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【第二部:天と地の狭間】第一章
フェランの記憶
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時はアルマニア七世の時代。緑豊かなアルマニア王国を統べる若き国王は、山や森に囲まれた聖地アルマニア宮殿に住む。そして物語は、国王の兄である第一級神官エルシャとその同胞の旅立ちから始まる――。
彼らは南へ向かっていた。三人の男と、二人の女――いずれも質素な衣服に大きな革袋を背負い、いかにも旅の者といった風情だ。しかし、アルマニア宮殿の南に位置する森を南下する旅人は珍しい。なぜなら、大陸の南東に位置する宮殿よりさらに南には、今では廃墟同然となった貧村、イルマくらいしかないからだ。普通の旅人ならば、芸能巡業や行商人すら寄りつかないこの村に、いったい何の用があるというのだろう。
「で、どうして俺まで同行しないといけないんだ?」
歩きながら文句をいう男に、前方を行く女が答える。
「ちょっとぐらい我慢しなさいよ、ゼムズがいるかもしれないってのに」
「だから、その面識のないやつのためにどうして、っていってるんだ。俺はサラマ・エステには行くといったが、イルマに付き合うといった覚えはない」
「もとはといえば、彼が大怪我したのだってあんたのせいなのよ!」
「たまたまそいつが居合わせただけだろう、人のせいにするな」
「どうかしらね、ゼムズに事情を話したら、あんた、生きて帰れないかもよ。……そういう意味では、ついてこないほうがよかったかもね?」
意地悪く女が笑う。すると、濃い茶の髪をした長身の男がいった。
「でも、いまさら戻れないよな。宮殿には『ジュノレの薬を探してくる』って勇ましくいいきってしまったしなあ、テュリス?」
テュリスと呼ばれた男は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「いいきったのはおまえだろう、エルシャ」
「それにしても、どうしてフェランの予見がイルマのことかもしれないって考えたの?」
まだ幼さの残る少女、ナイシェがエルシャに問う。
もともとサラマ・エステを目指すはずだった一行が急遽その行き先をイルマに変更したのには、理由があった。フェランが、怪我を負ったゼムズと再会する予見をしたからだ。ジュノレの死に続く二度目の予見で、フェランにもその感覚には自信があった。
ゼムズは間違いなく生きている。そして、再開する場所は、草木の豊かな集落のようなところ――それも、一見して人が住んでいるとは思えないような、古びた家屋や壊れかけの建物が目立つ、没落した村のようなところだ。再会するのがいつなのかまではわからないが、フェランがエルシャに話すと、彼はサラマ・エステよりも先にイルマへ行くことを決断した。
「ああ……フェランの視た風景は、廃れた田舎のようなところだった。イルマなら当てはまるし、ゼムズの故郷でもある。大怪我を負ったゼムズがイルマに戻ってくる可能性があるかもしれない、と思ってな。それに……」
そこで、エルシャは口をつぐんだ。
「それに、なに?」
「……いや、なんでもない」
ひょっとしたらイルマは、フェランにとっても……故郷かもしれない。
口には出さずに、ちらりと隣を見る。栗色の長い髪を丁寧に編んだ、女性とも見まがう顔立ちの青年、フェランだ。彼は先ほどから少し眉をひそめてあたりを見回していた。
「……見覚えでもあるのか?」
エルシャの問いに、フェランがはっと振り返る。そして高く澄んだ声で答えた。
「……ええ、気のせいかもしれないんですが……でも……」
そういって、頭に手を当てる。
「この頭痛……あのときと似てる……」
「あのとき?」
「ええ、この前、トスタリカから宮殿に転移したときの。エルシャと出会った草原に立った途端、何か思い出しそうになって……それから急に、頭痛が……」
「つまり……何か思い出そうとするたびに、頭痛が起きるということか」
エルシャのいい方に、フェランが不安げな顔をする。
「それはやはり……僕の記憶が、何者かに封じられている、ということでしょうか……?」
沈黙が流れる。その質問に答えらえる者はいなかった。
「でも、それならなおさら、イルマに行ってみないとね」
ナイシェがいう。
第一級神官であるエルシャが三百年ぶりという神からの直々の御言葉によって神の民、サラマ・アンギュースを探すようになって四カ月が過ぎた。破壊の民ナリューン、予見の民シレノス、創造の民パテキア、操作の民タリアナ、記憶の民クラマネ、封印の民オルセノの六種族のうち、見つかったのはナリューンのディオネ、その妹であるパテキアのナイシェ、そしてシレノスのフェランとゼムズである。そのフェランの、エルシャと出会うまでの記憶が何者かに封じられたとすると、それは彼がシレノスであるという事実を隠すためだろうことは想像に難くない。それだけではない。もしかすると、彼の出身地にも、何か重大な秘密が隠されているのかもしれない。
フェランの反応を見て、エルシャはそんなことを考えていた。
深い深い森の中にある忘れ去られた村、イルマを目指して、五人はひたすらに馬を進めた。
「フェラン……? 大丈夫?」
冷や汗をかきながら頭痛を堪えているフェランに、ナイシェが声をかける。フェランはわずかに微笑んだ。
「ええ……やはり、この頭痛は僕の過去の記憶やイルマに関係している……そうとしか思えません。なら、必ず記憶を……取り戻してみせます」
森はどんどん深くなり、はっきり見えていた道もいつの間にか獣道程度のものになっている。
「本当にこんな方向に村があるの?」
不安げなディオネに、エルシャがうなずく。
「地図によるとこちらの方角だし、それに……」
フェランの様子を見る。先ほどよりも辛そうだ。
「フェランを見ても、どうやら正しいようだ」
道らしい道もなくなり、一行は馬を引きながら垂れ下がる枝葉をかき分け進んでいった。太陽は真上に昇り、フェランは真っ赤な顔をして息を乱している。
――イクナ……イクナ……ソチラヘハイクナ……!
頭の中で繰り返し響く言葉が心をかき乱す。屈服しそうになる精神を奮い立たせながら、フェランは前進した。殴るような頭痛はすでに感覚を失わせるくらいまで強くなっている。木々が行く手を塞ぎもはや先へ進めないと思うまでになったとき、突然視界が開け、小さな広場のような場所が目に飛び込んだ。
「ここ……?」
ディオネが呟く。あまりにも閑散とした風景だった。ところどころ修理の施してある粗末な木の家が、ぽつんぽつんと五つほど。といっても、人間が住んでいる気配がするのは二、三軒。あとは無残にも焼き払われたり取り壊されたりしていた。おそらく、十三年前の事件以来だろう。
「ここが……イルマ……」
そのとき、突然フェランが苦しそうに頭を押さえた。
「大丈夫か?」
エルシャが肩を支える。フェランはかすれた声で呟いた。
「覚えてる……頭の、奥のほうで……何かが……」
――オモイダスナ。ワスレタママデイイ。ソノホウガシアワセダ――!
強い声に気が狂いそうだった。
「だ……誰か探さなきゃ!」
ナイシェがあたりを見回したとき、ちょうどひとつの家から老人がふらりと出てきた。彼はすぐに五人に気づき、よろめく足取りで近づいてきた。
「こんなところで、どうなさった。旅のお方かね?」
「どこか、横になれるところはありませんか」
老人は、今にも倒れそうなフェランを今出てきた家へ案内した。
「大丈夫かね、旅のお方」
「すみません……」
苦しそうに頭をあげ礼をいうフェランを見て、老人はふと足を止めた。
柔らかい薄茶色の髪と、緑の瞳。そしてその繊細な顔立ち。
老人の口がかすかに開き、言葉が漏れた。
「セーイ……」
彼はフェランの顔を凝視したまま再び繰り返した。
「セーイ……アルセーイ!」
――セーイ……アルセーイ!
頭の中で、何かがはじけた気がした。
アルセーイ――とても懐かしい響き。記憶よりも体がよく覚えている、大切な名前。
「アル……セーイ……」
フェランはどんどん激しくなる頭の中の声に抵抗するかのように呟いた。
オモイダスナ! オモイダスナ!!
息もできないほどの痛みの中で、フェランは再び口を開いた。
「アルセーイ……!」
全身を貫く痛みに耐えるには、体が限界に達していた。周りの人間の声が遠ざかる中、フェランの意識は闇へと吸い込まれていった。
彼らは南へ向かっていた。三人の男と、二人の女――いずれも質素な衣服に大きな革袋を背負い、いかにも旅の者といった風情だ。しかし、アルマニア宮殿の南に位置する森を南下する旅人は珍しい。なぜなら、大陸の南東に位置する宮殿よりさらに南には、今では廃墟同然となった貧村、イルマくらいしかないからだ。普通の旅人ならば、芸能巡業や行商人すら寄りつかないこの村に、いったい何の用があるというのだろう。
「で、どうして俺まで同行しないといけないんだ?」
歩きながら文句をいう男に、前方を行く女が答える。
「ちょっとぐらい我慢しなさいよ、ゼムズがいるかもしれないってのに」
「だから、その面識のないやつのためにどうして、っていってるんだ。俺はサラマ・エステには行くといったが、イルマに付き合うといった覚えはない」
「もとはといえば、彼が大怪我したのだってあんたのせいなのよ!」
「たまたまそいつが居合わせただけだろう、人のせいにするな」
「どうかしらね、ゼムズに事情を話したら、あんた、生きて帰れないかもよ。……そういう意味では、ついてこないほうがよかったかもね?」
意地悪く女が笑う。すると、濃い茶の髪をした長身の男がいった。
「でも、いまさら戻れないよな。宮殿には『ジュノレの薬を探してくる』って勇ましくいいきってしまったしなあ、テュリス?」
テュリスと呼ばれた男は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「いいきったのはおまえだろう、エルシャ」
「それにしても、どうしてフェランの予見がイルマのことかもしれないって考えたの?」
まだ幼さの残る少女、ナイシェがエルシャに問う。
もともとサラマ・エステを目指すはずだった一行が急遽その行き先をイルマに変更したのには、理由があった。フェランが、怪我を負ったゼムズと再会する予見をしたからだ。ジュノレの死に続く二度目の予見で、フェランにもその感覚には自信があった。
ゼムズは間違いなく生きている。そして、再開する場所は、草木の豊かな集落のようなところ――それも、一見して人が住んでいるとは思えないような、古びた家屋や壊れかけの建物が目立つ、没落した村のようなところだ。再会するのがいつなのかまではわからないが、フェランがエルシャに話すと、彼はサラマ・エステよりも先にイルマへ行くことを決断した。
「ああ……フェランの視た風景は、廃れた田舎のようなところだった。イルマなら当てはまるし、ゼムズの故郷でもある。大怪我を負ったゼムズがイルマに戻ってくる可能性があるかもしれない、と思ってな。それに……」
そこで、エルシャは口をつぐんだ。
「それに、なに?」
「……いや、なんでもない」
ひょっとしたらイルマは、フェランにとっても……故郷かもしれない。
口には出さずに、ちらりと隣を見る。栗色の長い髪を丁寧に編んだ、女性とも見まがう顔立ちの青年、フェランだ。彼は先ほどから少し眉をひそめてあたりを見回していた。
「……見覚えでもあるのか?」
エルシャの問いに、フェランがはっと振り返る。そして高く澄んだ声で答えた。
「……ええ、気のせいかもしれないんですが……でも……」
そういって、頭に手を当てる。
「この頭痛……あのときと似てる……」
「あのとき?」
「ええ、この前、トスタリカから宮殿に転移したときの。エルシャと出会った草原に立った途端、何か思い出しそうになって……それから急に、頭痛が……」
「つまり……何か思い出そうとするたびに、頭痛が起きるということか」
エルシャのいい方に、フェランが不安げな顔をする。
「それはやはり……僕の記憶が、何者かに封じられている、ということでしょうか……?」
沈黙が流れる。その質問に答えらえる者はいなかった。
「でも、それならなおさら、イルマに行ってみないとね」
ナイシェがいう。
第一級神官であるエルシャが三百年ぶりという神からの直々の御言葉によって神の民、サラマ・アンギュースを探すようになって四カ月が過ぎた。破壊の民ナリューン、予見の民シレノス、創造の民パテキア、操作の民タリアナ、記憶の民クラマネ、封印の民オルセノの六種族のうち、見つかったのはナリューンのディオネ、その妹であるパテキアのナイシェ、そしてシレノスのフェランとゼムズである。そのフェランの、エルシャと出会うまでの記憶が何者かに封じられたとすると、それは彼がシレノスであるという事実を隠すためだろうことは想像に難くない。それだけではない。もしかすると、彼の出身地にも、何か重大な秘密が隠されているのかもしれない。
フェランの反応を見て、エルシャはそんなことを考えていた。
深い深い森の中にある忘れ去られた村、イルマを目指して、五人はひたすらに馬を進めた。
「フェラン……? 大丈夫?」
冷や汗をかきながら頭痛を堪えているフェランに、ナイシェが声をかける。フェランはわずかに微笑んだ。
「ええ……やはり、この頭痛は僕の過去の記憶やイルマに関係している……そうとしか思えません。なら、必ず記憶を……取り戻してみせます」
森はどんどん深くなり、はっきり見えていた道もいつの間にか獣道程度のものになっている。
「本当にこんな方向に村があるの?」
不安げなディオネに、エルシャがうなずく。
「地図によるとこちらの方角だし、それに……」
フェランの様子を見る。先ほどよりも辛そうだ。
「フェランを見ても、どうやら正しいようだ」
道らしい道もなくなり、一行は馬を引きながら垂れ下がる枝葉をかき分け進んでいった。太陽は真上に昇り、フェランは真っ赤な顔をして息を乱している。
――イクナ……イクナ……ソチラヘハイクナ……!
頭の中で繰り返し響く言葉が心をかき乱す。屈服しそうになる精神を奮い立たせながら、フェランは前進した。殴るような頭痛はすでに感覚を失わせるくらいまで強くなっている。木々が行く手を塞ぎもはや先へ進めないと思うまでになったとき、突然視界が開け、小さな広場のような場所が目に飛び込んだ。
「ここ……?」
ディオネが呟く。あまりにも閑散とした風景だった。ところどころ修理の施してある粗末な木の家が、ぽつんぽつんと五つほど。といっても、人間が住んでいる気配がするのは二、三軒。あとは無残にも焼き払われたり取り壊されたりしていた。おそらく、十三年前の事件以来だろう。
「ここが……イルマ……」
そのとき、突然フェランが苦しそうに頭を押さえた。
「大丈夫か?」
エルシャが肩を支える。フェランはかすれた声で呟いた。
「覚えてる……頭の、奥のほうで……何かが……」
――オモイダスナ。ワスレタママデイイ。ソノホウガシアワセダ――!
強い声に気が狂いそうだった。
「だ……誰か探さなきゃ!」
ナイシェがあたりを見回したとき、ちょうどひとつの家から老人がふらりと出てきた。彼はすぐに五人に気づき、よろめく足取りで近づいてきた。
「こんなところで、どうなさった。旅のお方かね?」
「どこか、横になれるところはありませんか」
老人は、今にも倒れそうなフェランを今出てきた家へ案内した。
「大丈夫かね、旅のお方」
「すみません……」
苦しそうに頭をあげ礼をいうフェランを見て、老人はふと足を止めた。
柔らかい薄茶色の髪と、緑の瞳。そしてその繊細な顔立ち。
老人の口がかすかに開き、言葉が漏れた。
「セーイ……」
彼はフェランの顔を凝視したまま再び繰り返した。
「セーイ……アルセーイ!」
――セーイ……アルセーイ!
頭の中で、何かがはじけた気がした。
アルセーイ――とても懐かしい響き。記憶よりも体がよく覚えている、大切な名前。
「アル……セーイ……」
フェランはどんどん激しくなる頭の中の声に抵抗するかのように呟いた。
オモイダスナ! オモイダスナ!!
息もできないほどの痛みの中で、フェランは再び口を開いた。
「アルセーイ……!」
全身を貫く痛みに耐えるには、体が限界に達していた。周りの人間の声が遠ざかる中、フェランの意識は闇へと吸い込まれていった。
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