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【第六部:終わりと始まり】第一章

イシュマ・ニエヴァの体

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 一面白い霧に覆われた、無の世界。忘れかけていたその意味を思い出し始めたとき、背後で少年の声が聞こえた。

『……ナイシェ。ナイシェ、聞こえる?』

「もちろん、聞こえてるわ」

 ナイシェは振り返っていった。少しだけ悲しそうな顔をしたイシュマ・ニエヴァがいた。

『ナイシェ……あの場所では、僕は君に会うことができない。あのとき君を止められなくて、もどかしい思いをしたよ』

 あの場所――アルマニア宮殿のことだ。あそこでは、〈あいつ〉の力が強くなって少年は自由に動くことができないと、以前いっていた。少年のいいたいことは、何となく理解できた。

「私だって、たくさん悩んだのよ。でも……私も姉さんも、かけらはエルシャに渡したわ。それなら、何の問題もないはずでしょ」

 神がエルシャに与えた使命は、神の民をすべて集めることだ。ならば、神の民であることを放棄してかけらをエルシャに託せば、それでいいはずだ。
 しかし、少年は眉をひそめて首を振った。

『違うんだ……。ナイシェ、君に限っては、そうじゃないんだよ』
「どういうこと?」
『そのときが来たら、君が必要になるんだ……君の中に、僕がいるから』

 ナイシェは意味が掴み切れなかった。

 ……そういえば以前、神の民の中の誰かが、少年を夢の中から解放してくれるといっていた。神の意志を全うするには、少年が現実の世界に出てくることが必要だということだろうか。

 ナイシェは何といえばいいのかわからなくなった。

「でも……かけらを持たない私なんて、もう足手まといになるだけだし、姉さんだって……これ以上危険に曝すわけには……」

 少年の右手がそっとナイシェの頭に触れた。

『……ごめんね、ナイシェ。僕が、うっかり君の夢の中に閉じ込められさえしなければ』

 ナイシェが目を上げた。

「うっかり……?」

 少年は小さくため息をついた。

『あのころ、僕は自由で、いろんな人間の夢の中を覗いては、遊んだりいたずらしたり、気ままに暮らしてた。主人が眠りについてからとても長い月日が経っていたからね、最初のころこそ、僕が主人の代わりに頑張ろうと意気込んでいたけれど、それも何百年と経つうちに、だんだんどうでもよくなって。それでたびたび、ナイシェの夢に遊びに来てさ。きみはとてもかわいくてやさしくて、僕はすっかり君のことを好きになっちゃったんだ。そしたら君がさ、『体がないと不便でしょ』といって、僕に体を創ってくれた。覚えてない? 君が六歳くらいのときかな。ニーニャ一座に引き取られて、しばらくしてからだよ』

 ナイシェにはまったく覚えがなかった。

 この少年は、体がないのか。妖精、という生き物だからなのだろうか。あのころはまだ、自分が創造の民パテキアだなんて露ほども知らずに生きていた。ただ、両親が他界し姉とも別れ、厳しいニーニャのもと毎日必死で暮らしていた自分にとって、夢の中で会える少年が心の支えになっていたことだけは覚えている。

『この顔もこの体も、すべて君が僕のために思い描いてくれたものだ。夢の中でしかこの姿ではいられないけれど、本来体を持たない僕にとっては、最高の贈り物で、最高の宝物なんだ』

 少年は嬉しそうにそういったあと、顔を曇らせた。

『だから、それからは君の夢にばかり行くようになって……ある日、いつものように君と遊んで、朝が来たから出ていこうとしたら……なぜか、君の夢から出られなくなっていた。はじめは、何が起こったのかわからなかったよ。でも、それまで感じたことのないほどの禍々しい気配を、夢の外から感じたんだ。そのとき、僕は初めて、自分の軽率さを心から悔やんだ。僕が何百年、何千年も遊び暮らしていた間に、主人も、〈あいつ〉の主人も、着実に回復してきていた。〈あいつ〉の主人は、一矢報いるために虎視眈々と僕を狙っていたんだ。僕がいなければ、主人は勝利することができない。そう確信していたに違いない』

「ねえ……あなたにはいったい、どんな力があるの? 敵は、あなたの何を、それほどまでに恐れているの?」

 少年は注意深くあたりを見回した。一面白い夢の世界では、何も見えないし何も聞こえない。少年は、〈あいつ〉の気配を探しているのだろう。

『……そこまで口にしてしまったら、〈あいつ〉が聞き逃さないだろう。とにかく、これだけは覚えておいて。旅から離れ、かけらから離れても……君は、最後には再び彼らとともに在る必要がある』
「……彼らが、私の中のあなたを必要とするなら、もちろん協力するわ。でも、それまでは……今のままでも、いいわよね? サリや姉さんと酒場で働き始めて、私……すごく久しぶりに、心から笑った気がする。こうやって、姉さんと、普通に暮らすこと。それを幸せだと、感じてもいいわよね……?」

 少年はナイシェを見て微笑んだ。やさしくも、憂いているようにも見えた。

『かわいいナイシェ。君には、幸せになる権利がある。僕は、君の幸せを願っている。本当だよ……』

 言葉とともに、少年の姿が薄れていく。

 もうすぐ、朝が来るのね。

 漠然と察する。

 みんな、私の幸せを願ってくれている。

 無の中にひとり残されたナイシェを、静寂が包む。

 なのにどうして、みんな辛そうに笑うのだろう?
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