、ディオネが死にかけたのを見て、もう……がんばれなくなったんでしょ? わかるよ。あたしだってさ、兄さんが死んだ、って聞いたときは、簡単には受け入れられなかった。もう何年も会ってなくて、どこかで死んでるかもな、なんて考えたこともあったのに、いざそうなってみると……辛かったよ。あなたたちにも、ひどいこといったしね」

 サリの兄、ショーは、死を恐れない冒険家だった。破壊の民ナリューンであったにも関わらず、その力に頼ることなく、自らの力と運を試すために、旅をしていた。サラマ・エステの頂上にある薬草を目指していたエルシャたちに同行した結果、悪魔と契約し二度目の命を得たサルジアに殺害されたのだ。

「でもさ……あたしはさ、意外と早く、立ち直れたんだ。あたしの、たったひとりの家族、たったひとりの味方が、もうこの世にいない。そう思ってたけど、そうじゃなかったの。気づいていなかっただけで、本当はいたんだよ、あたしの味方が。毎晩のようにあたしに会いに来てくれる酒場のお客さんがさ、あたしの味方で、仲間だったの。彼らがいたから、兄さんの死とも向き合えたし、父さんや母さんのことがあっても、まだがんばれるって思えたの。あの人たちが、あたしを必要としてくれてる。だから、この酒場があたしの居場所なんだって、思ってる。今はね、この酒場とそのお客さんたちが、あたしの支えなんだ」

 吹っ切れた笑顔で、サリはいった。

「だからね……ナイシェやディオネにとっても、エルシャやフェランはそういう存在なんじゃないか、って思ってた。辛いときでも……ううん、辛いときだからこそ支え合う、大切な仲間。正直いうと、あたし、そんなナイシェたちをちょっと羨ましいって思ってたの。ナイシェが、サラマ・アンギュースのことをあたしに教えてくれたとき……ナイシェは何の迷いもなくて、心からエルシャたちを信頼してるのが伝わってきた。ああ、大切な仲間がいるって素敵だな……って。そんなあなたたちを見たから、あたしも……もう一度酒場に戻って、やり直してみよう、って思ったんだよ」

 ひとつひとつ噛みしめるような言葉のあと、しばらくの沈黙が覆った。

「……でも!」

 ぱちんと手を叩くと、サリは元の笑顔に戻っていった。

「神のかけらを手放すことで大切な人を守れるのなら、その選択が間違いだなんて思わないよ。ううん、誰にもいわせない! あたしみたいにさ、失ってからじゃ、遅いんだから」

 そしてナイシェとディオネの肩を勢いよく叩いた。

「それで? 晴れて普通の姉妹になったおふたりさんの、これからの予定は?」

 ナイシェはディオネと顔を見合わせた。

「故郷のトモロスに戻って暮らそうと思ってたんだけど、旅に出るときに店を畳んじゃって……」
「妹は芸能一座で巡業しながら暮らしていたし、あたしは小さな露店で手芸品売って何とか生計を立てていたんだけど、しばらく帰れないからと思ってその土地を売り渡しちゃったんだよね。それに、今じゃ指に力が入らなくて昔と同じ商売ができないし」

 ディオネが補足する。

「それで……」
 ナイシェは様子をうかがうように、サリのほうへ視線を戻した。
「サリさえよければ、その……雇ってくれないかしら? めどが立ったら、出ていくから」
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