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【第六部:終わりと始まり】第四章

紋章盗難事件とサラマ・アンギュースの関係

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 バルコニーにいると、夜風がひんやりと頬を撫でる。いつもは心地よいその風も、今夜は妙に不快に感じる。恐らく、空気のはらむ湿り気のせいだろう。どこかの侍女たちが、北東の空に垂れこめる灰色の雲の話をしていた。明日は雨に違いない。
 ジュノレは自室へ戻ると、上着を羽織った。火にかけた湯が沸くころ、扉を叩く音がした。いつものようにジュノレの返事を待ってから、テュリスが現れた。

「あいかわらず時間どおりだな」

 ジュノレは二人分の紅茶を注ぎ、テュリスとともにソファへ座った。前回同様、テュリスは抱えていた大量の書類をテーブルの上に置いた。

「エルシャから聞いたか?」

 前置きもなく、テュリスがいう。ジュノレはうなずいた。

「さすがに今回は……。ディオネがあんなことになったしな、多少の話は聞いた。おまえの耳に入ったら食いつくだろうと思っていたよ」

 テュリスはいまだにアルマニア六世紋章盗難事件を扱っていた。以前もジュノレと議論し、結局どのような推察をしても筋は通らなかった。推理を妨げる最大の要因は、盗難の動機だった。動機さえわかれば、事件の真実に近づける気がしていた。そして今回エルシャからもたらされた情報は、その根幹ともいえる部分に大きすぎる一石を投じた。

「護送中の馬車から逃走し、その直後殺されたジャン・ガールは、サラマ・アンギュースだった」

 テュリスが口火を切った。

「彼は操作の民であり、当時護送に携わっていた衛兵どもを金縛り状態にして逃げるくらい、朝飯前だった」

 いいながら、自らの頭の中を整理しているのだろう。そう思い黙って聞いていると、テュリスは舌打ちをして天を仰いだ。

「まさか、エルシャのいったとおりだとはな。あのときは、あまりに突拍子もない話に、俺は全く取り合わなかった。この事件に、サラマ・アンギュースが三人も関わっていたなんて、誰が想像できるか」
「あの時点では、情報が足りなかった。おまえの判断は正しかった」
「いわれなくてもわかっている」

 ジュノレは苦笑した。

「私としたことが、うっかりおまえの性格を忘れていたよ」

 自分の判断が間違っていたことを悔やんでいるのかと思いきや、そういうわけではなさそうだ。

「ちなみに、正確には、関わっていたサラマ・アンギュースは二人だ。ジャン・ガール、ハーレル・ディドロ。残るティルセロ・ファリアスは、神の民ではなかった。だが、神の民しか知るはずのない言語を使っていたという話だ。……この事実は、注目に値する」

 ジュノレの言葉にテュリスがうなずく。

「ティルセロの相方だったコクトーが、そうエルシャに話したそうだな。コクトーのやつ、何か隠しているとは思っていたが、まさかティルセロのいとこだとは。かけらを持っていないとはいえ、神の民の血筋だとわかれば自分も惨殺されるかもしれない。そう考えて、宮殿の人間には固く口を閉ざしていた。しかし……」

 テュリスは挑戦的に続けた。

「コクトーの話だけでは、ティルセロが神の民でなかったという根拠にはならない。実は奴もかけらを持っていたが、ティルセロを惨殺した何者かがそれを持ち去った可能性は残る」

 その言葉に、ジュノレは宙を見つめてしばらく思案した。テュリスのいう可能性についてもだが、それ以外にも考えることがあった。

「……おまえは、エルシャの怪我のことは知っているのか?」

 慎重に、ジュノレは切り出した。テュリスが眉をひそめる。

「そういえば、ディオネが運ばれた日、あいつも倒れてしばらく療養していたらしいな。俺が会ったときにはもう回復していたが、あれと関係しているのか?」

 やはり、テュリスは知らないのか。

 ジュノレは考えた。

 では、あのことを知っているのは、一部の医務方と私だけと思ったほうがよさそうだな。

 今話すべきなのか迷った。エルシャ自身が多くを語ろうとしないサラマ・アンギュースに関する使命について、自分がテュリスに伝えていいものいか。特にテュリスの性格を考えると、不用意に重要な事柄を漏らすのは得策ではない気もしていた。しかし、紋章盗難事件を本気で解決しようとするならば、今となっては、サラマ・アンギュースとの関わりは避けて通れない話題だ。
 結局ジュノレは、言葉を選びながら話し始めた。

「ディオネのことがある前に、エルシャも何者かに遅されて大怪我をした。命に関わるほどの重傷で、フェランたちは、彼を救うために神のかけらをその傷口に埋めたそうだ。そして、そのとき使われたかけらは、コクトーから譲り受けたものらしい。コクトーとティルセロの祖先が守ってきたかけらだ。彼らが神の民ではないのにナリューン語を話せるのには、そういうわけがあったんだ。コクトーはエルシャを信頼して、一家で守ってきたかけらを託した。だから、もしティルセロがもうひとつかけらを持っていたとしても、それをエルシャたちに隠す理由はない。つまり、ティルセロは本当に、かけらなど持っていなかったということだ」

 テュリスは終始険しい顔で聞いていた。しばらくおいてから、不機嫌そうにため息をつく。

「それは、初めて聞く情報だな」
「紋章盗難事件とは、直接関わりがないからな。だからエルシャも話さなかったんだろう。私が聞いたのだって、エルシャが一か月以上も安静が必要なくらい消耗していたことを知って、事情を尋ねたからだ。私が訊かなければ、彼は話す気もなかったらしい」
「ということは、だ。ティルセロ・ファリアスは、神の民だと誤解されて襲撃された、と見ていいな。整理すると……。盗難事件の容疑者六人のうち、三人が、サラマ・アンギュースだった。そして彼らは全員殺された。ティルセロは体内のかけらを探すため切り刻まれた。ハーレルは何者かに拷問を受け、『かけらを持っていたら殺される』と言い残して死んだ。ジャン・ガールに至っては、実際に悪魔の手先だと名乗る男が、彼を殺してかけらを奪ったことを認めた。つまり、紋章盗難事件は、金銭目的でもアルマニア七世失脚を狙ったものでもなく、悪魔の手先が、潜伏しているサラマ・アンギュースを抹殺するために企んだ可能性が濃厚になったということだ」

 そこまでいって、テュリスは自ら否定するように首を振った。

「もっとも理に適った推理だが、いまだに信じがたい。この仮定が真実なら、王家かそれに近い人間の中に悪魔の手先とやらが潜んでいるということになる。国が合法的に行ってきた捜査が、そいつに利用されていたということだ」

 ジュノレはうなずいた。

「多くの情報が国民からもたらされたが、そのうちの一部は、悪魔の手先によるデマだったということだな。恐らく彼らは国中に散らばっていて、くだんの三人が神の民であることは突き止めたものの、その所在が分からなかったり簡単に手を下せない状況だった。だから、国内随一の組織力を利用しようとした。ご丁寧に、盗難事件の犯人の一味だということにして、その口封じと見せかけるために、殺された容疑者六人の中に紛れ込ませたわけだ」
「俺は、みすみす殺させるためにジャン・ガールやハーレルを捕らえたということか……」

 珍しく、テュリスが悔しそうな顔を見せた。利用されたり裏をかかれることを極端に嫌うテュリスらしいと、ジュノレは思った。

「しかし……。こうなると、この事件は、エルシャの受けた神託と無関係というわけにはいかなくなった」
「エルシャも、気づいてはいるだろう。そもそも最初にこの突拍子もない推理を披露したのはあいつ自身だからな。だが、あいつはサラマ・アンギュース探しで忙しい。この宮殿内に潜む悪魔の手先探しは後回し、あるいはこちらで事件解決がてらその手先を突き止めることを多少は期待している、といったところか」

 テュリスの考えはもっともだが、ジュノレにはもうひとつ腑に落ちなかった。

 エルシャは私たちより先に、この宮殿内の王族かそれに近い人間に悪魔の手先が潜んでいることに気づいていたはずだ。慎重な彼のことだ、疑う対象には当然、私やテュリスも含まれているだろう。そうでなくとも、私たちからその手先へ情報が漏れる可能性を考えると、サラマ・アンギュースに関する情報はうかつには宮殿内で口に出せないはずだ。そんな彼がここまで話すということは、信頼の証なのか、それとも知られてもよい情報だからなのか。

 ジュノレは思案顔のテュリスの表情を盗み見た。

 彼が悪魔の手先だとは考えにくい。もしそうなら、ここまで事件解決に尽力しないはずだ。……いや、しかし、周りを欺くためなら、この程度はする人間か。

 そしてふと、エルシャの自分への態度を思い出した。

 エルシャははじめから、自身の使命についてジュノレには多くを語らなかった。それは、自分に心配をかけまいとする、あるいは何でもひとりで抱え込む彼の性格のためかと思っていたが、実はそうではなかったのかもしれない。信頼する恋人であったとしても、理論的には敵である可能性が残るなら、手の内をすべて曝すわけにはいかない――理性的なエルシャがそう考えても無理はないと思った。それは納得できるし、自分が同じ立場でも一度は同様のことを考えるだろう。だから、一瞬生まれた胸の奥のほうの痛みは無視することにした。

「さて。この事件の鍵だと思われていた動機の部分が解明された。しかし、黒幕は依然絞られない。つまり、リキュスの署名を偽造でき、王族専用口を開けることができる、王族の誰かだ」

「――いや、ひとり増えたぞ」

 テュリスがにやりと笑った。
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