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【第二部:天と地の狭間】第六章

愛憎の果てにあるもの

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 今にも落ちてきそうな満天の星の下、彼女はバルコニーに立っていた。海の底のように深い紺色の空を見つめながら、心地よい晩夏の風に身をゆだねる。夜も更け、遠くのほうでかすかに聞こえる音楽以外に、音はない。
 多くの人間に囲まれ喧噪の中にいたときには忘れていられたが、ひとりきりになると、どうしようもない苦しみが彼女の心をかき乱す。愛、憎しみ、悔恨、自責――母親のいいなりになっているときには感じたことのなかった様々な感情が体中を駆け巡り、どう対処したらいいのかわからない。

「――開いていたから、勝手に入ったよ」

 突然、背後で声がした。振り返って相手を認めると、胸のざわつきがひどくなった。息苦しくなり、再び空へと目を戻す。声の主、エルシャは黙って風になびく彼女の黒髪を見つめていた。

「少し騒ぎすぎたみたいでね……ちょっと、風にあたっていたんだ」

 エルシャは何もいわずに彼女の隣へ行った――少しだけ、距離を置いて。

「……ありがとう」
 天を見つめたまま、彼女はいった。そして、エルシャのほうへ向き直る。
「まだ、いっていなかったからな」

 エルシャはしばらくその視線を受け止めていたが、やがて小さく笑ってうつむいた。

「礼などいらない――わかっているだろう」

 そしてジュノレに背を向けた。

「……また、サラマ・アンギュース探しの旅に出ることになる。しばらく宮殿を離れることになるから、別れをいいに来た。……弟を、頼む」

 それだけいい残し、部屋を去ろうと歩き出した背中に、ジュノレの鋭い声が浴びせられた。

「そうやって、逃げるのか!?」

 エルシャの足が止まる。

「そうやって、私と……向きわないつもりか? サラマ・エステの薬草を届けてくれたきり、おまえは私を避けている。そうだろう?」

 エルシャは黙ったままだった。ジュノレの声が、怒りに震える。

「私だって……私だって、自分の感情を持て余している。でも、すべて自分が招いたことだ。だから、向き合おうと……自分自身の感情に折り合いをつけようとしているのに……。おまえが私を避けていたら、私はどうやって、自分の気持ちに決着をつければいいんだ!?」

 エルシャがゆっくりと振り向いた。にらみつけるように見つめるジュノレの瞳が、うっすらと涙で濡れている。エルシャは胸が苦しくなった。
 愛する女の瞳に浮かぶのは、怒りと苦渋。彼女を苦しめたくはない。だからこそ、身を引こうとした。だが、それは間違いだと彼女が告げている。自らの傷をえぐり、彼女の傷をえぐることになろうとも、この感情に向き合わなければいけない――彼女の目が、そう告げていた。
 エルシャは重いため息をついた。

「……俺に、おまえを愛する資格はない」

 それだけいう――まるで、自分の口から発せられた言葉ではないかのようだ。ジュノレはしばらくの沈黙ののち、小さく笑いを漏らした。

「私に負い目がある、か……?」

 ジュノレが、まっすぐ自分を見つめている。エルシャは息苦しくなり、目を逸らしたくなった――だが、できなかった。

「見ていたんだろう……? 俺は……おまえの母親を、おまえの目の前で――」

 それ以上はいえなかった。決定的な一言をジュノレから引き出すことになりそうで、怖かった。

「ああ……。現実と幻想の狭間で、おぼろげに、でも確かに……見たよ。おまえが、母上を――殺すのを」

 ジュノレがいった。感情の起伏はない。不思議な沈黙が二人の間を流れた。

「おかしいね……。何があっても、おまえへの気持ちは変わらないと思っていた。でも、あれを見た瞬間――おまえを、憎んだ」

 エルシャは口を閉ざしたままだった。

「愛と憎しみで、頭の中がぐちゃぐちゃになった。不思議だろう? 私は、母上が死んで初めて気づいたんだ――あんな親でも、愛していたということに」

 愛していた。その一言は、エルシャの中で重くこだました。ジュノレが涙をこらえるように上を向いた。

「どうしてだろう……。愛されていないのはわかっていたのに。母上にとって私などただの駒にすぎない、と。そして、おまえが手を下したのだって、私のためだということはわかっていた。おまえがひとりで母上の死の責任をとろうとしていることも、すべてわかっていたのに――」

 たまらなくなってジュノレは地に視線を落とした。小さなしずくが、その瞳から零れ落ちる。

「どうして、感情は思いどおりにならないんだろう……胸が、苦しいんだ……!」

 おまえの顔を見るたびに、私の中の何かがうずくんだ――。

 肩を震わせて、彼女は声もなく泣いていた。それを見て、エルシャは大きくひとつ息をついた。

「やはり俺は……おまえを、苦しめるだけだな」

 わかっていた。サルジアを自らの手で殺めたときから、ジュノレの心はもう自分へは戻らないかもしれないと、覚悟はしていた。それでも、それを目の前に突きつけられると、耐えがたい苦痛がエルシャを襲った。
 固く唇を噛み、エルシャはもう一度背を向けた。そして扉へ向かって歩き出す。そんな彼の背中を、ジュノレは無言で見つめていた。

 このまま彼が出ていけば、それですべてが終わる。エルシャはもう、二度と戻ってこない。これで、楽になるはずだ。彼の姿を認めるたびに苦しくうずいたあの痛みとも、決別できる……。

 涙に滲む小さなエルシャの後ろ姿を見ながら、ジュノレは思った。

 ……ならばどうして、この瞬間にも、痛みは増すのだ……?

 エルシャの手が扉に触れたとき、ジュノレの右手が突き動かされるように彼の腕をつかんだ。

「……おまえが……っ!」

 悲痛な叫び声。

「おまえが、愛しているといったんだ……! その責任を、取れ……!」

 エルシャが振り向いた。見たこともないほど裸の感情をまとい、熱く潤んだ漆黒の瞳が、自分を凝視している。ジュノレは固く握ったこぶしを力いっぱいエルシャの胸に叩きつけた。

「おまえがあんなことをいわなければ、私は今までどおりの私でいられたんだ! おまえが離れる決断をしたって、傷つかなかった。自分を、抑えることができたのに……!」

 そしてエルシャの胸に顔をうずめると、肩を震わせた。

「私は、わがままで罪深い女だ……。おまえを許せないといっておきながら、こんなにも、愛したがっている……」

 苦し気にそう絞り出す。エルシャは無防備なその背中にそっと手を回した。

「俺は……おまえのその想いに甘んじるような、弱い男だ……。それでもか?」

 ジュノレがゆっくりと顔をあげる。

「……それは、お互い様だ。私は、おまえを追いつめてばかりだった。トスタリカで別れるときも、母上のときも……。おまえをこんなに苦しめたのは私なのに、私は自分のことばかり考えている」

 エルシャの指がジュノレの涙をやさしく拭い、その大きな手が包みこむようにジュノレの頭を胸へ抱き寄せた。

「ジュノレ……愛している。おまえが受け入れてくれるのなら……望むのは、おまえだけだ。宮殿を離れようと、それはずっと変わらない」

 ジュノレはエルシャの胸へ身を預けたまま、小さくうなずいた。

「エルシャ……おまえには使命がある。だから、私をそばに置いてくれとはいわない。ただ、私を……おまえの心の中に、置いてくれ」

 返事をする代わりに、エルシャは涙に濡れたジュノレの澄んだ瞳を見つめながら、温かく微笑んだ。

「必ず戻る――待っていてくれ」

 細い体を震わせ、苦し気に自分を見つめるジュノレの頬にそっと手をあてると、エルシャはその唇にやさしく口づけた。





 エルシャ、フェラン、ナイシェ、ディオネの四人がアルマニア宮殿をあとにしたのは、その三日後だった。サラマ・アンギュースを見つけ出すという使命のため、今度は宮廷から正式に見送られる形で、彼らは旅立った。しかしこれが、過酷な旅の序章にすぎないということを、彼らはまだ知らない――。
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