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【第一部:王位継承者】第十一章

苦悩のエルミーヌ~少年を封じる者

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 エルミーヌ・マニュエルは、小さな木々に囲まれた茂みの中に立っていた。
 鳥のさえずりが聞こえる、人の気配のない快い場所。
 物憂げに、青い芝生の上に腰を下ろした。

 この軟らかい草の感触。温かくて、ぬくもりがあって……隣に、あの方がいて。

 そして深いため息をつく。

 でも、数か月前からそのお姿が見えなくなり、今日久しぶりにお見掛けしたとき、あの方は気づいていらしたのに何もおっしゃらなかった。とても冷たい瞳で私を一瞥して、去ってしまった。

「どうしてかしら……」

 目頭が熱くなる。こうして佇んでいると、今にもあのときのように彼が現れそうで、それがあり得ない現実に無性に悲しくなる。
 不意に、背後で音がした。期待をして、反射的に振り返る。しかし、物音の主がエドールだったことがわかると、突然堪えていた涙が溢れてきた。

「エ、エルミーヌ? 驚かせてしまったかい?」

 彼女の肩に、そっと大きな手が触れた。エルミーヌはかぶりを振った。

「違うの、違うんです。ごめんなさい……」

 懸命に嗚咽を堪えてしゃくりあげるエルミーヌに、エドールが優しく声をかけた。

「……ジュベール殿のことかい?」

 想いを断ち切る覚悟で結婚を決断したのに、いまだに未練が残り、夫のエドールにまで気を遣わせている。そんな自分がどうしようもなく嫌だった。

「無理はしなくていいんだよ、私はすべて承知で君と結婚したんだから」

 エルミーヌは涙を拭いてエドールの目を見つめた。

「いえ……大丈夫です。私……あの方を思い出にするために、ここに来たのですから。今日は泣いてしまったけれど、この次は泣きません。こんなの、私らしくありませんもの」

 そして、何とか笑ってみせた。それを見て、エドールもほっとしたように微笑む。

「そうだね。君は、元気がいいほうが似合っている」

 エドールの目は澄んで、まっすぐ自分を見ている。その目が本当に追いかけている女性は自分ではないのかもしれない。それでも、真摯に自分と向き合おうとするその心は本物だ。

 この人なら、時間がかかっても、私を待っていてくれるかもしれない。

 エルミーヌは、差し出されたエドールの右手を取った。その手は温かく、優しくエルミーヌの左手を包みこんだ。





 ナイシェは真っ白な無の世界の中で、少年の姿を探し続けた。

「ねえ、いるんでしょう? 出てきてよ!」

 しかし、少年の姿はおろか気配すら感じられない。こんなことは今までになかった。
 不安の中でナイシェが途方に暮れていると、どこからかかすかに声が聞こえてきた。

『ナ……イ、シェ……』
「どこ? どこにいるの?」

 あたりを見回すが誰もいない。

『ここは……だめ……〈あいつ〉の力が、強くて……宮殿の、外……へ……』

 少年の声はみるみる小さくなり、そして消えてしまった。

「外なら大丈夫なのね? わかったわ!」

 目を覚ますと、ナイシェはショールを羽織り、ディオネを起こさないようそっと部屋を出た。
宮殿からなるべく遠い場所へ。
 ナイシェは、テュリスがはじめに連れてきてくれた、南の草原へと向かった。





「ねえ、もう出てこられる?」

 ナイシェの呼びかけに応じて、少年がぼんやりと姿を現した。

『ナイシェ……なんとか、ここなら……』

 その姿は今までにないほど不鮮明で、ほとんど消えかけている。

「どうしてこんなことに? まさか……」

 不安がるナイシェに、少年がうなずいていった。

『わかってきたよ……。〈あいつ〉は、たぶん……この宮殿にいるんだ……。ここに近づけば近づくほど、その力が強くなるもの……』
「そんな……」
『ナイシェ、忠告があるんだ……。サルジアのことだけど。彼女の力には、気をつけて……。魔術以外の、別の力を、使っている……』
「別の……? 魔術以外に、不思議な力が存在するの?」
『これ以上は……いえない……くれぐれも、気をつけて……』

 それだけいい残して、少年は姿を消した。漠然とした憂慮にとりつかれたナイシェだけが、その場にとり残された。





「はっくしょん!」

 ナイシェは鼻をすすりながらショールを肩に掛け直した。いくら初夏とはいえ、真夜中に少年と話すために原っぱの真ん中で寝るなんて、自分でもばかげたことをしたと思う。

「早く戻らなきゃ」

 ナイシェは遠くで薄暗く光る中門の灯りを目指して走り出した。そのときだった。

「こんな夜中に出歩いていると、風邪をひいてしまうよ」

 背後で知らない男の声がした。
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