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【第六部:終わりと始まり】第十章

解放と復活

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 次の瞬間、ナイシェの体の中心から穏やかな白い光が生まれた。暗黒に包まれていた青玉宮に、光明が差す。光はナイシェの体をゆっくりと離れ、刹那、散らばるように青玉宮に拡散した。

 ――ナイシェ、エルシャ、みんなありがとう。今、神が復活する――

 どこからともなく聞こえてきたその声は、ナイシェのよく知る、あの少年の声だった。

 ナイシェの左の腋窩が、小さく金色に輝いた。やがて光の珠となり、宙へ移動する。エルシャの背中、フェランやディオネの手首、ジュノレの懐――すべての神のかけらが鮮やかな金色の宝石となり、光り輝く。混沌の中で、あまりにもそぐわない美しい光のかけらたちが周囲を照らし、その神々しさに皆固唾を飲んだ。
 指先ほどの大きさの光玉は、引き寄せられるようにひとところに集まった。エルシャの腕に抱えられたリキュスの背中からも、柔らかな金の光を放つ珠が現れた。すべてがひとつになったとき、かけらはまばゆい閃光を放った。崩れ落ちた天井から天に向かい、目も眩むような光の柱が立ち昇る。底の知れない黒雲を突き破るように、強く太く光り輝いた。

 三度みたび鼓膜の破れるような迅雷が轟き、大地が鳴動した。青玉宮の天井が音を立てて崩壊し始め、支柱に亀裂が走る。

「崩れるぞ!」

 衛兵の声がした。生き残った兵士たちが、次々と出口へ走る。
 エルシャは我に返ってリキュスを見た。抱きかかえる腕の中で、リキュスはぐったりとしたまま動かない。支える左手に、生温かい血液が溢れる。

「リキュス――!!」

 エルシャは残る力を振り絞って白魔術を唱えた。かろうじて出血は止まったが、リキュスの様子は変わらない。
 地震はますます激しくなり、頭上に瓦解した大小の破片が降り注ぐ。粉塵が舞って呼吸すらままならない。

「エルシャ! もうもたない、早く!」

 叫ぶジュノレの目の前で、ディオネの頭上に天井が崩落する。

「ディオネ!」

 ジュノレはディオネの腕を力いっぱい引いた。そのまま出口を目指して何とか立ち上がる。振り返ったが、エルシャの姿は粉塵に紛れて捉えることができなかった。

「――出るぞ!」

 ディオネの手を引いて外へ出る。
 咳込みながら這いつくばって進むナイシェを、フェランが抱きかかえた。

「ナイシェ! 早く!」
「待って、ティーダは――!」
「大丈夫、ゼムズが連れ出しました」

 ふらつくナイシェに肩を貸し、フェランも青玉宮を脱出する。すでに屋根はその半分以上が崩壊し、柱の亀裂は限界に達していた。

 エルシャは動かないリキュスの腕をとって体を支えようとした。途端に、右肩に激痛が走る。すでに上半身の右半分は赤黒く血に染まり、感覚もなくなっていた。それでも動かそうとするたびに、肩から全身へと耐えがたい痛みがエルシャを貫く。左手を右肩にかざしてみた。しかし、もう己を治癒する力は残っていなかった。
 目の前で、青玉宮を支える柱のひとつが崩壊した。落ちてくる瓦礫から逃れるように身をよじらせる。

「リキュス! あと少しだ、頑張れ!」

 重く沈んだリキュスの体を引くが、リキュスの足が瓦礫の下敷きとなり抜けない。

「兄……上……」

 リキュスが弱々しい声でいった。

「私を置いて……早く、逃げて……」
「ふざけるな! 必ず助けてやる――!」

 渾身の力を込めてリキュスを引っ張るが、瓦礫に挟まった体は微動だにしない。
 二本目の柱に太い亀裂が入り、不穏な音を立てる。開け放たれた扉を埋めるように、崩れた壁や天井が折り重なった。

「何をしてる、無駄死にする気か」

 突如背後で声がした。振り返ると、テュリスが立っていた。無表情に、ぐいとエルシャの腕を掴む。

「出るぞ!」
「待て、リキュスがまだ――」
「そんな死にぞこないは放っておけ!」

 テュリスが怒鳴る。しかしエルシャは動かなかった。
 大きく地面が揺れ、青玉宮をかろうじて覆っていた残りの天井が一気に崩れた。テュリスは舌打ちをすると、呪文を唱えた。分厚い天井が三人を押し潰す寸前、その姿が跡形もなく消え去った。





 この世の終わりというものがあるのなら、まさにそれだった。

 水晶宮からやや離れ、視界の開けた大庭園は、怒号と悲鳴で満たされていた。老若男女、貴族も使用人も入り乱れて、ぶつかりながら逃げまどっている。子供の泣く声がどこからか聞こえ、混乱極まった人間たちを兵士が懸命に誘導している。
 上空は闇の色をした雲が徐々に厚く低く垂れこめ、大地を飲み込もうとする。光の届かない空間では、誰が無事なのかもわからない。混沌がすべてを支配しようとしていた。

 度重なる霹靂と地鳴りに、エルシャは思い出していた。

 この光景を、知っている。
 タラ・ム・テールの再来だ。

 エルシャは後ろの空を見上げた。すでに残骸と化した青玉宮から立ち昇った光の柱が、太く空へ突き刺さり、そして消えた。

「神のかけらは――間に合ったのか……?」

 深く垂れこめていた黒雲が次第にとぐろを巻き始め、巨大な渦へと形を変えていく。激しく揺れる大地に亀裂が入り、ゆっくりと引き裂かれる。逃げ惑う者たちの真ん中で、エルシャはリキュスを抱えたまま動けなかった。
 不意に、黒雲を分断するように、空に金色の線が走った。天が唸り、体を芯から凍てつかせるような振動にも似た低い轟音が一帯を覆い尽くす。一筋の金の光が、雲を割るようにゆっくりと輝きを増し、それは帷幕いばくのように大地へ届いた。まばゆい黄金の光が、漆黒に侵蝕された空をみるみる浄化する。

「――神よ……」

 言葉が漏れた。
 その気高いほど美しく圧倒的な光に、目が眩む。瞼を閉じてもなお、その輝きは留まることを知らずエルシャの中を満たした。

 喧騒が、遠ざかっていく。自分が自分でなくなるような感覚だ。

 不思議なほどに、穏やかだった。人々の叫び声の中に、自分の名を呼ぶ声がする。薄れていく意識の中で、唐突に脳裏に浮かんだのは、緑の草原だった。黄昏宮の西にある、秘密の裏庭。

 人影が見える。とても近くにいるのに、太陽の光が目に入って誰だかわからない。目を凝らす。

 誰かがしきりに遠くで名を呼んでいる。

 人影に、手を伸ばした。それが届く前に、エルシャは意識を手放した。
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