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【第六部:終わりと始まり】第七章

ナイシェの強さ

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 ジュノレの作戦は、驚くほどうまく行っているように見えた。予想どおり、ディオネの手足の訓練が始まった。最初は病状が急激に悪化したという体裁で来たが、いざ医師が診察すると、手足の脱力の具合はアルマニア宮殿を離れたときとほとんど変わっていなかった。医師たちは頭を悩ませたが、ディオネが一週間ほど前に体調を崩してしばらく寝込んでいたのだと適当なことをいうと、それによる一時的な増悪だったのだろうと結論づけた。ナイシェとディオネが二人で訪ねてきたのだということを疑う者はおらず、ティーダはマリアについて少しずつ外へ出るようになっていたが、これも不審に思う者はいなかった。すべて、ジュノレの計画どおりに進んでいた。

 それからの数日は、信じられないくらい穏やかに過ぎていった。
 専用庭の見える室内のソファに腰かけ、ナイシェは庭で遊ぶティーダを見ながらマリアの淹れた紅茶を飲んでいた。こうしていると、自分たちが置かれている状況をつい忘れそうになる。追手から命からがら逃げ、一時は絶望の淵に立たされていたことすら、昔のことのようだ。

 ナイシェは向かいの椅子に座るジュノレの横顔を見た。かすかな微笑みを湛えて、庭で楽し気に花飾りを作っているマリアとティーダを眺めている。
 今、ナイシェがこんなにも心穏やかなのは、すべてジュノレのおかげだった。正直にいうと、エルスライを脱出し、ジュノレを頼ることしか思いつけなかったとき、彼女が受け入れてくれなかったらどうしようと不安だった。自分の都合でかけらを放り出したのに、こんなときだけかくまってくれとすがりつく自分に対して、嫌気がさしてもおかしくない。しかし、ジュノレは嫌な顔ひとつせずに三人を受け入れてくれた。
 ジュノレといる安心感は、エルシャのそれに似ていた。

「……ありがとう、ジュノレ」

 ジュノレが振り向いた。

「改まって、どうしたの」

 ジュノレがとても穏やかに微笑んでいる。初めて会ったころより、まとう空気が柔らかくなっている気がした。

「あなたにかくまってもらえるまで、私……何度も諦めそうになった。ティーダを守りたい、守らなきゃって思うのに、そんなことができる自信がなくて……。エルシャに会わなきゃと思ってここまで来たけど、一度かけらを捨てた私を、エルシャたちはどう思うんだろう、って不安になったり。姉さんに励まされて何とか辿り着いたけど、あなたに会えるまで、ずっと余裕がなくて。ジュノレがやさしく迎え入れてくれて、私……すごく、ほっとしたの」

 ジュノレは静かに耳を傾けている。

「あなたこそ、私たちの命の恩人だわ、ジュノレ」

 ジュノレはナイシェの目を見つめた。

「ナイシェ。あなたは自分が思うより、ずっと強い人間だよ。体の不自由なディオネと、あんな小さな少年を、破壊のかけらを埋めてまで守り切ったんだ。私は、そんなあなたの助けになれることを誇りに思うよ」

 なぜか、ナイシェの目に熱いものがこみ上げてきた。

「……私は強くなんかない。ジュノレや姉さんみたいに、強くなれない。誰かを頼らないと、全然前に進めないの」

 震える声は、自らを責めているようにも聞こえた。ジュノレはナイシェの肩にやさしく手をかけた。

「やさしく誠実な心は、ときとして弱く見えることがある。それはけして悪いことではない。そういう心の持ち主にしかなしえないことが、あるんだよ。例えば、ほら。人を信じることをやめてしまった少年の心を開くとか、周りの人間が手を貸さずにはいられなくなるとか。どれも、私には真似できないことだ。あなたはあなたらしく、いればいいんだよ」

 低く穏やかな声で語られたその言葉は、ゆっくりとナイシェの体に染み込んでいった。

 突然客間側の扉が開いて、ディオネが入ってきた。

「参ったわ、今日の訓練士にこってり絞られた! もうくたくたよ。……あれ、ナイシェ、どうしたの」

 毎日恒例の手指訓練を終えて戻ってきたところのようだ。ジュノレがばつが悪そうにいった。

「あなたの妹を泣かせてしまった。申し訳ない」
「違うの姉さん、ジュノレに慰めてもらってたの」

 ディオネが不思議そうに近づく。庭ではティーダが笑顔でマリアと遊んでいる。二人はすっかり打ち解けたらしい。

「さてはあんた、また突然不安になってジュノレに弱音吐いてたね? まったく、エルスライでのどえらい危機を脱して一安心ってときに、何を悩む必要があるの。うまく行ってるときは素直に喜んでればいいのよ」
「でも姉さん、エルシャたちにいつ会えるかもわからないし、本当にここで待っていて会えるのかもどうかも……」
「あーもうごちゃごちゃうるさいね! ツァラがいってたでしょ、求めれば与えられる。会いたいと心底願えば、必ず会えるから!」

 予想外に説教され、ナイシェの首がすくむ。

「まったく、あんたといいエルシャといい、考えても仕方のないことをぐだぐだと――あっと、ごめんジュノレ」

 ついいい過ぎて、慌てて口をつぐむ。ジュノレはまったく気にしていないようだった。

「かまわないよ、ディオネ。あなたのいうとおりだから」

 そういって笑っている。突然、その笑顔が美しく見えてディオネは胸がざわつく感じがした。

「彼も、ときどき考えすぎて次の一歩が出なくなるときがある。本人も、わかっているようだけどね。私はサラマ・アンギュースでも何でもないから、彼の力になってやることができない。見守ることすらできないのが、悔しいけどね……」

 ジュノレの声が、わずかに憂いをはらんでいた。初めて見る横顔だった。

「……ジュノレは、近くにいなくても、エルシャの力になってるよ」

 ディオネがいった。

「見てれば、わかる」

 そういってジュノレの肩をぽんと叩く。

「エルシャはいつも、大切なもののために戦ってる。それは、仲間だったり、ジュノレ、あんただったり。だから、大丈夫だよ。ジュノレはちゃんと、エルシャの力になってる」

 笑顔でいうディオネを見て、ジュノレの顔がほころんだ。その姿にまた、ディオネの心が波風を立てる。

 初めて会ったときと比べ、ジュノレは見るたびにその美しさを増している気がする。それは、最初のときのような凛とした強さではなく、穏やかで深い慈愛のような色をしている。男として生きてきた彼女をここまで女性らしく変えたのは、いうまでもなくエルシャだ。離れている時間がこんなに長くても、エルシャの存在はこれほどまでに彼女に影響している。そしてエルシャにとっても、ジュノレの存在がどれほどのものなのか、ずっとそばにいたディオネにはわかっていた。

 こんなに強い絆で結ばれた二人なのに、当人はそのことに気づいていない。こっちは、気づきたくなくても見えてしまうというのに。

 胸の奥の小さな疼きが取れない。この棘が抜けないのなら、むしろ一思いに打ち込んで、まとわりつく不快な感情ごと粉々に砕いてほしいとすら思うのだった。
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